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天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(2)

やり過ぎた光格天皇

 光格天皇は、天皇家では傍系の閑院宮家出身であることは既に述べた。その父、典仁親王は、6代前の東山天皇の孫である。当時、前出の禁中並公家諸法度によれば、御所内で着座する際の席順は、親王は、摂政・関白はおろか太政大臣、左大臣、右大臣よりも下座ということになっていた。光格天皇は、即位後、父が臣下よりも下座に着座するのを見るにつけ、心中ひそかに父を思いやっていたようである。

 父へのしのびない情が嵩じて、光格天皇は、父に太上天皇の尊号をおくることを思い立ち、即位後3年ほどしてから幕府に承認を求めようと動き始める。
 光格天皇は、父への親孝行と先例があることを理由にあげたが、幕府側の対応は、「なお再考を求む」であり、なかなか思うようには進まなかった。
 幕府側の考えは、要するに認めないということだと知った光格天皇は、1792年(寛政3年)1月、公卿(高位の公家)らの群議を経て、一方的宣下により強行突破を図ろうとした。一方的宣下の方針通告を受けた幕府側の責任者松平定信は、事態を紛糾させた責任を問うべく天皇側近の公卿2名を江戸に呼びつけ、厳しく尋問、閉門・蟄居の処分を申し渡した。

 光格天皇も、その力を過信したようだ。父典仁へ尊号を一方的に宣言しようとする試みは挫折した。しかし、彼は、これを反省し、その後は伊勢神宮、賀茂社、石清水八幡宮などの神事再興に力を尽くし、折から切迫する内外の危機に、祈る天皇としてその存在価値を高めることとなる。まことにしたたかなお方であった。

大政委任論の台頭

 危機の時代には、統治権力の権威と正当性がかえりみられ、その論理的説明が図られるものである。

 天明の大飢饉後の1787年(天明7年)の年に、本居宣長は、『たまくしげ』を著し、その中で、「天下の御政(おまつりごと)」は、朝廷の「御仁(みまさし)により徳川家康とその子孫が代々おこなってきた、国土と王民は、天皇が将軍に預けたものであるからその私有物ではないという趣旨のことを書いている。

 江戸時代、大政は天皇から将軍に委任されたものであるという考え方を公然と説いたものはこれが嚆矢である。

 光格天皇と対峙したあの松平定信も、幕府の統治権力が黄昏れはじめたことを自覚し、側近の儒者の意見を徴し、この考え方こそ、その統治権力に生きた力を与えるものであることを認識していた一人であった。

 松平定信が、1788年(天明8年)、年若い将軍家斉に献呈した『将軍家御心得十五箇条』には、「古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申し候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばれ候御事に御座候えば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍と成らせられ天下を御治め遊ばれそうろうは、御職分に御座候」と書かれていた。
 1791年(寛政3年)、後期水戸学の祖と言われる藤田幽谷が、幕府が朝廷を尊ぶことにより諸大名は幕府を尊び、家臣は大名を尊ぶことを説いた『正名論』も、松平定信の求めに応じて書かれたものだという。

 実にこれ以後幕末にかけての対外問題の処理を通して、この大政委任論の革袋に酒がつぎ込まれていくことになる。大政成委任論は、当初の目論見を超えて、朝幕関係を、一気に天皇・朝廷優位に転換するバネとなった。

                              (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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