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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その30

「象徴天皇制」への道筋

手さぐりで進むマッカーサー―その悩み

 さてマッカーサーが厚木飛行場に降り立ったときの堂々たる雄姿は、我が国国民を瞠目させるに足りるものであったが、マッカーサーは決して武勇一筋の人ではなく、細心にして気配りの人でもあり、悩み多き人でもあった。

 8月28日、フランス仕込みの新首相・東久邇宮は、日本人記者に対するはじめての記者会見に臨んだ。そこで、東久邇宮は、敗戦を招いた原因について問われ、次のように述べた(8月30日付「朝日新聞」)。

 「ことここに至ったのはもちろん政府の政策がよくなかったからでもあるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は、軍・官・民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民的総懺悔をすることが我が国再建の第一歩と信ずる」

 敗戦の責任は「国民の道義のすたれたのも原因の一つ」であり、「全国民的懺悔」が必要だとするこの発言は、3日前の8月25日に、緒方竹虎内閣書記官長がラジオ放送で用いた「一億総懺悔」なる言葉の二番煎じであるが、東久邇宮の「一億総懺悔論」と揶揄され、天皇をはじめ真の戦争責任者を擁護するものだとして多くの国民からの批判を招くことになった。

 9月18日は、これもはじめての試みであるが、東久邇宮は外国人記者会見に臨んだ。そこで東久邇宮は、フランス人記者と流暢なフランス語で会話をかわし、さすがは国際通だと注目を浴びて悦に入っていた。ところが、オーストラリアやニュージーランドなどの記者から、「天皇陛下その他責任者等は真珠湾の奇襲に関して事前に知っていたか」、「民主主義国の一部では天皇陛下も犯罪者の一部と見ているが所見如何」、「日本の制度としては天皇陛下が知ることなくして戦争を始めることが出来るか」などと核心に触れる質問の矢が放たれるや、突然、乱れてしまった。問われたのは世界が注視する、天皇の「開戦責任」であったが東久邇宮は、まともに答えられず、混乱、矛盾した断片的発言に終始した。

 「詳細は自分にはわからない」、「研究してお答えする」、「天皇陛下は責任者ではないと確信する」等々。

 会見に密かに潜り込んだ警視庁係官も、「大部にありては、今次会見は記者団側において我が国の急所とも称すべき所を大胆に質問せるに対し、総理宮殿下の御答弁は確信と自信に満ちたものとは解せられずとし、失望の念を表明しおれる状況」と率直に報告をしているほどであり、記者らが「コンプリートリー・フール」と騒いのもうなずける(粟屋憲太郎編「資料日本現代史2」大月書店)。

 マッカーサーは、前述のとおり、国内外に展開する約700万人の武装将兵の整然たる武装解除を目の当たりにして、天皇と天皇制が発揮した威力に目をみはり、天皇および天皇制を利用することによって占領目的を早期に成功裡に達成することができるとの確信を抱いた。

 しかし、その一方で、天皇の名のもとになされた日本軍の真珠湾奇襲をはじめとする数々の忌まわしい残虐非道な蛮行、バターン死の行進をはじめ皇軍の行った捕虜虐待や天皇陛下万歳を叫ばせた特攻攻撃などに思いを致し、天皇及び天皇制の取り扱いについて慎重な検討が続き、いまなお結論がまだ出せない本国政府の状況、天皇の責任を厳しく問う連合国諸国政府及びアメリカをはじめ世界の人々の世論などを考慮すると、軽々に天皇及び天皇制を利用するとの結論を下すわけにもいかなかった。

 天皇の責任論を否定できる有力な「事実と論理」が欲しいところである。この点では、既に会見を済ませて得た東久邇宮の指導力には疑問があるし、特に上記における記者会見での発言の無定見と混乱ぶりは目を覆うばかりであった。

 マッカーサーのジレンマ、悩みである。

 我が国の指導者の中にも、東久邇宮のあやうい態度に危機感を抱く者がいた。東久邇宮内閣に副首相格国務大臣として入っていた近衛文麿である。近衛は、「真珠湾攻撃は東条の独断であって、陛下は知らなかった」という主張をアメリカ国民にアピールすることを目論んでいた。全責任を東条へ押し付ければ、天皇および天皇制への影響を和らげることができる。これは近衛の確信であり、早くも敗戦前の1944年4月12日に、この考えを吐露している(細川護貞「細川日記 上」中央公論社)。

 その近衛が裏で深く関わって、1945年9月25日、『ニューヨーク・タイムズ』記者、フランク・クルックホーンの天皇への単独記者会見が実現した。会見といってもそれは名ばかりのもので、実際には、事前に質問書を提出し、それに外務省や宮内省の関係者が回答文を起草し、天皇が裁可し、書面で回答するという方式であった。所要時間は僅かに5分。『昭和天皇実録』には、「25日 火曜日 午前10時、モーニングコートをご着用、表拝謁ノ間に出御され、本日臨時式部職御用掛拝命の外務省参事官奥村勝蔵に謁を賜う。引き続き同所において、今般来朝のニューヨーク・タイムズ太平洋方面支局長フランク・クルックホーンにわたり謁見を仰せ付けられる。」と記述されている。ここに外務省参事官奥村勝蔵が式部職御用掛、つまり天皇側近の通訳に任じられていることに注目されたい。

 その一問一答の一部は次のとおりであった。

問 「宣戦の詔書が、アメリカの参戦をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために東条大将が使用した如くに使用される、という のは陛下の御意思でありましたか」
答 「宣戦の詔書を、東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」


 要するに真珠湾奇襲のあとで宣戦の詔書が発表されたことは、天皇は知らなかったし、その意図するところでもなかったというのであり、東条への責任押付け論である。
 しかし、1941年11月5日、天皇臨御のもとで開かれた大本営政府連絡会議(御前会議)で、永野修身軍令部総長から上奏された「対米英蘭戦争帝国軍事作戦計画」には航空母艦部隊の集中使用によるハワイ真珠湾のアメリカ主力艦隊に対する奇襲攻撃が明記されており、これを天皇が裁可したのであったから、これは奇妙な言い訳であった。

 この会見記は、1945年9月25日付『ニューヨーク・タイムズ』一面トップで「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条に押し付ける」との大見出しのもとに報じられた。それがまわりめぐって同月29日に日本の新聞各紙に転載されるという事態になってしまった。
 内閣情報局は、その直前、「このままでは天皇自身が東条大将を非難したかのように思われる」と横やりを入れ、日本の新聞各紙が掲載することを止めようとした。しかし、新聞社側が抗議、GHQも日本政府の措置を制止したので、そのまま掲載された(豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』(岩波現代文庫)。

 以上の経過からを見れば、天皇の開戦責任、特に真珠湾奇襲攻撃への天皇の関与の程度が、極めてシリアスかつ微妙な問題であったことは容易に理解することができるが、果たしてマッカーサーはこの難問をどう裁いて行ったたのであろうか。

                                  (続く)
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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その29

「象徴天皇制」への道筋

アメリカの天皇制及び天皇ヒロヒトの処遇に関わる占領政策

 アメリカの天皇制に関わる占領政策は、1944年5月9日アメリカ国務省戦後計画委員会(PWC)が決定した「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)及び1945年年3月16日国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が採択した「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55)に示されているが、一口でいうと、これらは曖昧であり、指針としての役割を果たすものではなかった。
1945年5月3日、ドイツが降伏したことにより、アメリカは、対日戦に兵力を集中するとともに、対日占領政策の本格的検討にとりかかり、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)及びその下部機関である極東小委員会(SFE)は、夜を日に継いで作業を進めた。

・SWNCC150シリーズ文書

 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は「降伏時におけるアメリカの初期対日方針」なる政策文書(SWNCC150シリーズ文書)を作成している。

 その第1稿は、6月11日に起草されている(SWNCC-1)が、この時点では占領形態は直接軍政方式が想定されていたので、それを前提としたものであった。しかし、その後、ポツダム宣言とその受諾をめぐるやりとりを経て、占領形態は間接統治方式に変更されたので、8月29日、それと整合性を持たせるべく改訂された(SWNCC150-3)。これは、9月6日、大統領承認を得て、同月22日、正式にマッカーサーに通達された(SWNCC150-4)。

 SWNCC150シリーズ文書は、天皇および天皇制の存続、利用を打ち出しているとされるのが通例であるようだ。しかし、次に見るとおり、それは当を得たものとは言えない。

 この文書は以下のように述べている。

 第一に、天皇および日本政府の権威は、マッカーサー総司令官に従属すること
 第二に、総司令官は、天皇を含む政府機関を通して、その権威を行使すること
 第三に、日本政府当局がポツダム宣言に定める降伏条件を達成しようとする総司令官の要求を充分に満たすものではない場合、政府機関、人員の変更を要求し、或いは直接統治を行う権限を総司令官に付与すること
 第四に、この政策は日本の現存の政府を利用しようとするものであって、それを支持するものではないこと
 第五に、日本政府の封建的・権威主義的傾向を修正する方向に、政府の形態を変更しようとする動きが、日本国民、あるいは政府によって率先して始められる場合、その変化は許されるべきことであり、好意をもって支持されること


 この文書から読み取れることは、天皇および天皇制の存続、廃止いずれについても明確な結論を示していないということである。それどころが読みようによっては、むしろ天皇および天皇制の廃止を含む変革の動きも許され、好意をもって支持されるとさえ読み取ることもでき、日本国民が天皇制廃止のイニシアティブをとることへの期待がにじみ出ているとさえ言える。

 そもそも当時の国内外の世論は、天皇及び天皇制に極めて厳しいものであったから、アメリカ政府は、天皇および天皇制の存続を軽々に打ち出せる状況にはなかった。

 アメリカ国民の世論とマスメディアの論調は、圧倒的に天皇および天皇制に反対していたのであり、1945年9月10日には、「天皇を戦犯裁判にかけることをアメリカの方針とする」との上院合同決議までなされている。
 また既に述べたごとく連合国諸国においてもオーストラリア、中国など、天皇および天皇制の存続に反対する意見が強かった。ソ連については特に触れなかったが、原則論としては、天皇制廃止の立場に立っていたであろう。
 またアメリカ国務省においては、「親日派」のグルーが退任し、ジェームス・バーンズ長官、ディーン・アチソン次官、カーター・ヴィンセント極東地域委員会委員長など親中派が優勢となっていた。占領開始まもなく、マッカーサーからバーンズに、日本問題の専門家を顧問として派遣して欲しいと要請したところ、バーンズは「知日派」を排して、中国問題専門家である親中派ジョージ・アチソンを派遣したほどであったのである。ジョージ・アチソンは、連合国総司令官の政治顧問とはいいつつもマッカーサーへのお目付け役であった。

 そのジョージ・アチソンから、10月4日、バーンズに対して、日本における憲法改正の考え方を示して欲しいとの要請があった。同月16日、折り返しバーンズがこれに答えて出した訓令の一部を再掲しておこう。

 もし天皇制が残されない場合は憲法上の規制は明らかに不必要であろうが、その場合においてもつぎの諸点が必要である。
(1)財政と予算にたいする議会の完全な統制
(2)日本人民のみならず、日本の支配下にあらゆる人民に対する基本的人権の保障
(3)国家元首の行為は、明白に委任された権限にのみ従うこと

 もし天皇制が残された場合、右に挙げたものに加えて以下の規制が必要となろう。
(1)天皇に勧告と承認を行う内閣は、代議制に基づく立法府の助言と同意によって選ばれ、かつ立法府に責任を負う
(2)立法機関に対する拒否権は、貴族院、枢密院のごとき他の機関によって行使されない
(3)天皇は内閣が提案し、議会が承認した憲法の改正を発議する
(4)立法府は自らの意思で開会することが認められる
(5)将来認められると思われる軍のいかなる大臣も文官でなくではならず、軍人が天皇に直接上奏する特権は除去される。


・SWNCC55シリーズ文書、SFE126シリーズ文書

 一方、天皇を戦争犯罪者として処罰の対象とするかどうかについては、上記9月10日の上院合同決議がなされた後、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部機関極東小委員会(SFE)において、が検討された。これは先に見たとおり「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55)において、

 ①天皇個人およびその家族をどう処遇するか、②天皇制に対する軍政府の対応、③天皇が逃亡した場合どうするかの三項目について検討すること、統合参謀本部(JCS)に検討委員会を設置すること、民間人の意見も聞くこと、国務省がその検討内容を起草すること

とされていたその先の検討であり、検討結果をまとめたのが、9月26日に起草されたSFE126文書である。

 この文書は、「最高司令官は、統合参謀本部(JCS)と相談なしに、あるいは助言されることなくして、天皇を退位させるようないかなる措置もとってはならない」、「もし天皇が退位し、国際軍事裁判所の検察官が天皇を戦犯とする証拠を提出したときは、天皇は逮捕され、戦犯として裁判にかけられるべし」としている。

 SFE126文書は、海軍代表から強硬な反対意見が出て、改訂される。それが10月1日付「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」(SFE126-2)である。SFE126-2文書には次のように書かれている。

① 天皇ヒロヒトは戦犯として逮捕され、戦犯裁判にかけられるべし
② そのために日本が国際法に違反したすべての証拠を収集すること
③ 収集の責任者は最高司令官とし、収集された証拠は、戦争裁判への手続きを進めるべきかどうかについての勧告を付して、  統合参謀本部(JCS)に提出されるべし
④ 天皇ヒロヒトの戦犯裁判への逮捕は、占領目的達成に支障なきとき、天皇が退位したとき、日本国民が逮捕させたときのいず れかのときにのみなされるべし
⑤ 天皇制存続から得られる占領政策上の便宜だけでは天皇を戦犯裁判から免れさせる正当な理由とはならない
⑥ 最高司令官は統合参謀本部(JCS)と相談することなく、また統合参謀本部(JCS)からの助言なしに天皇を退位させてはなら ない
⑦これらすべての方針は非公開とする


 その後このSFE126-2文書は、10月6日、極東小委員会(SFE)の会議の議論で、一部修正の上、「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」と題する文書(SWNCC55-3)のドラフトとして、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)に提案された。

 しかし、そこでは激しい議論がなされた末、同文書を極東小委員会(SFE)に差し戻すこと、統合参謀本部(JCS)での検討を中止すること、天皇制についての新しい別の政策案を作成することが決定された。

 これらの議論の経過は、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)内では、天皇を戦犯裁判にかけることに消極的ないしその決定を時期尚早とする陸軍(穏健派)と、天皇を戦犯裁判にかけることに積極的な海軍および国務省(強硬派)の対立が顕著であったことを示している。

 差し戻しを受けた極東小委員会(SFE)は再検討の結果10月16日付SFE126-5文書が起草した。それによると以下のとおりである。

① 天皇戦犯問題は、天皇制廃止、政治改革などの占領目的全体と切り離すことはできないので、天皇制の方針が固まるまで天 皇戦犯問題に関する最終決定は延期する
② 最終決定は留保しつつ、当面、天皇の戦犯容疑についての証拠を可及的速やかに、かつ秘密裏に収集する
③ 最高司令官は、収集された証拠に、天皇戦犯裁判の手続きを開始するべきか否かについての自己の勧告を付して統合参謀  本部(JCS)に提出すること

10月19日、これが国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)においてほぼ原案どおり採択された(SWNCC55-6)。

 この文書とともに「現在のところ情報不足で最終決定はできない。貴官は直ちにヒロヒトが日本の国際法違反に関与した責任があるかどうか、証拠を収集されたい。収集された証拠は貴官の意見を付してJCSに送付されたい」とのマッカーサーへの照会文書案が国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)に提案され、10月22日採択された。

 こうして、天皇制についても天皇ヒロヒトの処遇にちても、結論は棚上げとなった。やや遅れて、統合参謀本部(JCS)は、11月29日付で、以下のとおりマッカーサーに書簡を送った。

 「(前略) 貴官も承知のとおり、最終的にヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すべきか否かの問題は、アメリカにとっても重大な関心事である。ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのがアメリカ政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。 (中略) 従って、いずれにせよ、われわれは、常にしかるべき秘密保持の手配をして作業を進めながらも、遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」。

 マッカーサーに、これはまたとない追い風であった。マッカーサーがこの追い風を背にどう動いたか、それは実に興味深いストーリーである。
     
                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その28

 「象徴天皇制」への道筋

 我が国指導層の目論見

 我が国のポツダム宣言受諾の条件はただ一つ「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ」ということであった。

 この立場は、8月15日のいわゆる玉音放送で流された14日付『終戦の詔書』における「茲ニ国体ヲ護持シ得テ」という表現に引き継がれ、以後、1946年3月6日、下記の規定をもうけることとした『憲法改正草案要綱』を政府が公表するまで維持された。

 第一 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト

 この間、公式に日本政府の憲法改正案として同年2月8日GHQに提出された『憲法改正要綱』は天皇大権を微修正のまま残し、明治憲法第1条「万世一系ノ天皇コレヲ統治ス」との規定にも手を触れないというものであった。

 これに対して2月13日、日本政府に交付されたGHQ草案では、第1条として次のように書かれていた。

 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。この地位は、主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何ものに基づくものではない。

 万世一系の天皇」の法的地位は維持されるべきことを目論んでいた我が国指導層にとって、天皇大権を否定し、これを象徴にとどめ、しかも国民主権の下で国民の総意に基づくものとしたGHQ草案は、大きな衝撃を与えた。その衝撃の跡は、上記の『憲法改正草案要綱』で「日本国民至高ノ総意ニ基キ」などという曖昧な表現をしたところに留められていると見ることもできよう。これが修正されて「主権の存する日本国民の総意に基づく」となるのは、同年6月20日から始まる第90帝国議会における審議過程まで待たねばならなかった。このことは後に再び述べることとする。

 しかし、このような我が国指導層の目論見は、客観的な国際情勢や国際世論を無視した夢想に過ぎず、また自ら受諾したポツダム宣言の次の条項をよく読めば成り立ちえないことは、誰にもわかることであった。

 第10項 (前段省略) 日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

 第12項  連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるにおいては、直ちに日本より撤退するものとする。


 むしろ国民主権の下での象徴天皇制を制度化できることになったことさえ彼らには僥倖であったのである。実は。指導層の一部、そして天皇自身も、そのことを理解していたのであった。

占領開始の情景―マッカーサーが受けたカルチャー・ショック

 8月15日の玉音放送は独特の抑揚と難しい言葉が散りばめられていたので非常にわかりにくいものであった。それでも何とか敗戦、降伏の事実は、日本国内天下万民の承知するところとなったであろう。
 このとき国内外には約700万人に及ぶ武装した陸海軍将兵が依然として存在していた。おそらく大半は、疲弊しきっており、燃え尽き、これからさらに米軍と一戦交えようなどという勢いは、もはやなかったであろうが、この日も、近衛師団を含む陸軍一部将兵が決起して皇居内に侵入、放送局を占拠するなど玉音放送と降伏の妨害行動に打って出るという騒ぎを引き起こしているし、この日から海軍・厚木飛行隊の一部将兵が、厚木飛行場を占拠し、東京上空に盛んに飛行機を飛ばして徹底抗戦のビラをまくなど、降伏に反対する行動を繰り返しており、まだ余燼はくすぶっていたのである。

 マニラにとどまっていたマッカーサーは、それなりに脅威を感じつつ、日本軍将兵の武装解除の行方をじっくりと見守っていた。その武装解除に、天皇と皇族の威力がいかんなく発揮される様に、マッカーサーは目をみはることになったのである。ことの顛末は以下の とおりである。

 16日、天皇は、朝香宮鳩彦親王を支那総軍に、竹田宮恒徳親王を関東軍と朝鮮軍に、閑院宮春仁親王を南方総軍にそれぞれ名代として派遣、それぞれ「終戦の詔書」を伝達するとともに戦闘停止と武装解除・武器引渡しの説得に当たらせることにした。彼らは命に応じて直ちに飛行機で現地に飛んで、これを遂行した。
 閑院宮の「私の自叙伝」によると、彼は、19日、サイゴンに到着、南方軍総司令官寺内寿一以下全将校に「今回のことは、まったく陛下独自の御信念に基づく真の聖断であります・・・穏忍善処するよう御沙汰を賜った・・・総司令官以下一兵に至るまで詔承必謹、万斛の涙をのんで皇国永遠の慮に基づき、ひたすら聖旨を体し善処せられんことを陛下は切に望ませられるものであります」と述べ、粛々と武装解除に応じさせたとのことである。
 また竹田恒徳の自伝「私の肖像画」によると、関東軍司令部と朝鮮軍司令部で大任を果して帰国すると、再び天皇に呼ばれ、宇品の陸軍船舶司令部、福岡の第6航空軍司令部に派遣され、軽挙妄動を戒める言葉を伝達したとのこと。いずれも抵抗なく武装解除を進めることができたのであった。
 17日には、東久邇宮稔彦親王に占領軍受け入れと敗戦処理のため初の皇族内閣を組閣させた。東久邇宮は、陸軍大将でもあったので陸軍大臣も兼務した。この人事は、軍のおさえとしての意味もあったであろうし、若いころフランスに留学し、サン・シール陸軍士官学校を卒業、エコール・ポリティクでも学び、当地で社会主義者とも交流があったという皇族唯一の国際派、進歩派でもあったので、占領軍に柔軟に対応する含みもあったであろう。
 同日、天皇は「戦争終結に際し陸海軍人に賜りたる勅語」を発出し、「身命を挺して勇敢奮闘」した陸海軍人をたたえ、「汝等軍人よく朕が意を体し鞏固なる団結を堅持し出処進退を厳明に千辛万苦に克ち忍び難きを忍び国家永年の礎を残さむことを期せよ」などと、大元帥として陸海軍人に対し、慎重に行動し、暴発しないように戒めた。
 マッカーサーは厚木飛行場に飛来することになっていたが、その厚木飛行場を拠点に決起し、徹底抗戦を叫び、連日、東京上空を示威飛行していた一部将兵に対しては高松宮が派遣され、帰順を説得した。その結果、24日までには無事おさまった。
 25日、天皇は、大元帥として帝国陸海軍人に対し、復員と武装解除にあたり「一糸紊れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し以て皇軍有終の美を済すは朕の深く庶幾する所なり」とし、今後は「忠良なる臣民」として民業に就き、この難局にうち勝って戦後復興のため働くよう諭す勅諭を発した。
 さらに天皇は、9月3にも「敵対行為を直ちに止め武器を措く」ことを命じる詔書を発し、9月4日の第88帝国議会開院式勅語でも平和国家を確立して人類文化に寄与することを願い、国民は「沈着穏忍自重」して諸外国との「盟約」を守るよう求めた。

 このようなさなか、8月28日には、占領軍先遣隊が無事厚木飛行場に降り立つことができた。それに引き続いて30日、最高司令官マッカーサーも無事厚飛行場に到着した。マッカーサーが、丸腰でタラップ上に立って、コーンパイプを口にして眼下の状況を一瞥し、タラップを悠然と威厳を保って降りるという演出をし、我が国国民に圧倒的な勇者の印象を刻み付けることができたのは、このようにして既に安全が確保されていたからである。

 あらかじめ決められたスケジュールどおり、9月3日には東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号上にて、日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長が、降伏文書に調印した。占領軍司令部は一旦横浜税関の建物に置かれたが、9月8日には宮城前広場で東京進駐式が大々的に行われ、アメリカ大使館には星条旗が掲げられた。9月17日には、お濠端の第一生命ビルが接収され、この日、正式に占領軍司令部が横浜からここに移転した。マッカーサーも横浜のニューグランドホテルから東京のアメリカ大使館に居を移し、これを公邸とすることになった。

 マッカーサーは、かくして、天皇と天皇制の威力を目の当たりして、思うところ大であったであろう。10月16日には「歴史上、戦時平時を通じこれほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない。約700万人の兵士の投降という史上類のない困難かつ危険な仕事は、一発の銃声も響かず、一人の連合軍兵士の血も流さずに、ここに完了した」との声明を出したが、これは単なるリップサービスではなく、本音であったと思われる。
 マッカーサーは、当時、次期大統領選挙に出馬し、アメリカ大統領になろうという野心を持ち、そのためにも日本占領を成功裡にできるだけ早く終結させたいと考えていた。そのマッカーサーが、天皇および天皇制を占領政策に利用したいという願望を持つに至ったことは容易に想像できる。しかし、天皇および天皇制を温存するとの結論に至るにはまだまだいくつか困難な段階が経なければならない。

 そのマッカーサーの目論見について順次述べて行くこととする。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その27

連合国諸国は天皇制をどのように考えていたか

 日本降伏の形をめぐる最終局面における米ソ日の攻防を見てきたが、あなたは、これをやるせないものと見るか、見ごたえあるものと見るか、いずれであろうか。しかし、私は、少なくとも、この攻防を繰り広げた我が国指導部の人たち―天皇と日本政府―にとって、国民の命や財産、暮らしや幸福などは全く眼中にはなく、ひたすら天皇制の維持のみを願っていたことを、あますところなく見ることができた稀有な歴史的局面であったことを厳粛に受け止めなければならないと思う。

 さて、バーンズ回答は、天皇制の問題については、“The ultimate form of Government of Japan”は日本国民の自由に表明する意思により決定されると述べているが、これはポツダム宣言第12項の「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府を樹立せらる」ことを占領軍撤収の条件としたことを繰り返したに過ぎない。

 これらは天皇制の問題には正面から答えていないが、日本国民の総意により選択するならそれを許すという趣旨にもとれる。しかし、いずれにしても戦後の政治形態は国民主権原理に基づくものであり、仮に天皇制を残すとしてもそれと両立できるものでなければならないことを言明していると考えられる。

 ここで少し視野を広げて、連合国諸国は、戦後処理において、天皇制をどうしようと考えていたのか概観しておくこととする。

 まずアメリカについては、既に国務省と軍関係当局とに分けて天皇制の研究・検討の状況を見たが、戦後処理の指針となるのは国務省と国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)が採択した次の政策文書であった。

 1944年5月9日アメリカ国務省戦後計画委員会(PWC)が決定した「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)

第一は天皇にみずからの機能を行使する権限を全然与えない。
第二は天皇にその機能をすべて与える。
第三はその一部分を委任する。

 の三つの選択肢を提示。占領軍当局としては、出来るだけ融通性のある方針を立ておくべきだとした上で次のように勧告している。

 もし天皇の特定の制限された機能を行使することを許可することを決定するならば、その場合、可能であれば天皇を保護・拘束・監督下におく、日本国民に対し占領軍当局の権威は天皇のそれよりも高位にあることを示す、天皇の特定の制限された権能を行使させることが占領政策に利益にならなければ全て停止する方が有利になるかもしれない等々。

 1945年年3月16日国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)で採択した「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55)

 ①天皇個人およびその家族をどう処遇するか、②天皇制に対する軍政府の対応、③天皇が逃亡した場合どうするかの三項目について検討すること、統合参謀本部(JCS)に検討委員会を設置すること、民間人の意見も聞くこと、国務省がその検討内容を起草すること

 要するにアメリカの立場は、曖昧である。この曖昧な立場が、ポツダム宣言、バーンズ回答へと引き継がれていることは明らかであろうし、また対日占領政策のプラクティスを担ったマッカーサーの成功をもたらしたのである。

 それではその他の連合国を構成する諸国はどう考えていたのであろうか。これは少し、細部に入り込み、煩雑な議論であるが、本論考の主題である憲法第9条と憲法第1条の関係、即ち「菊と刀」のバーターの意味を考えるのに必要な準備作業であると考え、武田清子『天皇観の相克』(岩波同時代ライブラリー)に依拠して整理を試みておくこととする。

中国の論調・見解

 まずは我が国の侵略により最も大きな被害を受けた中国を取り上げてみよう。

 孫科(孫文の長男・国民政府立法院院長)が1944年10月に発表した『ミカドは去るべし』

 天皇崇拝の思想は日本の侵略戦争の真髄であるがゆえに、ミカドは去るべきである。・・・日本においては、軍国主義と軍閥の力と天皇制とは本質的に織り合わされているのだ。日本の軍国主義者たちはその存在そのものをミカドにたよるものだという点こそ強調されるべきことであり、これはごまかされてはならないことである。日本国民に対する軍国主義者たちの圧倒的で包括的な権力はミカドから発するものである。ミカド自身が膨張主義の真髄そのものである。(中略)
 われわれはきびしい、変更不可能な軍事的・政治的決着をつけなければならない。すべての戦争犯罪者は裁判にかけられるべきである。天皇裕仁がそれら戦争犯罪者の一人であるかどうかは、証拠が明らかに示すべきである。(中略)
 中国は、ミカドと天皇崇拝の制度を保持した日本は、中国の平和と安全保障にとって危険であると信じることを止めないであろう。

 国民政府(重慶)における一般的論調

 国民政府(重慶)の天皇制に対する見方は、以下のように極めて厳しい。 

・1944年12月3日付『ニューヨーク・タイムズ』は同月2日付重慶の新聞の社説「アメリカが皇居・神宮などを爆撃しないのは、日本の神の怒りをアメリカが恐れるからだと日本人は理解している。日本がたとえどんなに全面的に敗北するにせよ、ミカドが存在する限り、彼らの神は彼らとともにあることになる」との主張を報じた。

・1945年2月13日付『ニューヨーク・タイムズ』は世界労働組合評議会に出席した中国代表の「日本の天皇は、日本の侵略の真の指導者として罪に問われるべきであり、戦争犯罪者として裁判にかけられるべきだ」「日本軍閥の首長としてのミカドの全制度は追放されなければならない」との意見を表明したことを報じた。

・同年5月17日付『ニューヨーク・タイムズ』は重慶の新聞の「天皇ヒロヒトは、戦犯第一号として罪を問われるべきである。中国はヒロヒトを許すことは出来ない。また、世界の文明国の人間は、ヒロヒトに対して寛大であることは出来ない。彼は裁判にかけられ、処刑されるべきであり、南京の孫文通りにさらされるべきだ」との記事を紹介した。

・同月22日付『ニューヨーク・タイムズ』は、中国政府スポークスマンが、ヒロヒトは戦争指導者の支持なしに日本人民を指導したり、影響を与えたり出来るほど強い存在とは考えないが、中国政府としては、天皇ヒロヒトは、軍閥・財閥とともに告発されなくてはならないと考えていると述べた旨報道した。

・同年8月12日付『ニューヨーク・タイムズ』は「日本を如何に取り扱うか」というシンポジウムにおいて、中国の論説家が、日本の天皇はヒトラーやムソリーニよりも悪い戦争犯罪者だと言った。天皇の名において無数の人間が殺されたという事実は、彼の罪悪の証拠である。死刑が望ましい。さもなければ、人びとがかつて全能の神と考えていた者が一個の人間に過ぎないことを示すために労働刑に処して生きることが命じられるべきだ」との重慶放送の内容を紹介した。

 蒋介石総統の意見

 国民政府(重慶)にあって、蒋介石の意見はやや特殊である。

 蒋介石は、1943年11月23日、カイロ会談において、ルーズベルトの天皇制は廃止されるべきかどうかとの質問に対して「これは、日本の政府形態(組織)に関する問題を含んでおり、将来、国際関係に千載的遺恨を残すような誤りを犯さないために、戦後、日本国民自身の意思決定にまかせるべきことだ」と答えている。

 中国共産党の見解

 中国共産党は、延安を拠点に、支配地域を広げ、やがて中華人民共和国に樹立する。その中国共産党が天皇制についてどう考えていたか是非知りたいところであるが、直接的な意見表明はないが、間接的ながら、以下により中国共産党の考え方を知ることができる。

・『延安―1944年』(みすず書房)の著者ガンサー・スタインが1944年9月末に岡野進(野坂参三)から聞き取った天皇制に関する意見は「『天皇制打倒』のスローガンは避けねばならない。いま、このスローガンを利用することは、日本の支配階級のさまざまな集団が、再び天皇のもとに結集して、増大しつつある相互間のいがみ合いをとりしずめ、国民の中の同様分子を彼らに従わせようとするのを助けるようなものである。(中略)天皇は実は軍国主義者の表看板にすぎない。一度軍国主義者を倒してしまえば天皇制は楽に倒すことができる。」というものであった。

・1945年5月の中国共産党第7回全国大会において、岡野進(同上)は政治報告を行い、「天皇は戦争を起こしたという責任を逃れることは出来ないが、天皇はまだ多数の日本の人民に尊敬されている。従って天皇の存廃問題は、戦後、日本の人民の自由な意思によって決定すべきである。また、もし日本の人民が天皇保持を決定するならば、その時の天皇は過去のそれのように反民主的かつ膨大な専制的独裁権を握ることは絶対に許せない」と主張した。

 以上に述べたうち、蒋介石や中国共産党が、日本国民の意思を尊重するべきだと述べているのは、建前論ないしは戦術論であり、括弧にくくってみれば、中国の天皇制に対する考えは非常に厳しく、天皇を戦争犯罪者として処罰し、天皇制は廃止されるべきだというところに集約されるようである。

オーストラリアの論調・見解

 ついでオーストラリアを見て行こう。

 医療宣教師として朝鮮・ソウルに滞在し、真珠湾攻撃の日に日本官憲により逮捕・投獄された経験を持つチャールス・マクラレン博士は1944年5月23日付『シドニー・モーニング・ヘラルド』に、「日本の敗北後の交渉において、連合国は、天子としての天皇を認めることを絶対に拒否すべきである。連合国は、天皇をその言葉が普通に意味するものとして取り扱うことを要求すべきである。」と述べた。
 しかし、これはオーストラリアにあっては例外的な考え方であり、同国の、天皇制に対する考え方は、概して、天皇は戦争犯罪者として処罰されるべきであり、天皇制は廃止されるべきであるという厳しいものであった。その理由は、日本人は「天孫民族」として「世界制覇(支配)」の使命を神話的・現人神的天皇から与えられていると信じており、それが太平洋の平和の危機の原因となっているのであるから、天皇制は廃止されなければならないと考えられていたからである。その一部を例示してみよう。 

・1942年に公刊されたW・J・トマス『日本が神と呼ぶ人間』なるパンフレット

 天皇の名において政治的暗殺が栄光化され、残虐行為が正当化され、世界の征服が宗教的信念にまで高められている。

・1942年にシドニーで発行されたジャーナリスト・グループの『ファシストと日本―ヒトラーの味方』なるパンフレット

 日本政府におけるすべての権力の源は、2600年を通じて万世一系に連続してきた天照大御神の子孫としての天皇であるということ、日本における内閣は議会に対してではなく天皇に対して責任を負うということ、日本における軍国主義ファシスト・グループの存在は、ヨーロッパのファシズムの真似であるということではなく、永い歴史を通して天皇宗によって作り出されてきたものであり、軍隊における訓練は、天皇の神性への宗教的熱情をもって教えこまれた道徳訓練であるということ、在郷軍人会・玄洋社・黒竜会などによる軍国主義・ファシズムのイデオロギーの唱道・宣伝は、天皇崇拝の思想、すなわち、皇道と武士道によっておし進められているということ、こうした思想を原動力として日本は外国制覇を推進しているのだ。 

・時事誌『国際問題覚書』1945年5月15日号『神道―日本の国家的信仰』

 ある著名な神道主唱者の最近のパンフレットによると日本は人類の根源的な母国であり、すべての文明がその淵源をもつ国だということである。いまや一つの屋根のもとにすべての国々を天照大御神の直系の子孫として、宇宙生命の中心である天皇陛下の神聖なる保護のもとにそれぞれの国が正しい位置を与えられる世界家族の一つしに再統一するための聖なる戦争を行っているということである。

・1945年5月25日付『ニューヨーク・タイムズ』は、「日本の元首として、システィマティックな蛮行に対して責任があるとの理由によって、天皇ヒロヒトの戦争犯罪者としての告発と処刑をオーストラリアは要求している。中国のスポークスマンは、オーストラリアの要求に対する強い支持を表明した」と報じた。

・1945年8月12日、在米オーストラリア公使館からアメリカ務省に届けられた『日本の将来―オーストラリア政府の見解』には「国家の元首にして大元帥として、天皇は、日本の侵略行為と犯罪行為に対して責任を負うべきである。天皇制の将来は当然、日本国民によって決定されるべきであるが、そのような決定がなされる前に、天皇制の廃止、あるいは、国家の立憲的元首としての承認を目ざす政治運動のための組織と宣伝の自由が充分に与えられるべきである。」と述べられていた。

英国の論調・見解

 中国、オーストラリアに比べると英国の場合、自国が君臨すれども統治せずの「立憲君主制」の国であるだけに、天皇制そのものを廃止せよという意見はあまり見られず、有力紙の報道も、天皇大権への警戒、現人神なる天皇の神話に対する批判、天皇の戦争責任を問うなどの他国の主張を紹介する程度にとどまっていた。
 政府とその関係機関は、1944年段階で、王立国際問題研究所が作成した文書中で「民主主義的な行政機関をもった立憲的君主制が日本と世界の利益のために最も好ましい解決となるかもしれない」と述べられていた程度で、天皇制の将来や天皇の戦争責任問題について対外的に表明することを意図的に避けていたように思われる。
 もっとも英国政府の真意は、オーストラリア政府からの「日本の侵略行為と戦争のもろもろの罪の問いに対して、天皇は責任をとるべきである。・・・いかなる除外も容認されるべきではない。」との1945年8月13日付極秘申し入れ電に対する極秘返電において「天皇を戦争犯罪者として告発することは、重大な政治的誤りだとわれわれは考える。日本国民を支配するために、天皇の玉座を利用することによって、人的資源、および、他のもろもろの資源におけるコミットメントを節約したいとわれわれは望んでいる。そして、現天皇を告発することは、われわれの意見としては、最も不得策だと思える。」と表明されていように、天皇制廃止には反対の立場であった。

太平洋問題調査会の状況概観―アジア問題、日本問題研究者らの論調・見解

 太平洋問題調査会とは、アジア・太平洋地域内の民間レベルでの相互理解・文化交流の促進を目的として1925年、ホノルルにおいて設立された国際的な非政府組織・学術研究団体であり、当該地域の政治・経済・社会など諸問題の共同研究を通じ学術専門家たちの国際交流をはかる活動をした。

 太平洋問題研究会は、トマス・アーサー・ビッソン、オーウェン・ラティモア、エドガー・ハーバート・ノーマンなど著名なアジア、日本問題研究者に活躍の場を提供したが、戦後、冷戦の影響下で、アメリカにおいては左派的・容共的団体とみなされて赤狩り旋風による攻撃の標的となり、解散のやむなきに至った。

 太平洋問題研究会は、戦時下においても、1942年12月と1945年1月に全体会議が持たれ、機関紙『太平洋問題』が発行されている。

 太平洋問題調査会において、それぞれの所属国にとらわれないアジア、日本問題研究者として、天皇制についてどのような議論が行われていたかを見ておくことは意義のあることであろう。

 アメリカのビッソンは日本の天皇制の歴史的研究の成果に立って、軍国主義と天皇制との不可分の関係を指摘し、天皇制は廃止されるべきことを主張した。これに対し、同じくアメリカのソウル・ベイツ及びケネス・ラウレットは共同で、日本において不安定さの中で新しい政権が充分に広範な支持を獲得しうる強さ求める力は天皇の威信以外には発見できないと述べ、天皇制を何らかの形で残すことを主張した。
 
 カナダのノーマンは該博な日本史の知見に基づいて、「天皇制が、本質上、政治的に中立のものであって、ピストルのように、生命のない、何ものかであるかのように、善にも悪にも利用されるものであり、そこにはなんら社会的価値は本来そなわっておらず、それが利用される時にのみ意味をもってくるものだと考えることは、天皇制の歴史に対する大きな誤解である。(中略)日本に現存する天皇制は、平和と民主主義の道具として利用できると、真実に信じている善意の西洋人が多く存在しているのである。しかも、近代日本の歴史において、天皇制が進歩主義的役割を演じたことを得心いくように示してくれた者は、これまでに誰一人としていないといっても過言ではないであろう。」と明快に天皇制廃止を主張した。

 アメリカのウイリアム・ジョンストンは天皇制存続論を①伝統的神話的天皇論、②天皇は消極的な道具であるとの論、③天皇は日本社会に安定をもたらす唯一の要素であるとの論に整理、天皇制廃止論を①伝統的神話的天皇論と超国家主義及び軍国主義と不可分論、②天皇を温存・利用すれば将来復讐戦争の原因になるとの危険論、③天皇は反動支配のための基盤であるとの論に整理したうえで、自身は廃止論に立ち、第一に天皇に敗戦と惨禍の責任をとらせること、第二に1937年以後の戦争に責任あるグループの代表を戦後の政府に絶対に入れないこと、第三に連合国は天皇制廃止を求めるグループを承認、支持すべきこと、第四に連合国は日本の政治的・経済的・社会的再建を可能にするための支援をなすべきことを主張した。

                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その26

日本降伏の形―天皇制をめぐる攻防

 二度の「聖断」―全ては天皇制維持のためだった
 
 『昭和天皇実録』により8月9日の天皇周辺の動きを摘記すると以下のとおりである。省略した主語はいずれも天皇である。

・ 午前9時55分 内大臣木戸を呼んで、ソ連と交戦状態突入につき、戦局収拾を首相と懇談し、研究・決定することを指示
・ 午前10時55分 木戸より最高戦争指導会議でポツダム宣言に対する態度を決定したことを聴取(「①天皇の国法上の地位存続、②在外軍隊の自主的撤兵及び内地における武装解除、③戦争責任者の自国における処理、④保障占領の拒否の四条件でポツダム宣言を受諾する。」)
(その後、高松宮宣仁、木戸、前外相重光葵、東郷らで、ポツダム宣言受諾の4条件の緩和を求める動き。閣議で、東郷より①の一条件のみとすることがを提案されたが、紛糾。鈴木、東郷より、最高戦争会議に天皇親臨を要請される。)

・ 10日午前0時3分 最高戦争会議に臨御。

 少し、行間を埋めておこう。

 前述のとおり、外務省は、9日早朝、首脳の緊急会議で、「皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に受諾する」旨の宣言をすることによりポツダム宣言を受諾することを確認した。
 午前8時ころ、東郷は首相鈴木宅を訪問、外務省首脳の確認事項を伝えた。鈴木は、「ともかく陛下の思召を伺ってからにしましょう」と言って、すぐに宮中に向かった。そこで木戸より、天皇から「戦局の収拾につき急速に研究・決定の要あり」と命じられた旨聞き、午前10時30分から最高戦争指導会議を招集した。一方、東郷は、海相米内と会い、外務省首脳の確認を報告、承諾を得た。

 実際に最高戦争会議が始まったのは午前11時近くからであった。そこで東郷は、外務省首脳の確認どおり皇室の安泰を唯一の条件としてポツダム宣言を受諾すべき旨をよどみなく提案した。鈴木、米内が、これに賛意を示し、同調した。
 これに対し、阿南、参謀総長梅津、軍令部総長豊田はこれに反対し、皇室の安泰を含む国体護持、占領範囲と態様、武装解除は我が国自身の手で行うこと、戦争犯罪人の処罰は我が国が行うことの四条件のもとにポツダム宣言受諾を主張した。
 その会議の最中に2発目の原爆が長崎に投下されたとのニュースが飛び込んだ。しかし、3名の態度は変わらない。西部軍管区司令部は、何故か「被害は比較的僅少の見込み」と発表。この発表も、軍首脳部のこうした強気の態度を後押ししたようだ。

 鈴木は、最高戦争会議を中断して、午後2時30分から臨時閣議に移行、延々午後10時まで続けられたが阿南は態度を変えない。阿南は、国体を護持する保障は軍隊の維持にある、軍隊が存在しなければ一条件であっても履行させる手段はない、原爆投下とソ連参戦のもとでは勝利は不可能であるが、大和民族の名誉にかけて戦い続けるべきだと主張するばかり。もはや正気の沙汰ではない。

 その間、鈴木は、天皇臨席のもとでの最高戦争会議、つまり御前会議を行い、天皇の「聖断」による事態打開を図ることを画策。こうして、宮中防空壕内のご文庫付属室で御前会議が開かれた。開始時刻は『昭和天皇実録』に従い10日午前0時3分としておこう。いつものメンバーのほかに枢密院議長平沼騏一郎も出席したが、これは鈴木からのたっての願い出によるものであった。

 『昭和天皇実録』の記述に従うと会議の模様は以下のとおり。

  「ポツダム宣言の受諾につき、天皇の国法上の地位存続のみを条件とする外務大臣案(原案)と、天皇の国法上の地位存続、在外軍隊の自主的撤兵及び内地における武装解除、戦争責任者の自国における処理、保障占領拒否の四点を条件とする陸軍大臣案が対立して決定を見ず、午前2時過ぎ、議長の首相より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。

 「天皇は、外務大臣案(原案)を採用され、その理由として、従来勝利獲得の自身ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防御並びに兵器の不足の現状に鑑みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱の軍人から武器を取り上げ、また戦争責任者として引き渡すのは忍びなきも、大局上、三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言案を受諾することを決心した旨を仰せになる。」


 なお、『昭和天皇独白録』では、このとき天皇は、「第一にこのままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することができない、第二には、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保に見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」と述べた旨記述されている。さすがに『昭和天皇実録』は、宮内庁刊行の「正史」であるから、「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保に見込みが立たない、これでは国体護持は難しい」と述べたとは書けなかったのだろう。

注:注:『昭和天皇独白録』・・・1928年6月の張作霖爆殺事件に関連する田中義一首相とのやりとりに始まり、1945年8月14日の「聖断」に至る17年間のできごとが語られており、いわば天皇の戦争責任回避のための弁明の書である。寺内の遺品中から発見され、遺族の希望で『昭和天皇独白録』として公開された。初出は、「文藝春秋」1990年12月号で、現在は、文春文庫となっている。)

 御前会議の決定案は、平沼の主張を容れて「天皇の国法上の地位」を「天皇の国家統治の大権」に変更し、午前3時からの閣議で決定され、日本政府は、直ちに中立国のスイスとスウェーデンの在外公使館に駐在する公使に向けて、以下の緊急電文を送信した。

 「帝国政府ハ1945年7月26日『ポツダム』ニ於テ米、英、支三国政府首脳者ニ依リ発表セラレ爾後「ソ」聯政府ノ参加ヲ見タル共同宣言ニ挙ケラレタル条件ヲ右宣言ハ 天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」

 かくして各公使から、スイス政府にはアメリカ、中国へ、スウェーデン政府にはイギリス、ソ連に伝達要請がなされた。

 これに対し、11日正午、連合国を代表してバーンズ・アメリカ国務長官名の回答電文がスイス政府に向けて発信された。それが正式に日本政府に回信される前の、12日午前2時ころには、サンフランシスコ放送を傍受して、日本政府はその内容を確知した。その第1項、第4項には以下のようにしたためられていた。

(原文)
1)“ From the moment on surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied Powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.”
4)“The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.”


(外務省訳)
1項「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす。」
4項「最終的の日本国政府の形態は、「ポツダム宣言」に遵い、日本国民の自由に表明する意思によって決定せらるべきものとす。」


 これは日本側が附した条件に正面から答えたものとはなっていなかったが、これを拒絶したものともいえなかった。

注:ここに「制限の下に置かれる」と訳された英文は「subject to」、「最終的な政府の形態」と訳された英文は「The ultimate form of Government of Japan」であった。外務次官松本俊一が外務省条約局第一課長であった下田武三が頭をひねって刺激的な表現を避けて、このように訳したのであるという各当事者の回想がある。
 しかし、陸軍軍務局の官僚は別途正確な翻訳をしており、梅津、豊田らは、これに従ってバーンズ回答峻拒の意見を天皇に奏上している。松本、下田らがひねり出した「名訳」も効果はなかったようだ。


 さてこの回答をめぐって、阿南、梅津、豊田が猛然と巻き返し、平沼も同調した。「帝国の属国化」だ、政治形態を国民の自由意思により決定するのは「国体」にもとる等々。

 『昭和天皇実録』によると、天皇は、12日(日曜日)午前8時40分、梅津と豊田から、降伏の瞬間より天皇及び帝国政府が連合国最高司令官に従属すること(第1項)、国民の自由意思に従う政体の樹立(第4項)などをあげてバーンズ回答を峻拒すべしとの意見を聴取、そのあと天皇は阿南、平沼からもバーンズ回答第1項、第4項に異存がある旨聴取したが、天皇は、先方の回答どおり応諾する意思を固める。

 13日午前9時から最高戦争指導会議が開かれたが、はてしなく議論が紛糾し、合意に至らず、急遽、翌14日午前11時2分から、最高戦争指導会議と閣議合同の御前会議となった。既に意思を固めていた天皇は、再び「聖断」を求められた。それに対して天皇は次のように応じたとのことである(『昭和天皇実録』)。

 「国内外の現状、彼我国力・戦力から戦争終結を決意したものにして、変わりはないこと、我が国体については外相の見解どおり先方も認めていると解釈すること、敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難いきも、国家と国民の降伏のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、決心した旨仰せられ、各員の賛成を求められる。また陸海軍の統制の困難を予想され、自らラジオにて放送すべきことを述べられた後、速やかに詔書の渙発により心持ちを伝えることをお命じになる。」

 再び『昭和天皇独白録』によりこの部分を対照すると、「私はこの席上最後の引導を渡した訳である」と書かれている。

 かくして狂気の戦争は終結を迎えることができたのであったが、このような経過を見るにつけ、私は、天皇はこの戦争を回避することができた筈だという確信は強められるばかりである。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その25

日本降伏の形―天皇制をめぐる攻防

 降伏の形をめぐる我が国の悲喜劇

 前に述べた一般命題を再度確認しておこう。

 アジア太平洋戦争、第二次世界大戦を戦った連合国も対立物の統一として見なければならない。それは世界の進歩発展の追求と個別国家の国益の追求という二つの側面の統一であり、前者はファシズム、ナチズム、軍国主義を打倒して平和的民主主義的世界を築こうとする普遍主義、後者は当面の戦争を勝ち抜くことであり、そして然る後に戦後世界において覇権の確立をめざす「帝国」主義である。

 ヤルタ会談といい、ポツダム会談といい、この命題の後者の面が顕著に表出されている。

 ポツダム宣言が全体として普遍的・進歩的意義を持つことを否定するものは、おそらくいないであろう。しかし、このソ連を排除したやり方、草案にあった第12項後段「これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」を削除したことに込められたトルーマンの意図は、戦後世界において覇権の確立をめざす「帝国」主義に毒されたものであった。

 それは、ポツダム宣言拒絶⇒原爆投下⇒アメリカの軍事的覇権の確立⇒ソ連封じ込めということである。

 残念ながら、この毒素に、我が国政府は、麻痺させられてしまった。我が国政府がポツダム宣言を確認したのは翌27日のことであった。しかし、政府内では各閣僚の足並みがそろわない。

 東郷外相は、「無条件降伏を求めたるものにあらざることは明瞭」、「占領も地点の占領」であり「保障占領であって広範なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と評価し、慎重かつ前向きに検討することを求めた。
 鈴木首相も、一旦はこれに賛同したが、陸海軍内に強硬な反対意見が噴出するのを見て、28日、記者会見の場で「何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。我々は断固戦争完遂に邁進するだけである。」と述べてしまった。いわゆる「黙殺」宣言である。

 ポツダム宣言第12項は、降伏後の政治体制は「日本人民の自由なる意思に従う」こととされているのであるから、天皇と皇室が日本人民の支持を得られるならば存続すると読みとることも不可能ではない。そうであれば、6月22日の御前会議で決定した唯一の和平条件、天皇制の維持に背馳するものとは必ずしも言えない。この点を東郷は冷静に見極めていた。しかし、時の政府には、頑迷固陋な人たちがとぐろを巻いていたのだ。

 鈴木の黙殺宣言が、拒絶宣言と受け取られたのは当然である。トルーマンの描いた筋書き通りに進んだ。きっとトルーマンは手を打って喜んだであろう。
 かくして原爆が投下された。8月6日の広島の、8月9日の長崎の、人類史上かってない大虐殺は、主犯はトルーマン、共犯は日本政府であった。

 広島への原爆投下の事実はすぐにスターリンにも伝わった。彼は、スパイ網を通じて、原爆が「尋常ならざる破壊力を有する新兵器」であることを知ったのだ。スターリンには、恐るべき熱線により一瞬にして焼き殺された十数万の人々や広島の惨状などはどうでもよかった。彼が関心を持ったのは、一刻も早く対日参戦をしなければ、参戦の機会を失い、ヤルタで手にした獲物を確保することができなくなってしまうということだけであった。

 そこでスターリンは、厳命を発して対日参戦を急がせた。

 このとき、ポツダム宣言には冷静な反応を示した東郷は、広島への原爆投下後の8月6日午後5時、7日午後3時40分(いずれも現地時間。日本時間はこれにプラス6時間である。)と続けて、モスクワ駐在の佐藤駐ソ大使に、ポツダム会議から帰還したモロトフと至急会見するように指示する訓令電を発している。そうしうしかなかったのであろうか。折り返し佐藤から東郷に「明日午後5時にモロトフと会見予定」との電文が届き、一縷の希望をつなぎ止めるのであった。東郷にしてこの体たらくとは・・・。
 7日午後、閣議。ポツダム宣言を基礎に戦争終結を求める意見も出たが、反対の意見にかき消されてしまう。8日も無為に過ごされる。当日、米内海相と東郷外相との間には、ソ連の和平斡旋の件、「今日明日には何とか言ってくるだろう」との会話が取り交わされている。頑迷固陋派とソ連頼みの日和見派、国の危急存亡時になんという愚かしい人たちであろうか。

 ようやくにして日本政府がポツダム宣言受諾に大きく傾いたのは8月9日のことであった。
同日午前4時ころ、モスクワ放送が対日宣戦布告を報じ、これを外務省ラジオ室と同盟通信が受信。直ちに迫水久常内閣書記官長が、鈴木首相に電話で報告したことが局面展開の直接のきっかけであった。

 モスクワでは、現地時間8日午後5時((日本時間同日午後11時)、佐藤が約束通りモロトフとの会見のためクレムリンに赴いたところ、いきなりモロトフからソ連政府名による宣戦布告の声明文を読み上げられた。

 「連合国はソ連政府にたいして、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかな平和の確立に貢献するために日本の侵略にたいする戦争に参加することを申し入れた。」
 「(ソ連政府は、ソ連の参戦こそが)平和の到来を早め、今後起こり得る犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、即ち8月9日よりソ連と日本は戦争状態にあるものとみなす。」


 ソ連軍が満州国境を越えてなだれ込んだのは日本時間で9日午前2時。ソ連政府の対日宣戦布告を流すモスクワ放送を外務省ラジオ室と同盟通信が受信したのはそれから2時間ほど後のことであった。

 9日早朝、東郷以下外務省首脳は緊急会議を持ち、ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるほかはないこと、ポツダム宣言受諾の条件は皇室の安泰のみとすること、しかしその条件交渉をするのではなく、「皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に受諾する」旨の宣言をすることを確認した。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その24

日本降伏の形―天皇制をめぐる攻防

 米ソの力比べの中で
 
 1945年7月17日、トルーマン、チャーチル、スターリンら米・英・ソ三カ国首脳は、ドイツのソ連占領地域となったベルリン郊外のポツダムに集い、同日から8月2日まで、歴史に名をとどめるポツダム会談を行った。

注:会議の最中、イギリスの総選挙が行われ、保守党が大敗し、チャーチルは退陣、かわって労働党のクレメント・アトリーが首相となった。このためチャーチルは7月26日に帰国し、アトリーが残りの会議に参加した。

 ポツダム会談の主たるテーマは、ヨーロッパにおける戦後処理、特にポーランドをはじめ東欧問題とドイツの戦後構想を検討することにあった。そのためポーランドの代表も加わっている。

 しかし、副次的ながら対日問題も取り上げられた。

 対日問題については、米ソのさや当ての火花が飛び交った。ヤルタのルーズベルトは、アメリカ将兵の犠牲を出来るだけ少なくし、早期に日本降伏をかちとりたいという思いでソ連の力を借りるべくスターリンとの密約まで取り交わしたのであったが、ポツダムのトルーマンは、できることならソ連をこの問題に引っ張り込みたくはない、なんとかソ連をシャットアウトできないものかと策を練る。一方、スターリンは、ヤルタで手をつけた獲物を、どのようにして確保しようかと虎視眈々である。

 この米ソのさや当ては、原爆実験成功と実戦配備によって、トルーマンが制することになる。

 7月16日、アメリカ合衆国ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠において「トリニティ」と命名されたプルトニウム型原爆実験が行われ、成功した。しかし、まだ実験成功の報に接したばかりのトルーマンには、逡巡があった。

 トルーマンは、17日、同日行われたスターリンとの会談の模様を、以下のように日記にしたためている。

 「彼(スターリン)は、説明したが、それはまさにダイナマイトであった。しかし私のほうも今爆発させることはしないが、ダイナマイトを持っている。・・・・彼は8月15日にジャップトの戦争に入る(と言った)。ジャップもこれがきたら、もうおしまいだ。」

 トルーマンは、スターリンから8月15日にソ連が対日参戦をするとの言明を引き出したことで得意満面の体であるが、まだ手持ちのカードを切れないもどかしさも見て取ることができるようだ。

 7月17日、夕方、トルーマンに同行したスティムソン陸軍長官のもとに「医者は小さな男の子が大きな兄と同様に元気であることを熱狂的に確信し帰ってきた。男の子の目の光はここからハイホールドまで識別することができ、男の子の泣き声はここから私の農場まで聞くことができた。」との奇妙な暗号電文が届いた。いつでも投下できる原爆が用意されているという意味だそうである。

 21日、スティムソンのもとに、マンハッタン計画責任者として原爆開発を指揮していたレズリー・グローヴス陸軍少将から原爆実験成功の詳報が届いた。グローヴスの報告には「爆発の瞬間に放出されたエネルギーはTNT換算15キロトンから20キロトンに達し、爆発台となった70フィートの鉄骨の塔を一瞬にして気化させてしまうほどであった。」とあった。

 さらに追いかけてホワイトハウスからスティムソンのもとにトップシークレットの電文が届く。「貴下のすべての軍事アドバイザーたちは貴下のお気に入りのあの都市を好み、その準備をしている。そしてもし乗務員が現地の条件にかんがみ、四都市の中からこの都市を選ぶならばこの都市を選択する自由が与えられるべきであると考える。」。この四都市とは、京都、広島、新潟、小倉。さすがにスティムソンは、トルーマンの承諾を得てグローヴスに京都を除外することを指示した。かわって入れられたのが長崎であった。

 そして、22日、23日と続けざま、8月1日以後いつでも投下可能であるとの連絡が入る。

 トルーマンは、原爆が実戦使用可能となったことで、既に確認したソ連の対日参戦スケジュールにあわせて、「ソ連の参戦を招かない」日本降伏の形を組み立てればよいと考えたのであろう。一気に、対日降伏勧告文を完成させた。

 トルーマンは、スティムソンが起草した対日降伏勧告文草案第12条にあった「われわれの目的が達成され、あきらかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」のうち、後段の「これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」との一文を削除し、英国代表団が要望した「天皇の退位あるいは天皇制の廃止を要求するものではない。」との文言挿入も拒否し、イギリス、中国の同意も取りつけた上で対日降伏勧告成文を完成させた。

 なお、トルーマンは、ソ連は対日戦当事国ではないとの建前論に徹してソ連を排除し、米・英・中三国連名でこれを発することを決めた。トルーマンは、24日、スターリンに「我々は尋常ならざる破壊力を有する新兵器を持っている。」と殺し文句でスターリンを牽制する。スターリンは、実験成功の情報は入手しておらなかったようで、内心は動揺したが、それでもその場は平然と受け流したそうである。

 こうして26日、トルーマンは、ポツダムの地より米・英・中三国連名による対日降伏勧告文を世界に発した。これがポツダム宣言である。

 当時の日本のトップの面々は、おろかな選択をして迷走するのであるが、それは次回に見ることとする。

 念のため、ポツダム宣言成文の第12条を見てみよう。そこには「連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。」とあるだけだ。スティムソンの草案にあった「これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」と一文、もしくは英国代表団が要望した「天皇の退位あるいは天皇制の廃止を要求するものではない。」との一文が入っていれば、歴史はまた別の展開を示したかもしれない。あのような歴史は繰り返されてはならないが、心のうちに是非見てみたいものだという願望がかま首をもたげるようで落ち着けない。

                                  (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その23

 日本降伏の形―天皇制をめぐる攻防

ジョセフ・グルーの猛チャージ

 1944年5月9日、アメリカ国務省戦後計画委員会(PWC)が採択し天皇制に関わるアメリカの占領政策の基礎となった「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)は、再説すると、

第一は天皇にみずからの機能を行使する権限を全然与えない。
第二は天皇にその機能をすべて与える。
第三はその一部分を委任する。

の三つの選択肢を提示し、占領軍当局としては、出来るだけ融通性のある方針を立ておくべきだとし、

 もし天皇の特定の制限された機能を行使することを許可することを決定するならば、その場合、可能であれば天皇を保護・拘束・監督下におく、日本国民に対し占領軍当局の権威は天皇のそれよりも高位にあることを示す、天皇の特定の制限された権能を行使させることが占領政策に利益にならなければ全て停止する方が有利になるかもしれない等々。

と勧告するものであった。

 天皇制に関わるアメリカ政府による対日占領政策の検討がなされた形跡は、その後日本降伏に至るまでわずかに、1945年年3月16日、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee「SWNCC」)で採択された「日本国天皇の処遇について」なる文書(SWNCC55)に見られるだけである。

注:国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、1944年12月、病身のルーズベルト大統領の指導力の衰えを補うために国務省・陸軍省・海軍省の三長官によって組織された三人委員会で、戦時内閣のような役割を果たした。

 SWNCC55によると、①天皇個人およびその家族をどう処遇するか、②天皇制に対する軍政府の対応、③天皇が逃亡した場合どうするかの三項目について検討すること、統合参謀本部(JCS)に検討委員会を設置すること、民間人の意見も聞くこと、国務省がその検討内容を起草することとあった。

 この段階では、アメリカは、日本にもドイツ同様に無条件降伏、全面占領と軍政を敷くとの方針を固めていた。1945年3月の沖縄に関するSWNCC52シリーズ文書から同年6月11日採択されたSWNCC150文書「日本打倒後の初期対日方針」も、またヤルタ会談もこの考え方をベースとしていた。同年4月16日、トルーマン新大統領は上下両院合同議会の就任演説で「われわれの要求は過去においても現在においても無条件降伏である。」と述べて拍手喝采を浴びている。

注: トルーマン大統領・・・1945年4月12日ルーズベルト大統領死去により、副大統領であったハリー・S・トルーマンが大統領に昇格した。
 
 少し遡るが、国務省では、1944年11月21日、ハル国務長官の病気辞任、次官のエドワード・スティティニアスが昇格、同時に「知日派」の巨頭と目されていたグルーが次官に抜擢された。

 しかし、時に、アメリカ国内では、ヒロヒトを戦争犯罪者として処罰せよとの世論が渦巻いており、「知日派」のグルーの抜擢人事には批判の声が高まった。たとえばフィラデルフィア・レコード」紙の社説は「グルーはヒロヒトと取引している。」とまで非難する始末であった。
 案の定、議会におけるグルー適正審査では、天皇制に批判的な議員が天皇制擁護論をぶつグルーの人事に噛み付いた。

 グルーは、これにひるむことなく、同年12月12日、上院外交委員会の聴聞会で、次のように陳述した。

 「日本は、近代においていまだかって戦争に負けたことがありません。従って我々は破壊と敗北による激変が日本国民にあたえる最終的影響をはかる基準をもっていません。我々は、降伏後、日本にいかなる権力を登場させるにせよ、その権力が協力的で、安定し、信頼にたるものであることを示すよう、その証拠を要求する権利をもっています。(中略)天皇制は日本の安定要素です。ここで比喩を用いるなら、天皇は大勢の働き蜂が仕え、敬愛する女王蜂のような存在です。もしも蜂の群れから女王蜂を取り除いたならば、その巣は崩壊するでありましょう。」

 後に「女王蜂」演説と称されることになったこのグルーの陳述は、今の我が国の国民水準からすれば、さしずめ天皇制のカリカチュアであり、文明国アメリカから未開の国日本を見下した暴論であろう。アメリカの「知日派」の巨頭といっても一皮向けばこのように日本人蔑視の意識を濃厚に持っていたのである。
 おそらく米上院においても多くの議員が「愚かなジャップどもめ!」と溜飲を下げたことであろう。その甲斐あって議会での攻撃の矛先も鈍り、グルーは適性審査を無事パスしたのであった。

 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部機関として、対日占領政策を検討する極東小委員会(Subcommittee for the Far East「SFE」)が設置されると、グルーはその議長に、駐日大使時代からの腹心であったユージン・ドウマンを就任させ、その下部作業部会に、気脈を通じた「知日派」のブレークスリーとボートンを押し込んだ。さらに、国務省極東部長にはこれまでの親中派ホーンベックを更迭し、「知日派」のバランタインを就任させた。

 こうして布陣を固めたグルーは、無条件降伏路線を修正し天皇制の維持を組み込み、名誉ある降伏、より穏便で速やかな降伏の条件を整えようと猛チャージを開始する。

 グルーは、同年4月14日、トルーマンに対して次のような書簡を送った。

 「無条件降伏とは、もし日本の国民が望むのでれば、現行の皇室の下での君主制の廃止を意味するものではないことを大統領が公的な声明で明らかにしないならば、たとえ軍事的に敗北しても、日本の降伏はありえない。」

 グルーはさらに、同年5月31日に行われるトルーマン大統領の対独戦勝記念声明において、無条件降伏を修正した文言を盛り込ませることを目論見、腹心のドウーマンに一働きをさせた。5月26日、土曜日、ドウーマンを呼びつけ、週末を返上して、声明文草稿を作成することを指示した。ドウーマンは、グルーの考えを汲み取り、声明文草稿を起案した。それには以下のように書かれていた。

 「連合国の占領軍は、これらの目的が達成され、いかなる疑いもなく日本人を代表する平和的な責任ある政府が樹立され次第、いち早く日本から撤退するであろう。もし平和愛好諸国が日本における侵略的軍国主義の将来の発展を不可能にするべき平和政策を遂行する芽が植えつけられたと確信するならば、これは現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする。」

 5月28日、国務省幹部会では、この草稿に対する激しい反対意見が噴出し、国務省案としてこれを使用することはできなくなってしまったが、グルーは、国務次官の立場を活かし、直接、トルーマン大統領に談判するという奥の手を使った。グルーは、この草稿を呈示し、早期終戦を可能にするには、この草稿に基づいて大統領声明を発するべきだと熱く語った。

 トルーマンの返事は、「軍の指導者が同意するなら」との条件付きでの承諾であった。そこでグルーは、勇躍、陸軍、海軍首脳と面談、説得を試みた。

 最長老のヘンリー・スティムソン陸軍長官は明確に同意し、立憲君主制の存続をもっと明確にするべきだとさえ述べた。スティムソンの意見がそうである以上、他の軍首脳も誰も正面きって反対はしなかった。
 しかし、戦後トルーマン大統領の下で国務長官となり、マーシャルプランで名高いジョージ・マーシャル陸軍参謀総長が「ここでは明かすことができないある軍事的理由」によって時期尚早だと述べ、これに他の軍首脳も同調し、グルーの奇策も不発に終わったかのようであった。

 「ここでは明かすことができないある軍事的理由」とは、何を意味するのであろうか。これは公然の秘密で、グルーも勿論すぐ理解できた。要するに原爆の開発と使用計画である。

 だがそれでもまだ土俵を割ってはいなかった。5月31日のトルーマン大統領の対独戦勝記念声明には、皇室の存続と立憲君主制の温存を認めるという趣旨は入れられなかったが、グルーの努力は、スティムソンのポツダム宣言草稿に生かされることになった。

 スティムソンが起草したポツダム宣言草案第12条は以下のとおりであった。

 「われわれの目的が達成され、あきらかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする。」

 しかし、これもまた書き換えられて幻におわってしまったのである。

 ヤルタ会談からポツダム会談へとづづく時期に、国務省も、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の下部機関で対日占領政策を検討する極東小委員会(SFE)も、グルーに気脈を通じる「知日派」で固め、自身も4月24日には国務長官代理となって、絶頂を極めることになったグルーの猛チャージもかくしてさまざまな影響を残しつつも失敗に終わった。

 もはや戦後を見通した米ソの力比べが始まっており、それが政治・外交・軍事の論理を支配するようになっていたのである。その点については次回にざっと述べることにする。
 

                                  (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その22

天皇制の軍事利用の包括的企画書「日本計画(最終草稿)」のその後

 「日本計画(草稿)」は、心理戦共同委員会に提案され、検討が進められていたが、結局、1942年8月18日、同委員会小委員会で、未完成のままは棚上げとすることが決められてしまった。

 しかし、「日本計画(草稿)」は、ホワイト・プロパガンダを担当した大統領直轄の戦時情報局(OWI)に、引き継がれた、対日「情報戦争」の一翼を担うホワイト・プロパガンダの指針となった。

 戦時情報局(OWI)、1944年の夏、海外戦意分析課(Foreign Morale Analysis Division「FMAD」)が設置された。敵国日本について、文化人類学、政治学、社会学、心理学を研究し、日本のことをよく知っている専門家が30人くらいで構成されたセクションで、ここに、かのルース・ベネディクトも所属していた。

 海外戦意分析課(FMAD)では、主に海外で捕虜となった日本の兵士の面接データを分析して日本人の意識、思考調査、日本人の特質の研究をした。当然、その中には、天皇に対する意識・思考を問う面接データもあり、それによると、およそ3000人の捕虜が天皇についてどう考えるか意見を述べているが、否定的な意見を述べたのは僅か7人に過ぎず、日本人にとって天皇が重要な存在であることが裏付けられた。

 海外戦意分析課(FMAD)は、捕虜の面接データ以外にも、日本の新聞やラジオ放送、兵士から没収した日記や手紙、あるいはときどき入ってくる軍事機密情報に基づき、的確なプロパガンダ作戦を立案し、前線で戦う日本の兵士に投降を呼びかけるパンフレットやチラシの文案を練る。

 なお、海外戦意分析課(FMAD)において、ベネディクトが作成した『レポート25号―日本人の行動パターン』という57頁に及ぶレポートが、彼女の著書『菊と刀』の原型となったことは今日、広く知られているところである。

 「日本計画(最終草稿)」は、心理作戦共同委員会での検討過程で、当時、アメリカ南西太平洋(陸)軍総司令官であったマッカーサーにも開示され、意見照会がなされている。マッカーサーは、この照会に「プロパガンダ、対抗プロパガンダ、破壊活動、ゲリラ活動を含む日本に対する心理戦の計画は、明らかに最近イギリス政府からオーストラリア政府へと提案された共同政治戦計画に対応するものである。」と答えている。

 「日本計画(最終草稿)」は、マッカーサーにも共有されていたことがわかる。

 さらに1943年9月、マッカーサー総司令官の指揮するアメリカ南西太平洋(陸)軍総司令部に統合計画本部本部長となり、マッカーサーより「軍事秘書」としてその側近に起用されたボナー・フェラーズ准将のことを忘れてはならない。
 彼は、1896年生まれ、クェーカー教徒で、教団設立のリッチモンドにあるアーラム大学に入学。そこで日本から留学していた女性と親しくなり、日本への関心を駆りたてられた。彼女から日本を知る道しるべとしてラフカディオ・ハーンを紹介されて、その作品を貪り読んだ。1918年、陸軍士官学校卒業後、軍人として日本人の精神構造、心理など日本研究に打ちこみ、1935年には『日本兵の心理』なる論文を書いている。
 彼は、1942年7月から1943年9月までのブラック・プロパガンダを担当する統合参謀本部(JCS)傘下の戦略情報局(OSS)の心臓部である心理作戦計画本部に勤務しているので、前述の経緯から、当然「日本計画(最終草稿)」に精通したものと思われる。
 彼は、マッカーサーの「軍事秘書」となってまもなくマッカーサーの命により、司令部内に心理作戦部((Psychological Warfare Branch「PWB」)という機関を創設、その部長となった。

 日本軍と戦うアメリカ南西太平洋(陸)軍にとって、ラジオやビラなどで、敵兵士の士気を落として投降を促す「情報戦」は重要な戦術であった。マッカーサーはフェラーズの研究、経歴・実績を尊重して「情報戦」の責任者に据えたのである。
 フェラーズは、「情報戦」を実戦の中に生かすについて、天皇をどう位置づけ、どう利用するかということを考え続けた。そして、以下のように定式化した。ここに、「日本計画(最終草稿)」の成果が生かされていることは明瞭に読み取ることができるであろう。

 彼は、次のように定式化している。

・東条を首相として承認した以上、天皇には戦争責任がある。
・しかし、天皇の戦争責任を追及すれば日本人から猛反発を招く。日本人は天皇を絶対に疑わないからである。
・軍部が天皇を騙したという認識を広め、軍国主義者を一掃するのが最も賢明である
・天皇および国民と、軍国主義者との間にくさびを打ち込む心理作戦を行うべきである
・天皇に関しては攻撃を避け、無視するべきである。しかし、適切な時期に、我々の目標達成のために天皇を利用する。天皇を非難して国民の反感を買ってはならない。

  
 このような考えのもとに、心理作戦部(PWB)が作成し、ジャングルに潜む日本兵に向けて飛行機からまかれたビラは実に2億2200万枚に及んでいる。その一例をあげると以下如くである。

 「今日4月29日は御目出度い天長節であります。(中略) 戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生の日に戦捷の御報告申しあげる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れているでせう。軍首脳部は果して何時まで陛下を欺き奉ることができるでせうか。」

 フィリピン戦線で投降した約12,800人の日本兵のうち、4分の3が、ビラを読んで降伏を決断したという調査結果が示されている。これは「日本計画(最終草稿)」に基づく「情報戦」の戦果のほんの一例である。

 やがて「日本計画(草稿)は、戦後、本国ととかく悶着を引き起こしたマッカーサーの占領政策のプラクティスに流れ込んでいく。それについて述べる前に、日本降伏の最終場面を述べておかなければならないが、それは次回とする。


                             (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その21

天皇の軍事的利用の包括的企画書「日本計画(最終草稿)」周辺めぐり

 「日本計画(最終草稿)」の作成経過をたどると、実に多彩な学問的バックグラウンドを見ることができる。

 前述のとおり、公式的には、ソルバート大佐が起草したことになっているが、実際には、そうではなく、ノースウエスタン大政治学部長(1942年当時)ケネス・コールグローブの弟子、チャールズ・ファーズである。

 ファーズの師、コールグローブは、日本の軍国主義、明治憲法に関する著作を持ち、思想的には、保守的と目されているが、大山郁夫がアメリカで亡命生活を送っていたときに親身に世話をしており、懐の深い人である。

 大山は、早稲田大学教授で政治学を講じていたが、1926年6月、労働農民党を結成し、その委員長となった。労働農民党は、弾圧にあって解党、その後、労農党に衣替えして存続をはかった。大山は、1930年2月、その労農党から衆議院議員選挙に立候補し、当選を果たした。しかし、あいつぐ弾圧と組織的混乱のため、政治活動を断念、1932年2月、ほんのしばらくのつもりで妻大山柳子とともにアメリカに渡ったが、コールグローブの世話で、ノースウェスタン大学政治学部嘱託(コールグローブの研究助手)となり、以来、17年間に及ぶ亡命生活を送ることとなった。この間、大山は、コールグローブの下で、美濃部達吉『逐条憲法精義』、穂積八束『憲法提要』の英訳作業に従事した。

 大山は、戦後、1947年10月に帰国し、1950年6月の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補、当選している。

 コールグローブは、日本の憲法改正をめぐってGHQ、アメリカ国防省、極東委員会が確執を強めていた1946年3月、GHQ憲法問題担当顧問として来日、GHQを擁護する立場からこれらの関係を調整し、日本国憲法制定の環境を整える役割を果たした。彼のそうした調整作業に一例として、1946年4月26日付、極東委員会議長フランク・マッコイ(アメリカ代表)に送った書簡の抜粋を示しておこう(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫303、304頁)。

 「日本に来てまだ日は浅いのですが、私は多くの学者、言論人と旧交を温め、またはじめての人とも会う機会を持ちました。彼らと話し合ってみて、軍事占領の成功は最高司令官にたいして日本人が抱く尊敬と信頼の念によるところがきわめて大きいという印象を受けました。・・・・日本における米国の成功の最大の理由が最高司令官の人格によっているものであることは彼等が一致して認めるところであります。
 私は貴官が米国の代表かつ極東委員会の議長というきわめて微妙な立場にあることは知っておりますが、貴官の苦悩に援助の手をさしのべられそうにありません。しかしながら私は、極東におけるこの危険な実験の達成に深い関心を持つ米国の一市民として、憲法草案に対する極東委員会のあいまいな政策が心配であると言わざるを得ません。
 幣原内閣の憲法草案は私の会った知的関心の広いほとんどの日本人が賛意を表しています。彼らは明治憲法の改正と新憲法の採択がはやければはやいほど、日本にとって有益だと考えているようです。さらに4月10日の総選挙において、国会に法を制定することを期待するばかりでなく、修正するにせよ、無修正にせよ、幣原内閣によって提案されている憲法をも採択することを期待していることは言うを待ちません。
(中略)
 新憲法が採択されるまで日本の政治的安定がありえないことは明白です。同時にまた、はるか海のかなたにある一委員会が憲法草案のあらゆる条文に承認を与えるまで大国の決定を相当期間留保することは許されません。そのように決定を遅らせることが最高司令官の権威を低くし、極東における米国の民主主義の実験の成功に背反することは疑いありません。」


 コールグローブの愛弟子、ファーズは、大山がアメリカに渡り、我が師の下で研究活動に入って間もない1934年、前出のボートン、ライシャワーらとともに日本に留学し、東京帝国大学法学部で、美濃部達吉博士の天皇機関説を学び、政治学者蝋山政道同大学教授らとも交流をもった。

 ファーズは、情報調整局(COI)の調査分析部(R&A)にスカウトされ、極東課に在籍、1942年6月の情報調整局(COI)分割・再編後は、戦略情報局(OSS)の極東課長補佐、極東課長に就任している。戦後、ライシャワーの下で駐日米国大使館公使参事官と文化交換局長をつとめた。

 天皇の軍事的利用という発想の起源は、ファーズが在籍した当時の情報調整局(COI)・調査分析部(R&A)極東課における研究に遡る。

 まず1942年2月にまとめられた「日本の戦略的概観」である。これは膨大な日本研究の百科全書ともいうべき研究報告書である。

 次に、この百科全書「日本の戦略的概観」が作られたころ、個別の問題でも、以下のとおり、さまざまなレポートがまとめられている。

・1942年2月5日付「エタ―日本における被圧迫集団」
・同月16日付「ビルマ概観」
・同年3月15日付「日本における社会関係」(その参考文献として「日本の閥」報告書、人類学者エンブリーの「須恵村」、イギリスが外交官・歴史家サムソン卿の「日本文化小史」)

 こうした基礎的研究の上に、ファーズらは、「日本計画(最終草稿)」へと歩みを進めたのであった。「日本計画(最終草稿)」に起草に至るまでにはまだ幾多の道程があるが、1930年代からの日米の学術研究者らが織りなした学問的ネットワークが、これの原動力となっていたことを指摘するにとどめ、先に進めることにしたい。
          
                                 (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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