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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その2

憲法9条は、アメリカの構想にはなかった
               
 わが国では、憲法9条はポツダム宣言において既に構想されていたと考える人が多いようである。
 たとえば歴史学者の松尾尊兌(まつお たかよし)は、次のように述べる(『昭和天皇は真珠湾攻撃の責任を東条元首相に転嫁した』論座2007年2月号)。

 「ポツダム宣言には、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄の三本柱がすでに示されていることを忘れてはなるまい。」

 そこでポツダム宣言中、9条と関わりありそうな項目を確認してみよう。

(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければなら ない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると  主張するものである。
(7) そのような新秩序が確立せらるるまで、また日本における好戦勢力が壊滅したと明確に証明できるまで、連合国軍が指定す る日本領土内の諸地点は、当初の基本的目的の達成を担保するため、連合国軍がこれを占領するものとする。
(9) 日本の軍隊は、完全な武装解除後、平和で生産的な生活を営む機会と共に帰還を許されるものする。


 確かにポツダム宣言は、日本が軍国主義国家から平和主義国家に生まれ変わること、好戦勢力の排除・壊滅、軍隊の武装解除を求めている。

 しかし、そのことと、憲法において戦争放棄を定めることとは少し距離がある。

 平和主義国家としての再生は、国家の根本的なあり方を示すもので憲法事項である。一方、好戦勢力の排除・壊滅、軍隊の武装解除は当面の課題であり、国家の中長期のあり方を示すものではなく、憲法事項であるとは言えないだろう。そしていうまでもないことだが平和主義国家は、国家の独立を守る民主主義的軍隊を保持することとは必ずしも矛盾するものではない。

 従って、ポツダム宣言は、直ちに9条と直結するものではなく、少し距離があると考えられるのである。

 その少しの距離を端的示している資料がある。1945年10月16日、アメリカ国務長官が連合国最高司令官の国務省派遣政治顧問ジョージ・アチソンに出した日本国憲法改正に関する基本的な考え方を示す訓令である。

 この問題に関する省内関係者の態度をとりまとめると次のごとくである。
 日本の憲法が広範な代表を選ぶ選挙権に基づき、選挙民に責任を有する政府を規定するよう改正することが保障されなければならない。統治の執行部門は選挙民からその権限を発し、かつ選挙民と完全な代議制に基づく立法府とに責任を有するような規定がもうけられるべきである。

 もし天皇制が残されない場合は憲法上の規制は明らかに不必要であろうが、その場合においてもつぎの諸点が必要である。
(1)財政と予算にたいする議会の完全な統制
(2)日本人民のみならず、日本の支配下にあらゆる人民に対する基本的人権の保障
(3)国家元首の行為は、明白に委任された権限にのみ従うこと

 もし天皇制が残された場合、右に挙げたものに加えて以下の規制が必要となろう。
(1)天皇に勧告と承認を行う内閣は、代議制に基づく立法府の助言と同意によって選ばれ、かつ立法府に責任を負う
(2)立法機関に対する拒否権は、貴族院、枢密院のごとき他の機関によって行使されない
(3)天皇は内閣が提案し、議会が承認した憲法の改正を発議する
(4)立法府は自らの意思で開会することが認められる
(5)将来認められると思われる軍のいかなる大臣も文官でなくではならず、軍人が天皇に直接上奏する特権は除去される。


 ここには憲法構想として9条に直結するものは何も示されていなどころか、天皇制を残す場合に特に設けるべきものとして、将来、軍隊が再建されたときの規制があげられてさえいる。

 ではその少しの距離はどのようにして詰められていったのであろうか。

                              (続く)
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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その1

 昭和天皇も承認していた幣原・マッカーサー会談

 政治外交史の研究者豊下楢彦氏は、近著『昭和天皇の戦後史』(岩波書店)の中で、次のように述べている。

 幣原が友人の枢密顧問官・大平駒槌に語った会談内容に関するメモによれば、マッカーサーは米国の一部や関係諸国から天皇制の廃止や昭和天皇を戦犯にすべきだとの声が高まっていることに危機感をもち、幣原に対して「幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し、日本国民はもう戦争しないという決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとするように憲法に明記すれば、列強もとやかくいわず天皇制へふみきれるだろう」と語ったという。
 このメモがどこまで正確なものか否かは別として、『実録』は、幣原が翌25日に昭和天皇に拝謁し、前日にマッカーサーと会見したこと、そこにおいて「天皇制維持の必要、及び戦争放棄等につき談話した旨の奏上を受けられる」と記している。つまり、新憲法の1条と9条となる根幹の問題が両者によって議論されて「意見が一致」し、しかもこの段階で、その「旨」が昭和天皇に「奏上」されていたのである。


注:「幣原が友人の枢密顧問官・大平駒槌に語った会談内容に関するメモ」
  1946年1月24日、幣原喜重郎首相とマッカーサー連合国軍最高司令官との間で行われたいわゆる幣原・マッカーサー会談の模様を、当時、幣原の友人、枢密院顧問大平駒槌が幣原本人から聞き、それを又聞きした大平の娘羽室ミチ子が作成したメモ。羽室メモと呼ばれている。
  「(幣原は)世界中が戦力を持たないという理想論を始め戦争を世界中がしなくなる様になるには戦争を放棄するという事以外にないと考えると話し出したところマッカーサーが急に立ち上がつて両手で手を握り、涙を目にいっぱいためてその通りだと言い出したので幣原は一寸びっくりしたという。・・・マッカーサーは出来る限り日本の為になる様にと考えているらしいが本国政府の一部、GHQの一部、極東委員会では非常に不利な議論が出ている。殊にソ聯、オランダ、オーストラリヤ等は殊の外天皇と言うものをおそれていた。・・・だから天皇制を廃止する事は勿論天皇を戦犯にすべきだと強固に主張し始めたのだ。この事についてマッカーサーは非常に困つたらしい。そこで出来る限り早く幣原の理想である戦争放棄を世界に声明し日本国民はもう戦争をしないと言う決心を示して外国の信用を得、天皇をシンボルとする事を憲法に明記すれば列国もとやかく言わずに天皇制へふみ切れるだろうと考えたらしい。・・・これ以外に天皇制をつづけてゆける方法はないのではないかと言う事に二人の意見が一致したのでこの草案を通す事に幣原も腹をきめたのだそうだ」

注:『実録』とは『昭和天皇実録』のこと


 ここには憲法9条は、日本が再び軍備を持てないようにしようとしたアメリカの陰謀によるもの、もしくは軍事力を背景にした押しつけだとする俗説を否定する重要な史実が示されている。

 私は、日本国憲法に第1条と第9条の両者が採用・規定されたことを、ルース・ベネディクトの有名な著書『菊と刀』をもじって、「菊と刀」のバーターと呼ぶことにしたい。「菊と刀」のバーターは、どうやら昭和天皇と当時の首相幣原と連合国最高司令官マッカーサーの合作で、進められたようである。

 といってもそれは決して、実利的な意味でのバーターだと解されてはならず、もっと深く重い意味があるように思われる。しばらくこの問題を考えてみようと思う。

                                 (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(7)

天皇神格化・「現人神」教の確立

 幕末の光格天皇、その孫孝明天皇の二代(その間に仁孝天皇が挟まれているが、とりたてて言うべき事績は伝えられていない。)の天皇が、危機・動乱の時代の流れに巧みに竿をさし、天皇の地位を復活させてきた経緯を見てきた。しかし、それは、危機・動乱の時代が生み出したものであって、彼らの努力、精進の賜物とまで言うと、言いすぎになるだろう。

 もっとも光格天皇も孝明天皇も、天照大神、神武天皇につらなる強烈な皇統意識を持ち、古代の神事と朝廷儀礼、格式を再興すると努力を怠らず、日本書紀をはじめとする六国史などの学習を自ら行い、公家にも課するなど、保守反動のエトスを広めたことは否めない。

 民衆レベルでは、幕府の権威が崩れつつあるとき、これにかわるものとして、この古代以来万世一系とされる天皇に新たな権威を求めることになった。そのとき、天皇は、神事と朝廷儀礼により装飾された神的存在となっていたことが、民衆統合と動員の原動力となって行った。

 討幕派は、「玉」としての明治天皇を握ることにより、幕府を倒し、維新政権を打ち立てることができた。以後、維新政権を継承した明治政府は、権力の維持・強化にも、「玉」としての天皇を最大限利用することになる。

 具体的には、民衆レベルで進んでいた天皇は神的存在なる虚構を一層推し進め、制度化することである。

 明治初年以来、明治政府は、国家神道の確立、普及に腐心し、その制度化を図ってきた。1870年(明治3年)には大教宣布の詔を発し、神道を国教とすることを宣言、宮中神事を国民的神事とすることにより、民衆に天皇崇拝の心情を植え付けて行った。

 これらの経緯は、専門の研究書(例えば村上重良『天皇制国家と宗教』講談社学術文庫)に譲ることにして、明治憲法制定過程における次のエピソードを紹介し、本小論を終えることとする。

 伊藤博文は、明治憲法制定にあたって、1882年から1883年にかけてヨーロッパを回って、調査・研究にあたったが、その際、伊藤は、プロイセンの法学者グナイストに、「日本は仏教をもって国教となすべし」と勧告されたそうである。グナイスト曰く、プロイセン憲法では、信教の自由を定めず、第14条で「キリスト教は礼拝と関係する国家の基礎」と定めている、このキリスト教とあるところを日本では仏教とすべきだ、と。

 しかし、伊藤は、明治憲法では、仏教を国教とするような愚かな選択はしなかった。1888年5月、枢密院で、明治憲法案を審議した際、彼は次のように述べた。

 「今憲法を制定せらるるにあたっては、先ず我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政其統紀を失ひ、国家亦随て廃亡す。苟も国家が国家として生存し、人民統治せんとせば、宜く深く慮つて以て統治の効用を失はざらん事を期すべきなり。

そもそも欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。

 佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ。」


 かくして、明治憲法は、天皇を現人神として国家の根幹にすえることとしたのであった。明治憲法制定に追随して策定された「教育勅語」は、その具体化である。これに対して、核となる精神は取り戻したいとの心情を吐露する政治家が要職を占める現在のわが国のアナクロニズムは、笑い話の域を超えて、恐怖を催させるものがある。

                                 (了)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(6)

幕府協調路線の孝明天皇―大政委任論原理主義者として

 通商条約勅許拒否の後、幕府は、これを無視してアメリカに引き続き、ロシア、イギリス、オランダと、次々と通商条約を締結し、天皇・朝廷には事後報告に留めるということを繰り返した。それだけではなく、将軍継嗣問題も重なり、幕府は危機打開のために1858年6月4日(安政5年4月23日)井伊直弼を大老に任命し、強権政治を開始し、水戸、尾張等御三家藩主ら異論派の押さえ込みをはかった。

 これに対し、孝明天皇は、「主上逆鱗、御扇をもって九条殿下の頭をしたたかに御打擲」と書かれるほどに激怒し、同年9月14日(安政5年8月8日)勅答に背いた幕府を非難し、諸大名に徳川家を助けるように命じる「御趣意書」を幕府と水戸藩に送らせた。これを「戊午の密勅」と呼んでいる。

注1:九条殿下とは関白九条尚忠のこと。
注2:戊午とは安政5年の干支による年である。


 「戊午の密勅」は、幕府を震撼させた。幕府は、これに関わった朝廷諸役らの責任を問う一方、孝明天皇や朝廷諸役には金銭を提供し、攘夷鎖国に引き戻したいとの意向を表明することにより、孝明天皇から「心中氷解」の沙汰書を取り付けた。

 しかし、幕府は、他方で、下級公家、諸藩の攘夷と討幕を結びつけようとする勢力に大弾圧を加えた。「安政の大獄」である。転がりかけた車輪は、容易に止まることはない。世紀の大弾圧の嵐は、下級公家、諸藩の浪士を決起させ、攘夷・討幕のテロルが吹き荒れる。

 1860年3月24日(安政7年3月3日)、桜田門外の変。水戸藩脱藩浪士らにより大老井伊直弼が暗殺されると、幕府は、再び孝明天皇・朝廷の力を借りて、事態鎮静化をはからざるを得なくなった。

 孝明天皇と朝廷諸役は、もとより大政委任論によって立っていたので、これを受け入れ、将軍家茂に孝明天皇の妹・和宮を降嫁(勅許が下りたのは1860年11月30日・万延元年10月18日)へと進む。形の上では公武合体は急速に進行し、幕府の戦略は成功したかに見える。しかし下級公家、諸藩浪士の攘夷・討幕派の過激化と勢力伸長をおし止めることはできず、朝廷は、攘夷・討幕派が席巻する。次第に攘夷・公武合体の孝明天皇も身動きが取れなくなってしまい、幕府はますます追いつめられてしまった。

 これが1860年ころから1863年9月30日(文久3年8月18日)のいわゆる文久3年の政変に至る実情であった。

 不思議なことに、この攘夷・討幕派の勢力伸長とともに、彼らの中では、攘夷は単なるスローガンに転じ、討幕こそがその唯一の目的となって行った。いよいよ討幕派と幕府がモロに激突することになる。今や、孝明天皇という「玉」をどちらが握るか、それが政局の必争点となったのである。

 この段階で、「玉」を握ったのは、幕府であった。孝明天皇は、攘夷原理主義と大政委任論原理主義の狭間で呻吟しつつ、最後は、秩序維持を重んじる保守反動のエトスが「大政委任論原理主義」を取らせたのであった。そうなると彼にとっても攘夷はもはや金科玉条ではない。攘夷論者ではなくなったのに攘夷をスローガンとすることで孝明天皇を担ぎ続けようとした攘夷・討幕派にとっても、もはや「玉」を取る妙手はなくなってしまったのである。

 かくして文久3年の政変を機に、討幕派は急速に勢力を弱め、「玉」を得た幕府は、一会桑(いっかいそう)政権によりしばしの平穏を保つことができた。しかし、幕府の弱体化は、明らかとなっていたのに、一会桑政権の一時的安定に溺れた幕府は、二度の長州討伐戦争を企て自ら墓穴を掘ってしまった。幕府政権を前提とした公武合体論は、やがて天皇・朝廷の名目的政権を諸侯会議が補佐する幕府による実質的政権という公議政体論に席を譲ろうとしていた。まさにそのとき新たな「玉」・明治天皇を得て、下級公家、諸藩の討幕派が再浮上し、一気に討幕へと突き進むことになった。孝明天皇が急死したのである。時に1867年1月30日、慶応2年12月25日のことであった。

注:一会桑とは一橋慶喜、会津藩、桑名藩の頭文字をつなぎ合わせたものである。

 幕末最後の動乱期、天皇は、「玉」となって、相争う勢力がその争奪合戦をするに身を任せることになった。最後にこれを握った側が勝ちを占めるのである。かくして天皇を「玉」とすることによって明治は始まった。天皇神格化は、ここから構築されたことを私たちは忘れてはならない。

                              (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(5)

危機感煽る孝明天皇―攘夷原理主義者として

 1857年(安政4年)、前年来、アメリカ駐日領事が提起し、交渉が始まっていた日米通商条約に対し、幕府は、1854年(安政7年)の日米和親条約締結以来の内外の情勢を分析し、積極開国の路線に転じ、同年末には、これを締結する方針を固めた。

 しかし、諸大名には、水戸の徳川斉昭をはじめ、根強い反対意見があった。そこで、幕府は、天皇・朝廷の権威を利用することにより、国論統一をはかろうとした。幕府は、天皇・朝廷に対し、従来であれば、事後報告に留めていたところを、事前に報告し、勅許を取り付けようとしたのである。

 天皇・朝廷の権威を利用しようとした点では、反対派の斉昭も同じであった。彼は、関白九条尚忠に、欧米諸国の日本侵略の意図を強調し、通商条約はそのための手段に過ぎないと危機感を煽り、朝廷が傍観することなく、通商条約締結に反対することを宣言し、諸大名、有志の奮起を促すべきだとする意見書を提出したのである。

 こんなこととはつゆ知らず、幕府は、翌年早々にも、老中堀田正睦を上京させ、勅許取り付けにあたらせることにした。幕府は勅許取り付けに何の不安も持っていなかったようであるし、堀田も、これを儀式程度のことと考えていたようである。
 しかし、思いもかけず、強硬な反対にあい、勅許取り付けはあえなく失敗に終わってしまった。堀田は、「実に堂上方正気の沙汰とは存ぜられず」と嘆いてみたが、あとのまつりであった。

 朝廷においては、斉昭の意見書がどれだけの影響を及ぼしたのかは不明であるが、かってない規模と範囲で衆議が行われ、政治化が進んでいたのである。その中心となったのは、ほかならぬ孝明天皇であった。

 孝明天皇は、老中堀田が上京するとの知らせを受けるや、1858年3月2日(安政5年1月17日)、九条関白に辰翰を送り、意見聴取の範囲を現任の朝廷諸役にとどめず、三位以上または参議以上の公家に拡大すること、公家らに関白など朝廷諸役に遠慮なく自由に意見を出させるようにすべしと指示した。

 公家大衆らは公然と議論に参加し、各自自由に意見表明をした。孝明天皇は、当初は、通商条約に生理的反発を覚えつつ、朝廷諸役の意向を忖度しつつ慎重な態度であったが、次第に、勅許拒否にかたまり、一週間後のに再び九条関白に送った辰翰で「たとえ老中が上京していかに演説しようとも断固拒絶する、もしも外国人が納得しないなら『打ち払う』」との決心を披歴した。

 もっともその理由たるや当代においてこのようなことになれば伊勢神宮をはじめ神明、及び皇祖皇宗に申し訳が立たない、一身の恥などという情緒的なことを述べるばかりであった。

 かくして朝議は、勅許するかどうかは三家以下諸大名の意見を聞いてから決める、つまり直ちには勅許しないとの回答をすることに一旦決した。

 しかし、上京して、朝議が上記の如く決したことを知った堀田は、猛然と巻き返しを図る。同月25日(安政5年2月11日)、朝廷諸役らを宿舎に招き、以下のように説いた。

 地球上あらゆる国と国民を結びつける世界の趨勢から、今は、拒絶し鎖国体制を維持することは不可能であり、またそれがわが国の発展に資するものではない、その中に入って行くしか道はない。

 孝明天皇の攘夷論より堀田の開国論の方が合理的で説得力がある。朝廷諸役もこれに従い、朝議の再検討を始める。同年4月(安政5年3月)になると、先の朝議の結論は、「幕府に任せる」と改変されるかに見えた。このとき再び孝明天皇がイニシアティブを発揮し、同月20日(安政5年3月7日)、またまた九条関白に辰翰を発し、朝廷諸役の範囲にとどまらず、三位以上又は参議以上の公家らの意見聴取を指示した。これにより公家大衆から再び公然たる議論が沸き起こり、朝廷諸役による朝議改変の動きが封殺された。公然たる意見を表明は、中、下級の堂上公家、下級官人にまでひろがり、またその行動も、御所での集会、朝廷諸役宅への列参など、大衆運動の様相を呈するに至った。

 朝議で勅答の内容が確定し、堀田に伝達されたのは同年5月3日(安政5年3月20日)のことであった。

 通商条約は国威を損なう。公卿らは、国体を変ずることを危惧している。三家以下諸大名の意見を徴し、評議の上、あらためて勅許伺いを出せ。

 堀田は、戦争になってもよいのかと迫ったが、孝明天皇は、「是非なき儀」と答えたという。孝明天皇の攘夷原理主義が最高点に達した一瞬である。

 ともあれ通商条約勅許問題は、朝幕関係を決定的に転換させた。天皇・朝廷が幕藩体制の付属物から自立し、現実政治を動かす権力を持つに至ったのである。同時、それは攘夷と討幕が大衆的に結合する起点ともなった。

                                (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(4)

海防勅書

 孝明天皇が即位した1846年3月(弘化3年2月)といえば、清国が阿片戦争でイギリスに蹂躙された記憶もまだ新しい時期、わが国にもアメリカ、イギリ、フランスの軍艦が来航して航路・港湾の測量や通商を要求することが頻繁になっていた。

 祖父光格天皇から天照大神、神武天皇に伝わる万世一系の皇統の教えと、それをバックにした強烈な君主意識を叩きこまれた孝明天皇は、この状況に条件反射し、光格天皇も成しえなかった挙に出た。同年10月21日(弘化3年8月29日)、幕府に要旨以下の如き勅書を下した。

 「近年異国船がときどき来航するという噂を耳にしている。幕府は、異国を侮らず畏れず海防を一層強化し、『神州の瑕瑾』とならないように処置し、宸襟を安んじるように」
 
 世にこれを海防勅書と呼んでおり、天皇が幕府の対外政策に直接介入したはじめてのできごとである。

 さらに武家伝奏は、上記勅書を伝達する際、(要旨)「異国船の儀、文化度の振り合いもあるから、差し支えない範囲で、最近の状況を報告されたい」との要望を付け加えている。「文化度の振り合い」とは、1807年(文化4年)、幕府が朝廷に、蝦夷地に来航したロシア船との紛争を報告した先例に倣ってという趣旨である。

 幕府は、これを異例・異式として咎めるどころか、同年11月21日(弘化3年10月3日)、要旨以下の回答を行った。

 「先般のお沙汰は、将軍に言上されることになりました。最近の異国船渡来の模様については、老中より、文化度の振り合いでよろしく取り計らえとの意向が示されましたので、禁裏付武士へ伝えました」これにより、幕府は、対外情勢を朝廷に報告することが慣例化し、外交問題に関し、天皇・朝廷が幕府に、指示・要求を出せる仕組みのひな形となる。

五畿内七道諸国司への太政官符

 1853年(嘉永6年)と翌年のペリー来航と日米和親条約については、あたらしくできた慣例に従い、幕府から朝廷に対し、報告がなされた。これに対し、孝明天皇は、武家伝奏を通じて、「アメリカへの回答を行うにあたっては「神州の一大事であり、人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることがないように」と一般論的な叡慮を伝えさせるにとどめざるを得なかったが、その際、老中阿部正弘らから、幕府としては、アメリカへの回答は穏便に扱わざるを得ませんが、叡慮を安んじることを重視しています、今後、こうしたいと思われることがあれば遠慮なくお申し付け下さい、お申し付けに従いあらためて対応をします、との返事を得た。

 天皇・朝廷が、幕府に対し、指示・要求を出せる仕組みが確認されたのである。しかし、このチャンスに、朝廷において、アメリカへの回答をめぐって意見対立があり、幕府への大政委任論の立場から、幕府に任せるべきだという意見が大勢を占めた。

 日米和親条約締結直後の1854年11月8日(嘉永7年9月18日)、今度は、ロシア使節・プチャーチンの乗る軍艦ディアナ号が大阪湾天保山沖に来航した。お膝元を不意打ちされて動転した孝明天皇と朝廷は、1855年2月9日(安政元年12月23日)、国家的危難を救うためとして、五畿内七道(古代日本の律令制国家の広域地方行政区画)の諸国司へ「諸国の寺院の梵鐘」を「皇国擁護の器」である大砲に鋳かえることを命じる太政官符を発した。これは内容といい、また形式といい、あまりにもアナクロニズムであり、かつまた梵鐘を大砲に鋳かえることは不穏当ということで、実効ある命令とはならなかったが、幕藩体制と朝幕関係を根本から揺るがす大事件であったことは否定できない。以後、幕府は、天皇・朝廷の意向を重要視せざるを得なくなって行く。

                                (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(3)

「天皇」の尊号復活

 古来、「天皇」の尊号は、死去後におくられる諡号(しごう)もしくは追号(ついごう)として用いられてきた。このように使用されてきた「天皇」の尊号が、10世紀の終わり村上天皇(在位946年~967年)以来、実に、約900年にわたって中断されていたと聞くと、多くの人は意外に思うかもしれない。この間、「院」の号が「天皇」の尊号にかわって用いられてきた。
 江戸時代に編纂された公家・朝廷の職員録『雲上明覧』では、村上天皇の次は冷泉院、光格天皇の先代は後桃園院、その間も全て「○○院」と表記されている。

 なんのことはない。金のあるものは、貴賎を問わず死後には、「○○院」の称号を授かっていたのである。この世に先がけて、あの世では、四民平等であった。

 これまで光格天皇と書いてきたのでそのまま続けるが、光格天皇は、1840年(天保11年)死去した。すると死去した翌年、閏正月に、彼に、「光格天皇」なる諡号(しごう)がおくらた。だから光格天皇と称されるのは、死後のことなのである。

 これは、幕末の動乱に引き継がれる直前の不安定な時代に、38年間在位、院政の時期も含めると41年間、天皇と朝廷の地位引き上げに腐心し、多大の功のあった怪物といってもよい異例の人物であった彼には、ふさわしい処遇であったと言ってよい。

 しかし、こうしてできた先例は、これ以後、引き継がれる。もっとも1868年10月23日(慶応4年9月8日)発せられた明治改元の詔により、天皇一代元号一つという一世一元の制が定められてからは、「元号+天皇」の尊号が用いられるようになったのであるが。
 「天皇」の尊号復活は、現実政治においても独り歩きし、当代の天皇の格式と威厳を一層高めることになった。もはや朝幕関係において、天皇・朝廷優位は動かし難い現実の力を持つに至るのである。

 なお、冷泉院から後桃園院に至る57代の「院」が「天皇」と呼称されることに改められたのは、1925年(大正14年)のこと、時の政府が、わざわざそのようなことを定めたのである。しかし、歴史は上書きをしても消去はできない。

攘夷原理主義と大政委任論原理主義の狭間で

 さて、光格天皇がこねた王政復古餅、ついて完成させたのは孝明だと藤田覚氏は言われたが、その孝明天皇が即位したのは、1846年3月(弘化3年2月)、以来、彼は、1867年1月(慶応2年12月)、死去するまで、文字通り、幕末動乱の時代を、悩み、苦しみ、もだえつつ生き抜いた

 孝明天皇は、この動乱の時代に、一方では硬直した攘夷原理主義者として、名もなき衆生を政治の世界に引きずり込み、他方では、これまた硬直した大政委任論原理主義者として、公武一体論に固執し、前者によって討幕論にまで突き進んだ勢力から、その勢いをそぐ障害物とみなされることになる。

 その死について、岩倉具視による毒殺論など学者による論争まで行われているが、その生きざまの鮮烈な印象がそうさせている一面もあるようである。

 いずれにしても、孝明天皇は、天皇・朝廷の地位・権威を、もはや将軍・幕府も手を触れることができないほどの高みに引き上げた。その経緯の若干を次回に述べることとする。

                         (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(2)

やり過ぎた光格天皇

 光格天皇は、天皇家では傍系の閑院宮家出身であることは既に述べた。その父、典仁親王は、6代前の東山天皇の孫である。当時、前出の禁中並公家諸法度によれば、御所内で着座する際の席順は、親王は、摂政・関白はおろか太政大臣、左大臣、右大臣よりも下座ということになっていた。光格天皇は、即位後、父が臣下よりも下座に着座するのを見るにつけ、心中ひそかに父を思いやっていたようである。

 父へのしのびない情が嵩じて、光格天皇は、父に太上天皇の尊号をおくることを思い立ち、即位後3年ほどしてから幕府に承認を求めようと動き始める。
 光格天皇は、父への親孝行と先例があることを理由にあげたが、幕府側の対応は、「なお再考を求む」であり、なかなか思うようには進まなかった。
 幕府側の考えは、要するに認めないということだと知った光格天皇は、1792年(寛政3年)1月、公卿(高位の公家)らの群議を経て、一方的宣下により強行突破を図ろうとした。一方的宣下の方針通告を受けた幕府側の責任者松平定信は、事態を紛糾させた責任を問うべく天皇側近の公卿2名を江戸に呼びつけ、厳しく尋問、閉門・蟄居の処分を申し渡した。

 光格天皇も、その力を過信したようだ。父典仁へ尊号を一方的に宣言しようとする試みは挫折した。しかし、彼は、これを反省し、その後は伊勢神宮、賀茂社、石清水八幡宮などの神事再興に力を尽くし、折から切迫する内外の危機に、祈る天皇としてその存在価値を高めることとなる。まことにしたたかなお方であった。

大政委任論の台頭

 危機の時代には、統治権力の権威と正当性がかえりみられ、その論理的説明が図られるものである。

 天明の大飢饉後の1787年(天明7年)の年に、本居宣長は、『たまくしげ』を著し、その中で、「天下の御政(おまつりごと)」は、朝廷の「御仁(みまさし)により徳川家康とその子孫が代々おこなってきた、国土と王民は、天皇が将軍に預けたものであるからその私有物ではないという趣旨のことを書いている。

 江戸時代、大政は天皇から将軍に委任されたものであるという考え方を公然と説いたものはこれが嚆矢である。

 光格天皇と対峙したあの松平定信も、幕府の統治権力が黄昏れはじめたことを自覚し、側近の儒者の意見を徴し、この考え方こそ、その統治権力に生きた力を与えるものであることを認識していた一人であった。

 松平定信が、1788年(天明8年)、年若い将軍家斉に献呈した『将軍家御心得十五箇条』には、「古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申し候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばれ候御事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍と成らせられ天下を御治め遊ばれそうろうは、御職分に御座候」と書かれていた。
 1791年(寛政3年)、後期水戸学の祖と言われる藤田幽谷が、幕府が朝廷を尊ぶことにより諸大名は幕府を尊び、家臣は大名を尊ぶことを説いた『正名論』も、松平定信の求めに応じて書かれたものだという。

 実にこれ以後幕末にかけての対外問題の処理を通して、この大政委任論の革袋に酒がつぎ込まれていくことになる。大政成委任論は、当初の目論見を超えて、朝幕関係を、一気に天皇・朝廷優位に転換するバネとなった。

                              (続く)

天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(1)

 「戦国時代の群雄割拠を終焉させて天下統一を実現した英雄三人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について、『織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川』と言い表わされるのは有名である。これをもじって明治維新の王政復古を三人の天皇、光格天皇、孝明天皇 明治天皇で表現してみると『光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治』ということになろうか。」(藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫))

 幕府の支配下にあった天皇・朝廷

 戦国時代、没落し、疲弊の極に呻吟していた天皇と皇室は、天下統一の過程で、覇者による支配に権威と正当性を与え、位階・官職を授与することで家臣・諸大名を圧服する道具として、その存在意義を見出され、覇者の庇護を受けて、存続することができた。

 徳川幕府が成立し、幕藩制統治システムが成立すると、1615年、「禁中並びに公家諸法度」が制定され、天皇と朝廷は、幕府の定める法令により規律されることになった。

 幕府による天皇、朝廷支配は、将軍⇒老中⇒京都所司代⇒禁裏付と順次下達され、公家の武家伝奏⇒関白⇒天皇と「上達」され、貫徹する仕組みとなっていた。

 上記諸法度第1条には「天子諸芸能の事、第一御学問なり」と天皇の在り方が定められおり、第11条には「関白、伝奏並びに奉行職事申し渡す儀、堂上・地下の輩相背くにおいては、流罪たるべき事」と朝廷官人(堂上は殿上人、地下は昇殿を許されない官人)が幕府の刑罰権に服することが定められている。幕末に激変するのであるが、それまでの朝幕関係の実際を見ると、幕府の威令は天皇、朝廷を覆っていたことがわかる。
 経済的にも、幕府が献上した禁裏御料3万石や上皇・公家所領など、朝廷の支配下にある所領は10万石、一貧乏藩の域にしか達し得ず、天皇、朝廷は、幕府の丸抱えと言うに等しい状態であった。

 幕府による天皇と朝廷支配にかげりが見えるのは、18世紀末頃からである。直接の契機となったのは1782年(天明2年)、天明の大飢饉である。幕府のおひざ元ともいうべき関東地方各地に頻発する大規模な百姓一揆は、幕府、将軍の威光を容赦なく叩きのめす。それと反比例して、尊王思想が、勃興する。

光格天皇による天皇・朝廷の地位引き上げの努力

 この流れに掉さし、上手に身をまかしたのは光格天皇であった。

 光格天皇は、傍系の閑院宮家出身で、1779年(安永8年)12月、即位し、1817年(文化14年)5月に退位するまで(退位後の1840年(天保11年)12月崩御までは上皇。歴史上最後の上皇である。)、天明大飢饉後の尊王思想の民衆への普及と幕府の朝廷尊重姿勢への微妙なポジション移動を読み取って、窮民救済を指示し、民衆の支持を確固たるものとし、宮中の神事・祭式を復興させ、先例に基づいて朝議を復興させ、天皇の威厳を高めて行った。

 1782年(天明2年)、天明の大火により京都御所が灰燼に帰すると、光格天皇は、消失前の御所ではなく古式の復古的御所の造営をすることを幕府に求めた。財政難の中、造営費を節約したい幕府は、事を重大と見て、老中松平定信を御所造営の総奉行に任命、復古的御所造営を断念させようとしたが、この交渉の中で、朝廷側は、プランをまとめて幕府側に突き付けるという従来なら考えられない強引なやり方をとり、光格天皇の初志を貫徹し、1790年(寛政2年)、復古的御所が完成すると、仮住まいの聖護院を出て、鳳輦(ほうれん)に乗り、美々しい行列を従えて、新しい御所に移った。

 このときの朝幕間の交渉において、もう一つ大きな変革がもたらされた。それは、従来、朝廷側の武家伝奏が一方的に京都所司代の屋敷に赴くというやり方であったが、光格天皇は、これは昔からそうであったわけではないから改めるできであると主張し、京都所司代の役人も、武家伝奏の屋敷を訪れるようにさせたことである。

 このようにして次第に、天皇・朝廷の地位は引き上げられ、朝幕対等の関係が築かれていくことになった。

                           (続く)

近現代史に学ぶ

 現在を、過去の歴史のある時代と比較して、そこから教訓を汲み出し、時には現状改善の処方箋を書いたり、時には迫りくる危険に警鐘を乱打したりすることがよくある。

 最近、柄谷行人『憲法と無意識』(岩波新書)と、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか―問題史的考察』(同)を続けて読んで、あらためてこの問題を考えてみた。

 柄谷氏は、17世紀以来の歴史を通観し、世界資本主義は、覇権国家(帝国)が確立し、存続する時代と、それが消失し、新たな覇権国家(帝国)の座をめざしてしのぎをけずる時代とが、120年周期で、繰り返されていると言う。
 彼によると、オランダが1750年頃まで、イギリスが1810年頃から1870年頃まで、アメリカが1930年頃から1990年頃まで、それぞれ覇権国家(帝国)であり、そのはざかい期の各60年は、覇権国家をめざす諸国が、しのぎをけずって戦う帝国主義の時代である。
 このようにして現在をこの歴史段階の中に据えると、勿論、帝国主義の時代ということになる。現在を一言で言い表すキーワードは「新自由主義」であるが、これは無限に自由市場の拡大をめざすもので、無限に領土の拡大をめざす古い帝国主義の現代的姿態であるが、それはいつ再び古い姿態に変ずるか誰も予測はできないものである。
 柄谷氏は、少し120年周期にこだわり過ぎて、覇権国家アメリカの成立時期を、15年ほどはやめてしまっているのが気になるが、このような模式を用いて、時代区分をし、その循環性を指摘することは、確かに現在を考え、明日を模索するための補助線を見つけることができる。
 柄谷氏は、この循環模式の仮説から、現在の日本を、1890年代の日清戦争直前の時代になぞらえて考えることを提起している。
 確かに、日韓、日朝、日中の対立と共存、東アジアの現状は、日清戦争直前の時代を彷彿とさせるものがある。

 ただあの時代と違う点が一つある。それはわが国に憲法9条があるということだ。憲法9条があるから、東アジアの課題を解決するには平和的方法以外に選択肢は存在しない。しかし、憲法9条の規範性を後退させると、平和的方法以外の選択肢が浮上してくる。憲法9条が我々を守ってくれるのである。だから我々は憲法9条を護らなければならない。

 三谷氏は、わが国の近現代史を概観し、第一次世界大戦後の大正デモクラシーと呼ばれた時代は、国際的にも、ワシントン体制と呼ばれる平和、軍縮を核とする国際協調の時代であったことに注目する。
 ワシントン体制とは、太平洋海域の安定・現状保全を目的とする日英米仏の4カ国条約、中国の政治的・領土的保全と門戸開放・機会均等を謳う関係9カ国条約、主要海軍国5カ国の海軍軍縮条約と、国際連盟創設、パリ不戦条約等から成り立っており、条約の内容面では国際協調・軍縮・平和、条約形式面では二国間条約ではなく、多国間条約であることを特色としていた。
 三谷氏は、ワシントン体制は、平和共存の政治的軍事的な一連の条約群が、経済・金融面での相互協力・提携関係と表裏一体のものであったことを強調する。

 しかし、それはヨーロッパでもアジアでも、いとも簡単に崩れ去ってしまい、地域主義、ブロック体制、帝国主義戦争に洗い流されてしまった。

 現在を、この文脈においてみると、ワシントン体制は国連体制に進化発展を遂げ、無数のインターナショナルな条約によって、世界は構築されるに至ったが、一方で、中東、アフリカ、東アジアでは紛争と緊張が絶えず、アメリカ、中国をはじめ、自国第一主義が台頭しており、過去と未来が鬩ぎ合っている。

 わが国は、憲法で、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(前文)と世界に宣言した唯一の国である。どのようにすれば1930年代の再現を防ぐことができるのか、そのことを真剣に世界に発信する責務がある。
                               (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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