明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(18)

(明治六年の政変―決戦の火ぶたは切られた)

(大久保おおいに発奮、しかし論理矛盾は明らか)

 大久保は、逃げ回った挙句、ころあいを見はからって、十分に自分の価値があがったとほくそ笑みつつ、10月10日、ついに参議就任を受諾する。しかも、実に、恩着せがましく二つの但し書き条件を付して。

 一つは、三条、岩倉に、自分は遣朝使節派遣延期のために働くがそれはあなたがたの命に従ったまでのこと、そのことを忘れないで欲しいと念を押し、確認してもらうこと。大久保の10月10日付岩倉宛ての書簡には次のように書かれていた。

 「(超訳要旨)遣朝使節派遣延期とすることをしたためた書面拝読。この命に従い、参議受諾し、身を粉にして働きます。」

 もう一つは、大久保任命と同時に外務卿副島も参議に任命し、かつ参議ではない伊藤にも閣議列席を認めよということ。

 このような二つの条件は、多少うがった見方かもしれないが、万一事が成功しなかった場合のことをおもんぱかって責任のがれのための予防線を張り、かつ外交案件を紛糾させてきた副島を、同時に切り捨てるためだったのであったと私は考える。

注:副島は、日清修好条規の批准書交換を表向きの任務とし、台湾問題に関して清国と談判するとの密命を帯びて、1873年3月から7月まで全権大使として清国を訪問したが、このとき、清国との間で、任務にはない朝鮮問題を話し合い、自説を述べたことで、政府部内で、余分のことを話過ぎた(大言壮語だった)との批判を受けていた。また副島は、安政以来の修好通商条約締結諸国の人々の内地旅行の自由をめぐる交渉において、それを容認する姿勢を示していたことについても政府部内で批判を受けていた。

 大久保、副島の二人が参議に任命されたのは、大久保が12日、副島が13日のことであった。こうして大久保は、後顧のうれいなくその力を発揮する舞台を確保することになった。三条、岩倉を叱咤激励して、遣朝使節派遣阻止そして伊藤の描いた絵の実現に邁進していく。

 かくして決戦の火ぶたは切られた。14日の閣議である。発言の主なものを以下にあげてみよう(要旨)。
 なお、木戸は前述のとおり、欠席であり、意見を述べていない。

西郷  8月17日の閣議決定を確認し、遣朝使節派遣を求める。

岩倉  樺太問題が先だ。遣朝使節派遣は、開戦に直結する。延期するべきだ。今、使節を送り、開戦した場合、財政、内政、外交に困難をもたらす。戦争準備を整えてからにすべきだ。

大久保 遣朝使節派遣は、即開戦となるので延期すべきだ。今、使節を送り、開戦した場合①戦争の混乱に乗じて不平士族の反乱がおこる、②数万の派兵と巨額の戦費調達は人民の生活を苦しめ、騒擾をひきおこす、③戦争は財政面から政府を崩壊させる、④戦争は軍需品の輸入増大をもたらし、経済をかく乱する、⑤朝鮮との戦争はロシアに漁夫の利を得させる、⑥戦費調達のために巨額の外債を必要とし、既存の外債の償還にも影響し、イギリスの介入を招く、⑦条約改正問題を抱える今、朝鮮戦争はマイナスで、国内体制の整備につとめるべきだ(大久保利通建白書に基づき陳述)。

江藤  遣朝使節派遣と樺太問題とは次元の異なる問題。前者は国と国との関係の問題。後者は民と民とのトラブル。遣朝使節派遣即開戦なる論は、既に朝鮮とは戦端を開くべき事態にあることを前提とするもの。それでありながら戦争準備が整うまで使節派遣を延期せよとは論理矛盾ではないか。

注:江藤は、岩倉、大久保の論理矛盾をついているだけで、朝鮮問題について自らの立場を明示していない。後日の行動、それも一般に流布している物語から、この議論当時も彼が征韓論者であったと断じることは避けたい。

 この議論の状況をどう見るか。人によって見方は異なるかもしれない。しかし、私は、岩倉、大久保の論は、それこそまさに征韓論(先に定義した「武力で威嚇をし、あるいは武力を行使して、朝鮮を屈服させるべきだという政論」)ではなかったかと思うのであるが、いかがであろうか。
 それはともかくとして。さすがにこの日は決議にはいたらず、閣議は、15日に続行されることとなった。

                                  (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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