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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(17)

(明治六年の政変―伊藤が描く大久保を軸とする政権構想)

 この頃の伊藤は、未だ西郷、木戸、大久保ら維新三傑の後塵を拝する位置にあり、官職も、一工部大輔に過ぎない。しかし、後に稀代の策士いわれることになる人物だ。早くも、この時期に、その片鱗をあらわしている。伊藤を「知の政治家」と高く評価する瀧井一弘は、この時期の伊藤の働きぶりについて、「松陰が認めた『周旋家』の面目躍如である。だがそのような活動の裏には、『制度の政治家』のパトスが脈打っていることを忘れてはならない。」と述べているが、(『伊藤博文―知の政治家』(中公新書))、私に言わせれば、「策謀をめぐらす政治家」伊藤の真骨頂を見たというのが適切なように思われる。

 伊藤は、師匠の木戸が、意気消沈し、辞職したいなどと漏らす中、頻繁に木戸を訪問して情勢報告をして、その奮起を促す一方で、岩倉、大久保をも度々訪ね、大久保を軸とする政権構想を描いていく。

 以下に伊藤の9月27日付、三条、岩倉宛ての手紙の文面を紹介しておこう。

 「(超訳要旨)重大切迫する事件が数々ある。これを乗り切るには、木戸、大久保の共同と、三条公、岩倉公の合力が必要。そのためには、まず大久保を参議に任命されたい。」

 ただ、一点、注意を促しておけば、三条、岩倉、木戸、大久保の四巨頭の一致協力を要請しているのは、数々の重大切迫する事件に対処するためであって、遣朝使節派遣問題に焦点があてられているわけではない。

 かくして傍観者たらんとしていた大久保の参議かつぎ出し作戦が始まる。しかし、肝心の大久保は、三条、岩倉の参議就任要請を頑なに拒み続ける。どうも、島津久光の嫌忌を気遣っていたようだ。そういう趣旨のことが、三条から岩倉に差しだした手紙に書かれている。三条は、お手上げだのようだ。
 伊藤は、数々の重大切迫する事件を乗り切るためなどと、漠然とした目的を挙げていたが、その程度のことだけで大久保を説得するのは難しいということを思い知らされた。

 このままでは伊藤の画策も頓挫したかもしれない。

 丁度そのころ、西郷から三条に、内定していた遣朝使節派遣を閣議で確定させるようにとの厳しい催促がなされた。数度に及んだようだ。あせった三条が「困ったものだ」と岩倉に愚痴をもらした。9月28日に、三条は岩倉にそういう手紙を書いている。
 このあたりから遣朝使節派遣をとりやめにするという具体的目的が、伊藤の描く政権構想にはっきりと据えられることになる。伊藤は、その一方で、使節団留守中に新任された後藤、大木、江藤の三参議を解任し、そのかわりに大久保を新たに任命するという人事構想をも描いている。実際に、そのことを大隈に打診し、その同意も得られたとして、直接、三条、岩倉にも要請している。これは、10月に入って早々のころである。

 この間、木戸は、前述した如く動くこともままならない。大久保は、参議就任要請に逃げ回っている。まさに伊藤の独壇場である。

 伊藤は、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、使節派遣阻止の一点で、三条、岩倉、木戸、大久保の四巨頭を結束させ、あわせて参議の人事も一新して、大久保主導の体制を作り上げようとする。

 一点突破、全面展開作戦である。

 その多くはみごとに当たり、実現するが、少しあてが外れた面もある。大木が途中で意見を変えて、大久保につき、参議として残ったことだ。勿論、西郷、板垣も辞職することは、伊藤の絵の中に、あぶり出しの絵として入っていただろう。

 かくして遣朝使節派遣是か非かの議論は、ことさらに対朝鮮開戦是か非かとの極論に歪められて行った。

 ここでついに大久保も岩倉も、伊藤の絵に乗ることになった。おそらくカラクリを十分に理解した上で。一方、三条は、この絵に乗り切ることができなかった。彼は、このような策謀を弄するにはあまりにも善人過ぎたようだ。
                             (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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