明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(15)

明治六年の政変

(遣外欧米使節団のメンバーの帰国後の動向―先に帰国した大久保、木戸はどうしていたか)

 かの使節団から、三条からの召還訓令により、大久保が取り急ぎ5月26日に、ついで大久保とは別行動をとった木戸が7月23日に帰国したことは前に見たとおりであるが、この二人は帰国後どうしていたのであろうか。

 まずは大久保について。大久保は参議ではなかったが、大蔵卿という重職にあったのであるから、もし政府内の議論に異論があれば、何らかの意見表明ができる立場にあった。しかるに、彼は、君子危うきに近寄らずとばかりに、箱根の温泉につかり、そのあと京都・大阪をめぐる旅に出て、終始、傍観者の立場に身を置いていた。

 大久保は、閣議で、西郷を遣朝使節として送る決定がなされ、天皇の意により内定扱いとなる直前の8月15日、同じ旧薩摩藩出身の陸軍幹部にしてヨーロッパ留学中の村田新八・大山巌宛てに、使節団がパリを訪れた際いろいろ世話になったことを感謝する手紙を送っている。その手紙で、彼は次のように書いている。

 「(超訳要旨)帰国後の政情は私には手のつけようもない状態だ。傍観するしかない。その詳細を書きつくすことはできないので送った新聞を読んだらわかる。使節団も帰れば役者もそろうので、秋には元気も回復するだろう。」

 大久保がここで言っている手のつけようもない状態とは、①内閣が西郷を遣朝使節として送る方向に動いていること、②使節団のメンバーと取り交わした約束に反し、留守政府が急進改革を推し進めてしまったこと、③井上、渋沢辞任を招いた大蔵省の紛糾のことをさしているだと言われている。
 しかし、①については、憶測に過ぎないようである。

 大久保は、それが何であるか明示することなく、送った新聞を読んだらわかるとほのめかしているのであるが、前出の毛利敏彦は、西郷が村田らに送った新聞を該当期間から割り出してしらみつぶしにあたってみたそうだ。そうすると、①の問題は一切記事になっておらず、②の急進的改革の数々とそれに反発する農民暴動、②の大蔵省の紛糾とそれに関連問題などがクローズアップされるとのことである(『明治六年政変』中公新書139頁、140頁)。
 そうであれば遣朝使節問題については、手のつけようもない状態という事項の中には容れていなかったことがわかる。つまり大久保の批判の目は、この問題には向かっていなかったのである。
 彼が批判の目を向けたのは約束に反して急進的改革をどんどん進め、大蔵省を紛糾させ、太政官職制を改正して参議の権限を高め、内閣を国政の最高意思決定機関と位置付け、太政大臣の権限を名目化するような制度改革をした留守政府そのものであったと見るほかはない。

 一方、木戸はといえば、参議であるにもかかわらず、閣議には欠席を続けている。ただ彼は、8月中(日付は特定できない。)に、三条宛て次のような意見書を送っている。

 「(超訳要旨)琉球人を殺害した台湾原告住民懲罰の軍を派遣するのは当然だ。また無礼な朝鮮を討つのは当然だ。しかし、今は財務を健全にし、国力をつけるのが先決問題だからそれらの軍事行動は時期尚早である。」

 これは、軍事行動、即ち征韓実行は時期尚早だというこの意見書は、三条の提出した議案に対する反対を表明するものであったが、西郷の主張する使節派遣に直接反対するものではない。
 
 木戸は、8月31日、馬車から落ちて頭、肩を痛打し、頭痛が続くようになる。そのためかその後も閣議を欠席し続ける。それにしても冷徹な論理の人、木戸らしくもない沈滞ぶりである。これは、体調不良も勿論あるが、おそらく木戸の神経質な心に、既に述べた旧長州藩出身者の凋落と彼らに江藤率いる司法省の厳しい追及の手が迫っていたことが大きな負担となっていたことも一つの要因となっていたのではなかろうか。

                             (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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