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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(20)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)

 再び前出の高等学校用教科書を見てみよう。そこには、「征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職した(明治六年の政変)」と記述されている。この説明、明治六年の政変とは、征韓論を否決された筆頭参議西郷以下の合計5参議が辞職して下野したことだという説明は、一般に広くゆきわたっているものと思われるが、ここまでお読み頂いた方には、誤りであることはもうおわかりであろう。
 このような説明が誤りであることは、翌1875年5月に征台の役が敢行し、さらにその翌年9月に江華島事件を引き起こした政変後の「反征韓派」の率いる政府の実際の行動が、何ものにもまさって顕著な証明となる。

 あらためて確認しておこう。明治六年の政変とは、以下のようなことであった。

 1871年8月、三条、岩倉、西郷、木戸、板垣、大隈によって構成される政府(大久保は大蔵卿として大きな力をもっていたが、参議ではなかった。)が発足して以来、とりわけ遣外欧米視察団出発以来、急進的改革が累次積み重なり、同使節団全員が帰国した直後の1873年9月中旬の時点で、蜘蛛の糸の巻きあいといった具合に、もつれにもつれてしまった政権内部の対立と抗争を、遣朝使節派遣問題に焦点をあわせ、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、遣朝使節派遣を延期=拒否し、西郷と西郷を支持する参議らを失脚させることによって、漸進改革の提唱者である大久保を中心とした政権に一新する、同時に、有司専制なる少数者の密室政治を復活させ、確立させる、これが明治六年の政変である。

 狂言回しは伊藤、主役は大久保、脇役は岩倉、ピエロを演じさせられたのは三条、木戸は舞台の袖に立ったものの、間もなくおりてしまう。

注:木戸は、1874年4月、征台の役に反対して参議兼文部卿を辞職、以後1875年1、2月の「大阪会議」後、同年3月に一旦参議復帰、翌1876年3月再び辞職。1877年5月26日、西南戦争のさなか、西郷と政府の双方を案じながら死去。享年45歳
 
 大久保、木戸と、傑物はあい並び立つことはあり得ないとの通則がここでも貫徹したのか、二人は、結局、あい並び立つことはなかった。

 イチかバチかの大ばくちを仕掛けた、伊藤、大久保。勝負は、彼ら胴元側の大勝利のうちに終わった。このときの勲一等により、大久保のあとは伊藤という道筋もつけられ、実際、1878年5月14日、大久保が非業の死を遂げた後、実際、そのとおりになって行ったのである。やがて、伊藤には、名実ともに第一人者となるためには、ひたひたと追走する参議兼大蔵卿大隈を振り切ることが課題となる。それをやりとげるのは明治14年10月のこと、明治十四年の政変である。苦節十年、深謀遠慮、積極果断、まことの策士ここにあり、である。

補遺―明治十四年の政変

 ここで少し脱線するが、明治六年の政変の狂言回し・伊藤という人物評価に関わることであるから、明治十四年の政変について若干解説しておこう。

 1877年2月、鹿児島の郷里に隠棲した西郷を巻きみ、九州地方を戦乱の渦に投じこんだ西南戦争は、同年9月、大久保率いる中央政府の勝利のうちに終結した。しかし、その後遺症はその後の明治政府に重くのしかかる。上述のごとく大久保暗殺もその一例であるが、それ以上に深刻であったのは、西南戦争の戦費調達のための政府財政のひっ迫とインフレ・米価高騰の進行による自作農、中・上層農民の富の富裕化(地租は地価の100分の3、金納であるから、米価高騰による利得は、自作農、中・上層農民の手元に集積する。)と江戸時代と変わらぬ割合の現物納付を強いられる小作農民、賃金・給与、日銭稼ぎの都市生活者(彼らはインフレと米価高騰の直撃を受ける。)など一般人民の生活の窮乏化であった。

① 政府財政のひっ迫に関して言えば、大蔵省部門を管掌する参議・大隈(この時点では、参議、各省長官兼任制度は改められていた。)は、財政積極論の立場から5000万円(当時の歳出予算の8割程度、地租収入の1.3倍)の導入を主張した。これに対して、伊藤は反対であった。しかし、反対派は参議の中では少数派であったため、岩倉を走らせて、問題を天皇の裁可にゆだね、結局、外債不可との「勅諭」を得て、大隈の主張を排斥した。
 それでは財政の手詰まりをどう打開するのか。結局、緊縮財政政策しかないことになる。大隈も一旦は、引きさがり、これに従うことになる。しかし、折からのインフレを追い風に、積極財政をとって殖産勧業を図るべしと考える大隈は、やがて早期に国会開設し、公議輿論を吸収した安定政権を確立し、外債を導入するという方向に活路を見出そうとする。

② 富裕化した自作農、中・上層農民の資金力は、農村を地盤とする民権運動を高揚させ、一般人民の窮乏化は、反政府の機運を高め、これまた民権運動に結集してゆく。1879年11月、板垣退助率いる愛国社は、大会を開いて、民選議院設立請願運動を展開することを決めると、全国津々浦々から、請願運動が澎湃として沸き起こる。民権運動は、これを機に空前の盛り上がりを見せる。

③ こうした民選議院設立請願運動の高まりを見て、政府は、一方で懐柔・譲歩、他方で弾圧、つまりアメとムチの対策をとった。
 アメは、同年12月、伊藤の主導の下に、左大臣有栖川宮熾仁名義で、各参議から国会開設についての意見書提出を命じ、政府主導で国会開設の先鞭をつけようとしたことである。これに応じて提出された各参議の意見は、一部は時期尚早論、多くは漸進論であった。
 ムチは、1880年4月5日太政官布告第12号「集会条例」であった。これは政治集会を許可制とし、所割警察署の自由裁量に近い拒否権を認め、集会開会後であっても立会警察官に解散権限を与え、違反者には罰金、禁獄の罰則が科されるという集会の自由を奪うに等しいものであった。

④ 大隈は、早期国会開設論と立憲政体としてイギリス流の議院内閣制をとるべき固めたが、意見書の提出を控えていた。これにより政府内の対立が先鋭化することを避けようとしたのである。しかし、有栖川宮からの重ねての催促を受けて、意見書の内容を他の参議に明かさないとの約束のもと、ようやく1881年3月に意見書を提出した。
 その内容は、年内に憲法制定、政体は政党本位の議院内閣制とする、翌年末には国会議員選挙、2年後国会開会という急進的なものであった。
 その内容に驚いた有栖川宮は、約束に反して、三条、岩倉に相談、伊藤もその意見書を閲読するに至る。伊藤は憤然として、大隈を切るための陰謀をめぐらし始める。

注:松本清張『象徴の設計』(松本清張全集17・文芸春秋社)の中で、伊藤が山縣自慢の邸宅・椿山荘に山縣を訪れて交わしたやりとりが出てくるので抜粋してみよう。山縣は、このころは参議兼参謀本部長であった。

(伊藤)「狂介、あとはおぬしに頼むよ」と言った。有朋にはなんのことかわからなかったが、伊藤がそれから言いだしたことは悉く彼の胸に響いた。
(伊藤)「今も言うたとおり、大隈は頭の悪い奴じゃが、目先は利いとる。あいつの議論は、みんな若いもんから取って来とる。そこで・・・そこで、俺が考えるには、大隈を台閣に置くと、将来物騒でいけん。いい加減なところであいつを引きずり下ろそうと思っちょる。」
(中略)
(伊藤)「だが、もし、板垣と大隈とが手を握って、全国的に自由民権の火を大きくしたら、こりゃアもうわしの手に負えぬ。そこで、狂介、おぬしが最後の締め括りをしてくれと頼んだのじゃ。おぬしさえ引き受けてくれたら、わしは安心して下野した大隈を生け捕ることができる。
(山縣)「あとを頼むというのは、これのことか?」と山縣は坐ったまま腰のサーベルに手を当てる真似をした。
(伊藤)「そうだ。おぬしにそのほうをしっかり頼んでおきたい。そっちさえ引き受けてくれたら、わしはあんな連中の反政府運動ぐらい水をかける自信は十分にある。」

 伊藤は、山縣に、大隈を切った後、板垣、大隈が共闘して反政府運動が拡大した時、軍事力による弾圧を求める。山縣は、これを引き受ける。なにやら若いころ、江戸・御殿山に新築中のイギリス公使館を焼き討ちした頃のテロリストの姿を彷彿とさせるではないか。私には、このやりとりがフィクションとは思われぬ迫真性をもっているように思えてならない。 

 
 結局、伊藤は全参議を糾合し、再び岩倉と結託し、岩倉をして、折から発生した(北海道)開拓使官有物の払い下げ問題(開拓使の存続期間満了をもって、時価3000万円相当ともいわれた官有物を、わずか30万円で、しかも30年間無利息割賦払いという、現代の森友学園国有地払い下げ問題など足もとにも及ばない巨額の国家財産簒奪事件。開拓使長官が黒田清隆、払い下げを受ける者が五代友厚、いずれも旧薩摩藩出身であることから連日新聞紙上をにぎわした。)で、大隈が情報操作をして、騒ぎを大きくし、早期国会開設の自論を有利に導き、政権基盤を確保しようとしているなどと天皇に讒訴、参議罷免を上奏させるに至った。

 大隈は涙をのんで、同年10月11日、辞表提出、翌日、これを受理するとともに開拓使官有物払下げは取り消し、あわせて「明治23年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志をなさんとす」との勅諭(国会開設の詔)が公布された。

 大隈が追い落とされた翌年、1882年8月5日、戒厳令が制定された(太政官布告第36号)。これはたまたま時期がそうなったものではないことは、衆目の一致するところであろう。

 こうして見ると、明治十四年の政変は、明治六年の政変の規模の小さいリフレインであったといえる。伊藤の奸知がますます冴えわたっているのが見えるようだ。

                               (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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