明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(22)

(まとめ) その1

 話は、西郷という一政治家の問題から、明治六年の政変の本質論、明治十四年の政変論、さらには伊藤らの採用したプロシア流疑似立憲主義の弊害や後遺症の問題にまで広がってしまった。そろそろ本小論のタイトル『大西郷は永続革命をめざしたのか?』の守備範囲に戻ろうと思う。
 その前に、一点だけ補足しておきたい。

―西郷は遣朝使節早期派遣に何故こだわったか?―
 
 ここまでお読みいただいた方の中には、西郷は、征韓論に敗れたから下野したのではないということはわかったが、何故、あれほどまでに遣朝使節早期派遣にこだわったか、この点がモヤモヤしている方もおられるのではなかろうか。何を隠そう、わたし自身もそうである。

 この点について、私は、当該部分を書き綴っているときには、不義の戦いを仕掛けられたら後退しないで徹底的に戦うというのが激動の幕末の修羅場を駆け抜け、王政復古のクーデター、戊辰戦争を戦い抜いた志士、西郷の本性であり、また時の勢いというものもあったのだろうと考えていた。しかし、これだけのことでは、伊藤の描いた絵にまんまと乗せられたことを自認するに等しく、癪ではないか。
 そこで、もうひとひねり考えてみた。西郷は、もっともらしい理屈をつけて西郷の平和的遣朝使節の派遣を延期させ、時期を見て、武力による威嚇によって手っ取り早く朝鮮を屈服させようという大久保、伊藤、岩倉の奇手(事実はそのとおり進んだ。)をきちんと読み切っていたが故に、敢えて形になずまず愚直な手を選んだのではないかと。
 だが、それでもまだしっくりしない。西郷は、もう少し先のところまで手を読んでいたのではないだろうか。

 以下述べることは、疑問符をつけたままとせざるを得ないが、一応の読み筋を明らかにしておくこととする。

 検討してみる必要があるのは、西郷が次ように語っていることの意味である。これは、戊辰戦争時の西郷の寛大な処置に感激して西郷を慕っている旧庄内藩藩士酒井玄蕃が、1874年1月、わざわざ鹿児島を訪れ、下野後の西郷に面談した時の西郷の談話を書きとめたものである(同人の『心覚えの大意』と題する覚書)。わかりにくい表現があり、解読するのが難しいが、原文カタカナをひらがな表記にあらためるにとどめた。

 「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取り運び申さずば相成らず。只今北海道を保護し、夫にて魯国に対峙相成るべきか。左すれば弥以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホセットの方よりニコライ迄も張り出し、此の方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛し、且つ聞くが如くんば、都留児へが魯国よりも是非此の儘にては相済み申さず、震って国体を引き起こせと、泣いて心付け候由、又英国にても同じく泣いて右の通りにいたし候趣、此れ何故に候や。」
 「兼ねて掎角の勢いにて、英・魯の際に近く事起こり申すべきと、此の頃亜国公使の極内の心付けもこれにあり、且つ欧羅巴にては、北海道は各国雑居の地に致し候目論見頻りにこえありと相聞き、大方其の事も近々懸け合いに相成るべく、兎に角英にて、海軍世界に敵なく候間、却って北海道は英・仏へ借し候方は如何などと申す事にて、欧羅巴においても魯の北海道目懸け候は、甚だ以て大乱に関係いたし候。右故趣向も付け候には相違これなく、右の通りの事情に候得ば、日本にて其の通りに奮発いたし候とならば、都留児においても是非一と憤発は致すべく、左すれば弥英にて兼ねてよりのホー蘭土より事を起こすには相違なく、能能(よくよく)英国と申し合わせ、事を挙げ候日には魯国恐るに足らずと存じ奉り候。」


 まず文意を確認しておこう。
 ホセットはポシェット、ニコライはニコライエフスク、いずれもロシア沿海州の港湾である。都留児はオスマン・トルコ、掎角の勢いとは相争う状態。ロシアの南進策により、樺太への圧迫が強まり、現地に居住する日本人の安全が確保できない状態となっている。それだけではなく、やがて北海道にまでロシアの勢力が及ぶ勢いである。これを阻止するためには、戦争は避けがたい状況にある。
 ロシアは強国である。しかし、ロシアはイギリスと、ポーランド、トルコをめぐって一触即発の状態である。従って、断然、ロシアとの開戦も辞せず、断固たる措置をとるべきだ。
 言わんとしていることは、こんなふうなことではなかろうか。

 既に見たように、政変前の1873年9月19日付鮫島宛ての手紙では、岩倉もロシアによる樺太圧迫が緊急課題で、すぐに談判を始めなければならないとの認識を示していたし、10月14日の閣議でもその趣旨の発言をした。ただ彼の場合は、日和見的で当面の弥縫策を考えていたに過ぎなかった(それは1875年5月、千島樺太交換条約として実現される。)。
 一方、西郷の認識は、ロシアの南進は不可避であり、その侵略を阻止するために、強国ロシアとの戦争は避けがたいというところまで追いつめられているという差し迫ったものである。西郷は、イギリスとの連携に言及しているが、ロシアとの戦争を覚悟するということになれば、それだけでは不足があると考えた。

 ここで1875年10月8日付の西郷が篠原冬一郎こと国幹に送った手紙の次の文面を思い起こしてみよう。

 「朝鮮の儀は数百年来交際の国にて、御一新以来、その間に葛藤を生じ、既に五、六ヶ年談判に及び、今日その結局に立ち至りそうろうところ、全く交際これなく人事尽くしがたき国と同様の戦端を開きそうろう儀、まことに遺憾千万に御座そうろう。」

 既に清国とは対等・平等の日清修好条約に締結し、友好協力関係を確立しているが、それに引き続き、朝鮮とも同様の条約を締結し、友好協力関係を確立することが喫緊の課題だ。これによりロシアの侵略と戦うことができる。

 このように西郷は考えたのではなかろうか?


                (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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