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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(19)

(明治六年の政変―それでも8月17日の閣議決定は維持された)

 15日の閣議には、木戸は引き続き欠席、西郷は、前述のとおり「始末書」を提出し、欠席した。
 「始末書」全文をもう一度読み返して頂きたい。前日の、岩倉、大久保の意見に対する極めて説得力のある反論となっていることが確かめられるであろう。さすがにこのような反論にあっては、伊藤、大久保の手を尽くした準備も、大久保の死を賭したかのようなおおげさな覚悟も、水泡に帰することになること必定である。

注:大久保は14日の閣議出席に際し、「小子が憂国の微志を貫徹して、各々奮発勉強、心を正し知見を開き、有用の人物となりて国のために尽力して、小子が余罪を補う」との決死の覚悟を示した書面を残している。

 あにはからんや、閣議はまとまらず、三条、岩倉の評議、そして三条の裁断に委ねられる。その結果、悩みに悩んだ末、三条のくだした裁断は「実に西郷進退に関係そうらいては御大事につき、やむをえず西郷見込みどおりに任せそうろうところに決定致しそうろう。」(原文をわかりやすく表記した。)であった。

 議論の限りでは、8月17日の閣議決定をひっくり返すだけのものは何もなかった。むしろこれを維持しようとする西郷の正論がはるかに勝っていた。伊藤の絵に完全には乗っていなかった善人三条の裁断に委ねられた以上、これはあまりの当然の裁断であった。
 この裁断は、再開した閣議で全員一致承認された。大久保も「御異存は申し上げず」と、これに従ったのであった。

 ここに伊藤の描いた絵は、単なる絵で終わる運命となったかのように見える。

(逆転のシナリオ。驚くべき陰謀と奸知)

 しかし、事実は小説よりも奇なりであった。

 三条、岩倉は、大久保に、参議就任受諾時に確認したことが貫徹できなかったことを必死に謝罪する。

三条 (超訳要旨)もともと最初の軽率な行動が今日の事態をまねいてしまった。このうえは僕が軍隊を率いて戦う(10月15日付大久保宛て三条書簡)。

岩倉 (超訳要旨)弁解のしようがない。めんぼくない(同岩倉書簡)。

 しかし、大久保は、このような謝罪を受け入れて事をすますほどの小人物ではない。大久保は、あるいはこうなることも予測のうちにはいっていたのかもしれない。16日は悠然と囲碁に興じ、翌17日から大久保は、一転して忙しく動き回る。一度は「御異存は申し上げず」と従った三条の裁断、閣議決定をひっくり返すべく、決然たる行動に打って出るのである。

 17日朝、三条を訪ね、辞表提出。おそらく伊藤が根回しをしたのだろうが、木戸も同日三条に辞表提出。さらに、おそらく大久保、木戸、伊藤の三者と示し合わせてのことであろうが、岩倉も三条に辞意を表明する。
 「御小肝」で全くの善人・三条はこれによって精神の錯乱を引き起こし、執務不能になる。ここで伊藤が新たなストーリー描く。宮中の要人を動かして岩倉を太政大臣代行に任命させ、天皇への上奏手続きを三条にかわってとらせるという秘策だ。大久保は、これを「ただ一つの秘策」として採用、勇猛果敢に突進する。岩倉を叱咤激励して、「断然奮起」を約束させ、旧薩摩藩出身の宮内少輔吉井友実に働きかけ、宮内卿徳大寺実則を説得して、とうとう岩倉を太政大臣代行職につけてしまった。
 あとは岩倉がどこまで頑張れるかだ。大久保は、岩倉に、「丁卯」(1867年、慶応3年のこと)以来、王政復古、戊辰戦争から維新変革に至るまで、ともに手を携え、苦楽をともにしてきたことを思い起こさせ、今日(こんにち)の奮起を促す。岩倉も、今度こそは動揺しないことを確約する。

 こうした事態を知って、副島は、再度閣議を開くことを岩倉に求めた。しかし、岩倉は、これに応じなかった。そこで22日、西郷・板垣・副島・江藤らは岩倉邸に押しかけ、10月15日の遣朝使節派遣の閣議決定を早急に上奏するよう要求した。

 しかし、岩倉は、西郷ら各参議に、使節派遣を可とする意見と、これを不可とする意見の太政大臣代行としての意見の双方を上奏し、宸断(天皇の決定)に任せると申し渡す。各参議は激しく抗議するが、岩倉は押し切った。これにより10月15日の閣議決定は、岩倉の一存で、反故にされたも同然のこととなってしまった。

 天皇の宸断は、24日に下るが、西郷はそれを待たず、勝負あったとばかりに23日に辞表提出。その辞表には、ただ「胸痛のわずらいこれあり。とても奉職まかりありそうろう儀あいかなわず」としたためてあったに過ぎない。まことに西郷らしい散りざまではないか。
 辞表は同日受理、あわせて近衛都督(陸軍の実質的な長)の任も解かれた。かくして西郷は、「帰りなんいざ」、と鹿児島へ引きあげ、かの地にひっそりと引きこもることになる。西郷の名が、再び政界をかけめぐるのは、西南の役まで待たねばならなかった。
 西郷に続いて、24日、板垣、後藤、副島、江藤が辞表提出。26日受理となった。
 その前に出されていた木戸、大久保の辞表は受理されず、参議としてとどまることになり、最初から大久保に同調した大隈、日和見的態度をとって最後は大久保に同調した大木の両名も残留、4参議の辞表受理と同時に新たに伊藤、勝安房、寺島勝則が新たに参議就任、政府構成は一新されることとなった。
 このときから、大久保の意見により、参議は各省長官を兼務することになった。それは以下のとおりである。

木戸    参議兼文部卿
大久保   参議兼内務卿(11月、内務省新設後)
大隈    参議兼大蔵卿
伊藤    参議兼工部卿
大木    参議兼司法卿
寺島    参議兼外務卿
勝      参議兼海軍卿

注:内務省は、大蔵省の勧業、戸籍、駅逓、土木、地理の各寮(「寮」は現在の「局」に相当する。)、司法省の警保寮、工部省の測量司(現在の国交省・国土地理院の前身)の六寮一司からなり、その職掌範囲は、地方行政、警察行政、衛生行政、土木行政、社会政策などに及ぶ。内務省は、戦前、省庁の中の省庁として大きな権力を振るった。

以上の政変は明治史上、最大規模でかつ最もドラマチックなものであり、後世、これを称して「明治六年の政変」と呼びならわすことになった。

                                    (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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