明治憲法は、明治維新の亜流であった

 当ブログに連載した『明治維新という時代』第二話『大西郷は永続革命をめざしたのか?』において、私は、明治六年の政変(筆頭参議西郷をはじめ、板垣、江藤、副島、後藤の五参議追放)及び明治十四年の政変(筆頭参議大隈の追放)について、以下のように述べた。

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 「1871年8月、三条、岩倉、西郷、木戸、板垣、大隈によって構成される政府(大久保は大蔵卿として大きな力をもっていたが、参議ではなかった。)が発足して以来、とりわけ遣外欧米視察団出発以来、急進的改革が累次積み重なり、同使節団全員が帰国した直後の1873年9月中旬の時点で、蜘蛛の糸の巻きあいといった具合に、もつれにもつれてしまった政権内部の対立と抗争を、遣朝使節派遣問題に焦点をあわせ、西郷が用いた「レトリックとしての使節暴殺論」を逆転させ、使節派遣=即時開戦との論をたてて、遣朝使節派遣を延期=拒否し、西郷と西郷を支持する参議らを失脚させることによって、漸進改革の提唱者である大久保を中心とした政権に一新する、同時に、有司専制なる少数者の密室政治を復活させ、確立させる、これが明治六年の政変である。」

 「大隈は、早期国会開設論と立憲政体としてイギリス流の議院内閣制をとるべき固めたが、意見書の提出を控えていた。これにより政府内の対立が先鋭化することを避けようとしたのである。しかし、有栖川宮からの重ねての催促を受けて、意見書の内容を他の参議に明かさないとの約束のもと、ようやく1881年3月に意見書を提出した。
 その内容は、年内に憲法制定、政体は政党本位の議院内閣制とする、翌年末には国会議員選挙、2年後国会開会という急進的なものであった。
 その内容に驚いた有栖川宮は、約束に反して、三条、岩倉に相談、伊藤もその意見書を閲読するに至る。伊藤は憤然として、大隈を切るための陰謀をめぐらし始める。
 伊藤は全参議を糾合し、再び岩倉と結託し、岩倉をして、折から発生した(北海道)開拓使官有物の払い下げ問題(開拓使の存続期間満了をもって、時価3000万円相当ともいわれた官有物を、わずか30万円で、しかも30年間無利息割賦払いという、現代の森友学園国有地払い下げ問題など足もとにも及ばない巨額の国家財産簒奪事件。開拓使長官が黒田清隆、払い下げを受ける者が五代友厚、いずれも旧薩摩藩出身であることから連日新聞紙上をにぎわした。)で、大隈が情報操作をして、騒ぎを大きくし、早期国会開設の自論を有利に導き、政権基盤を確保しようとしているなどと天皇に讒訴、参議罷免を上奏させるに至った。

(中略)

 大隈は涙をのんで、同年10月11日、辞表提出、翌日、これを受理するとともに開拓使官有物払下げは取り消し、あわせて「明治23年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志をなさんとす」との勅諭(国会開設の詔)が公布された。

 大隈が追い落とされた翌年、1882年8月5日、戒厳令が制定された(太政官布告第36号)。これはたまたま時期がそうなったものではないことは、衆目の一致するところであろう。

 こうして見ると、明治十四年の政変は、明治六年の政変の規模の小さいリフレインであったといえる。伊藤の奸知がますます冴えわたっているのが見えるようだ。」・・・・・・・(以上6月10日掲載分))


 「明治六年の政変、明治十四年の政変により、フランス流立憲政治、アメリカ流立憲政治、イギリス立憲政治、いずれにも向かい得る多様な可能性は消去され、プロシア流の疑似立憲政治へと選択肢が絞られた。法律によっていかようにも制限できる「自由」と「権利」、万世一系の天皇の大権、統帥権の独立。その下でわが国は、産業の発展と軍事大国化の道をひた走り、植民地と市場の確保のために軍事力を行使し続ける。気づいてみれば、軍国主義、ファシズムが席巻し、アジア全域を侵略し、世界を相手に無謀な戦争へ突入に突入していた。」
  ・・・・・・・(以上6月11日掲載分)

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 上の文章を書いた時点では、姜範錫『征韓論政変―明治六年の権力闘争』(サイマル出版)は、まだ読んでいなかったが、最近、入手して一読してみた。
 姜は、経歴を見ると、1959年、早稲田大学政経学部政治学科を卒業、韓国日報政治部記者、中央日報東京特派員、韓国日報政治部次長を経て、1973年、官界に入り、駐日韓国公使を務め、退官後は、大阪市立大学客員教授として教鞭をとったとある。
 素人歴史家の書いたものとの先入見をもって、少し斜に構えて読み始めたが、すぐに姿勢を改めることを余儀なくされた。これは本格的な研究書である。

 明治六年の政変前、左院(太政官職制によると、太政官(政府)に置かれる一機関で、要にあたる正院(行政、司法にあわせ、立法の最終権限も握っていた。)、行政機関の長の連絡調整機関である右院に対し、立法権に参与するものとされるが、ややその地位・権限は不明確であった。)において、国憲(今日の憲法)の策定の準備が進められていた。

 当時、左院小議官であった宮島誠一郎が、その経過を記録し、『国憲編纂起源』という書物として残しており、今日、我々も読むことができる。

 それによると「いわゆる国憲なるは、フランスの五法の如く、広く人民に関渉せしものにして、その性質帝王自家の憲法にあらず」とされている。憲法は、フランスの諸法のように、広く人民の権利義務に関係するものであるから、天皇が一方的に決めるべきものではないというのである。

 姜は「(上記の)信条をいだく江藤ら土・肥派を野に放逐した明治六年の政変こそ、天皇制国家を完成した明治憲法制定への始動であり、実践的な第一歩であった」と述べている。全く同感である。

                              (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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