明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(13)

(征韓論本論―西郷は征韓論者か) その1

 西郷も人の子である。幕末の尊王攘夷論者由来の朝鮮蔑視史観の影響を受けていなかったとは私も断言しない。しかし、いま問題にしている征韓論は、武力で威嚇をし、あるいは武力を行使して、朝鮮を屈服させるべきだという政論である。その意味の征韓論についていえば、西郷は、既に述べたところから明らかなようにはっきりしたアンチ征韓論者であったと断言してよい。
 
 この点に関して、いや西郷こそゴリゴリの征韓論者であった、これらがその証拠だと言って常に持ち出されるのが、①自分を使節として送る決定がなされるように助力を願って板垣に送った手紙の文面、②三条に直接頼み込んだ手紙の文面、③さらにそれが内定した後、そのとおり実行されるように協力を求めた板垣への手紙の文面、あるいは三条に対する督促の手紙の文面その他の言動である。そこでこれらを一瞥しておくこととする。

 一番目は7月29日付板垣宛ての手紙。

「(超訳要旨)副島も帰国したが、もし遣朝鮮使節の評議がまだなら病をおしても出席する。兵隊を先に派遣することはダメだ。使節を先に立てるべきだ。そうすれば先方が暴殺するだろう。副島君のような立派な使節はつとまらないが死ぬくらいのことはできる。是非、私を遣わしてほしい。」

 このころ西郷は体調をこわし、下痢続きだったので、閣議も欠席しがちであった。使節が副島に決定することを必死に阻止しようとしたことが文面からうかがえる。
 この文面から、一般に、西郷は、捨て石になることによって朝鮮出兵の口実を作ろうとしたのだというように言われている。
いわゆる「使節暴殺論」である。しかし、「使節暴殺論」は、征韓論者向けのレトリックに過ぎないとの説(毛利敏彦『明治六年政変』中公新書など)に、私は軍配をあげる。
 なぜなら、西郷が、丸腰、烏帽子直垂の正装、礼を厚くして談判に及ぶべきことを主張しているのであるが、そのような使節が暴殺されるなどというのは、朝鮮を突飛な国、野蛮な国するう観念に毒された暴論であるから。西郷は、朝鮮を、数百年来、国交を通じてきた国であり、王政復古以来の関係は不正常と嘆きこそすれ、朝鮮を野蛮な国とする観念とは無縁であった。
 それはむしろ戦争を防ぐ目的だと考えるのが常識にかなうであろう。

 板垣は、留守政府の参議中では西郷に次ぐ実力者。その板垣が、兵士一大隊を派遣せよ、これは正当防衛だと言って、まっさきに閣議に提出された武力を用いて談判するとの原案に賛成したのであるから、板垣の心を引きつけなければならなかった。その故に多少論理の飛躍があっても戦争を避けようとしているのではないことを印象付ける必要があったのでこのようなレトリックを用いたのだろう。
 
 二番目は、8月3日付三条宛ての手紙。朝鮮への使節派遣の必要性を説き、「なにとぞ私を差し遣わされたく」と懇願しいている。

 これもまた本議案の提出者が三条であり、原案が「居留民保護のためにも、陸軍若干、軍艦数隻を派遣し、九州鎮台にて即応態勢をとり、談判に及ぶべきである」とされているのであるから、そうではなくまずは礼をつくした使節として自分を派遣せよとねじこんでいるのであって、むしろ原案反対の立場を示すものである。
 なお、西郷はこの手紙の写しを板垣にも送っているが、それは根回しとして当然のことであろう。
 
 三番目は8月14日付板垣宛て書簡。

 「(超訳要旨)必ず戦いは起こるから暴殺されても無駄死にではない。不憫だなどという心をおこさないでほしい」

 これは「使節暴殺論」の二番煎じであり、一番目の手紙について論評したところに特に付加することはない。おそらく閣議で西郷を死なせるわけにはいかないというような話があったのだろうが、西郷にとっては、そのことは、閣議の議論が、西郷の筋書きに沿って進んでいることを確認できたわけで、内心満足しつつ、その種の同情論に一応くぎを刺しておいたのであろう。

四番目は、8月17日付板垣宛ての手紙。いよいよ同日、閣議で決定という運びになったので、始まる前に届けたもの。

 「(超訳要旨)三条には、一度目は礼を厚くして談判に及べば必ずや暴殺に及ぶからそのときは討ったらよい。『内乱をこいねがう心を外に移して、国を興すの遠略」』などと説いて、私を遣朝使節とするように求めた。閣議には出席してもうひと押しして欲しい。」

 これもまた「使節暴殺論」の三番煎じ、出がらしの茶である。
 敢えて付け加えることはないが、有名な「内乱をこいねがう心を外に移して、国を興すの遠略」などという物騒なフレーズが出てくるので一言しておこう。
 このフレーズに関して、西郷は当時の「不穏な情勢」(1873年には、明治維新後農民一揆が最高潮に達し、各地で不平士族が跋扈していた。これらが結びつくと内乱状態になることが危惧される状況にあったことは確かで「不穏な情勢」の存在は認められる。)を打開するために、朝鮮との戦争を願っていたのだという解釈が広く行き渡っている。
 しかし、これは、経過全体の中で考えると、見当違いの解釈であることがわかる。即ち、このフレーズは、あくまでも、原案提出をした三条、これにまっさきに賛成した板垣、さらには名だたる征韓論者副島など、当時の閣議メンバーの多くが共有していた意識をズバリ衝いて、自分を使節として朝鮮に送ることを決定させようとした殺し文句だったと私は考えるのである。
 
                            (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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