明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(24)  最終回
 
(まとめ)その3


―アーネスト・サトウの見た最後の西郷の印象から―

 ながながと書き綴ってきた本小論も、いよいよ最後を迎える。

 ここで種明かしをしておこう。この小論のタイトル『大西郷は永続革命をめざしたのか?』は、橋川が引用した『現代の理論』1968年1月号の司馬・萩原対談中で萩原が発した「パーマネント・レボリューション」という一語からとったものである。

 萩原は、この対談から8年後の1976年10月から、「朝日新聞」夕刊で『遠い崖』の連載を開始した。この連載は、延々1947回という最長不倒距離を記録して、1990年12月に終わった。私も、時々、拾い読みしたことはあったが、本年3月、この連載ものをまとめた『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫全14冊)を通読してみて、強い感銘を受けた。これほどに幕末・維新の時代を、膨大な資料を駆使し、広く見渡し、かつ深く抉った著作は、かつてあっただろうか。失礼ながら、司馬遼太郎の一群の幕末・維新を描いた諸作品と比べると、知的刺激力という点においてこの著作の方が格段に勝っていると私は思った。これは、歴史ドキュメンタリーと歴史小説というジャンルの違いにのみ帰せしめられないように思われる。

 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の主要登場人物の筆頭は、なんと言ってもアーネスト・サトウである。最後の話に入る前に、彼が、どんな人物であったかざっと見ておくこととする。

 サトウは、1843年6月30日、ロンドンで生まれた。父は元スウェーデン人の貿易商で、ナポレオンの興亡時代に、スウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと国籍や住居を転々と変え、1825年以後イギリスに定住、イギリス国籍を取得した。サトウというと、日本名ではと訝る人もいるかもしれないが、そのスペルはSatow、日本名ではない。ハンザ同盟で有名なリューベックとロストックの中間あたり、バルト海に臨むところにヴィスマールという港町がある。そこにSatow(「種をまく人の村」という意味だとのこと。)という地名のところがあるそうである。サトウの出自はこのあたりのようである。
 サトウは、ロンドンのユニバーシィティ・カレッジで学んでいた18歳のとき、イギリス外務省の通訳生試験に合格、同校卒業と同時に、希望通り日本駐在を命じられ、1861年11月、イギリスを立った。途中、北京での研修があったりして、横浜に着いたのは、1862年9月8日のことであった。ここに在日本イギリス公使館日本語通訳官としてのサトウのキャリアが始まる。
 サトウは、類まれな語学力と探究心、それに誰よりも秀でた行動力を生かし、勝海舟をはじめ幕府要人、西国雄藩の諸大名やその近臣たちとの接触だけではなく、薩摩、長州を中心とする討幕派志士たちと交わりを持った。その中には、勿論、西郷もいれば、大久保、伊藤もいる。サトウは、こうした活動を通じて、イギリスに、対日政策策定のための貴重な情報をもたらした。
イギリス公使パークスは、本国の指示もあって、公的には、幕末動乱期にも外交実務においては条約締結当事者である幕府とのパイプは維持するが、政治的には、幕府、討幕派のいずれにも加担しないという慎重な姿勢をとっていた。しかし、サトウは、自由奔放に活動し、来日後間もない時期に著した「英国策論」で、日本の主権者は天皇であり、大君(将軍)は、多くの大名諸侯のうちの首座の位置にあるに過ぎないと論じ、討幕派志士たちの間に、イギリスは討幕派に好意的であるとの風評を高めた。
 サトウは、1870年、日本語通訳官から日本語書記官に昇進、名実ともに在日本イギリス公使館の対日外交実務を取り仕切る地位につく。それから25年後の1895年7月に、駐日公使となり、三国干渉の時代に、後に日英同盟に発展する良好な日英関係形成に努めた。しかし、サトウの真骨頂は、なんと言っても西欧における当代随一の日本学者であったことである。
 サトウは日本女性との間に二人の子をもうけている。二男は武田久吉。著名な植物学者であり、日本山岳会の創立者でもある。

 さて、そのサトウが、1877年2月、一触即発状態にある鹿児島の情勢視察と、旧友で鹿児島県立病院の院長として病院経営と医師の指導・教育にあたっていたウイリアム・ウィリスの状況確認のために、鹿児島に赴いた。到着は、2月2日のことだった。既に、現地は、警視庁大警視川路利良が送り込んだとされる警官らの摘発が進み、西郷暗殺計画なるものが既定の事実となって鹿児島士族を激昂の渦に呑みこんでいた。私学校生徒による陸軍砲兵廠の火薬庫襲撃も起きていた。動乱はもはや止めようがなくなっていた。

 2月11日、西郷は、ウィリス宅を訪ねてきた。ウィリスが面談を申し入れていたからだが、おそらく旧知のサトウが、はるばる鹿児島まで来ていることを知って、別れの挨拶をしておきたいということもあったであろう。サトウは、このときのことを次のように日記に書きとめている。

 「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷について家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階へ上がり、ウィリスの居間に入るとまで言い張った。結局、一名が階段の下で腰をおろし、二名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう一名が二階のウィリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた。」
 「会話は取るに足りないものであった。」


 これは西郷の出陣六日前のことである。

 ようやく結論を書くときが来た。西郷は、決して自ら立ったのではない。旧知のなつかしいサトウ、戊辰戦争末期に傷病を負った薩摩藩兵の治療でひとかたならず世話になったウィリスとの別れのあいさつの場にさえ、護衛という名の監視下に置かれ、「取るに足りない」会話しかできなくなっている西郷は、もはや決起した鹿児島士族の虜囚にしか過ぎなかった。

 西郷は、幕末・維新の時代を一革命家として駆け抜けた。しかし、それは明治六年の政変までのことであった。西南戦争は、西郷にとっては永続革命の戦場ではなかったのである。

 提一灯行暗夜   一灯をささげて暗夜を行く
 勿憂暗夜     暗夜を憂うることなかれ
 只頼一灯     ただ一灯を頼め


 これは江戸時代の儒者・佐藤一斎の『言志晩録』にある言葉である。西郷の座右の銘だったという。1877年2月17日に出陣してから、同年9月24日、城山に果てるまで、西郷の脳裏に、この言葉が去来することはもはやなかっただろう。

                       (完)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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