「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その12

天皇制維持は昭和天皇と日本政府の不退転の決意だった

 さて憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)が採択された由来については、さらに体制の如何を問わず、ナチズム、ファシズム、天皇制軍国主義と戦った連合国諸国の間に、歴史上かってない平和、不戦を願う理想主義が、冷戦への兆しを孕みながらも、太い流れとなって戦後の国際社会をリードしたことにも触れるべきではあろうが、それらは、結局は、国内における政治主体に反映して、わが国の憲法に結実するということにならざるを得ない。ここでは、上述したところは、決して、わが国における閉じた環ではなかったことを確認して、「『菊と刀』のバーター」のもう一つ核である憲法第1章(象徴天皇制)の由来の解明に進むことにする。

 まずはその手始めとして、昭和天皇と日本政府が、降伏にあたり、何を欲し、どうしようとしたかということから始めよう。特筆して確認しなければならないことは、天皇と日本政府にとって、国民の命や財産、暮らしや幸福などは全く眼中にはなく、ひたすら国体=天皇制の維持を願ったということである。

降伏への助走
 
 1945年2月4日から11日までソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。ヤルタ会談である。ヨーロッパでは、イタリアは、既に、1943年9月、パドリオ政権の下で連合国と休戦条約を結び、事実上ドイツ軍の占領下にあった北部ではイタリア共産党を主力とするレジスタンス勢力が解放区を拡大しており、ドイツ本国では、ソ連軍をはじめ連合国軍がベルリンを指呼の間におさめ、その陥落は間近に迫っていた。目をアジアに転じると、もはやアジア・太平洋戦争における日本の敗北が時間の問題となっていた。
 ヤルタ会談では、ヨーロッパにおける戦後処理の問題が話し合われ、合意を見たのであるが、アジアの戦況をふまえ、対日戦の戦後処理についても話し合われ、重大な密約が取り交わされた。世にヤルタ密約と言われるもので、以下の骨子からなっていた。

 米英ソ三国は、ドイツ降伏後2ヶ月から3ヶ月のうちにソ連は、以下の次の条件の下に連合国の側に立って対日戦争に参加することを確認する。

①南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させること
②千島列島をソ連に引き渡させること

 日本国内においてもようやく、昭和天皇の周囲の者たちの中からも決定的な敗北を避けて和平に向かうべきことを唱える動きが表面化してきた。

 近衛文麿がその中心で、1945年1月下旬、京都・宇多野の別邸、虎山荘に、天皇の重臣岡田啓介、海相米内光政、仁和寺門跡岡本慈光を招き、あるいは別途、高松宮の訪問を受けて、和平工作の密議をこらしたていた。その目的は、ただ一つ、天皇と皇室の安泰をどう確保するかということだけであった。

 近衛は、それまでにも天皇への上奏を試みようとしたが、何度も内大臣木戸幸一(木戸孝允の孫)に阻まれている。ようやくにして天皇から、戦局の見通しについて重臣一人ひとりの考えを聞くという機会がもうけられ、近衛は、「天機奉伺」との名目のもと、ヤルタ会談が終わった3日度の同年2月14日、天皇に拝謁することができた。

 このとき、近衛は、天皇に対面して、かねて準備していた長文の上奏文を読み上げた。

 「(もはや敗戦は必至として)敗戦はわが国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ国体の変革とまでは進みおらず・・・したがって敗戦だけならば国体上はさまで憂うる要なしと存じそうろう。国体の護持の建前より憂うるべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起こることあるべき共産革命に御座そうろう。」と。

 情勢認識と現状分析能力の驚くべき欠如である。こんな上奏が採用される筈はない。天皇は「もう一度戦果を上げてから出ないとなかなか話は難しいと思う」と歯牙にもかけなかったようであるが、昭和天皇の情勢認識と現状分析能力も、近衛と甲乙つけがたい。

 これに陪席していたた内大臣木戸は、敗戦は不可避であり、皇室を救うためには和平が必要であるとの点では近衛と同意見であったが、それには軍部を巻き込んで進めなければならない、そのためには時期尚早と考えていたとのことである。こちらは少しましであった。

 近衛は、当日の帰途、吉田茂邸に立ち寄っている。吉田は、このころ外務省から身を引き、義父である昭和天皇の重臣牧野伸顕(大久保利通の次男)の秘書・連絡役という役回りを任じていた。それから2ヵ月後、吉田は憲兵隊に連行され約40日間拘禁されることになったが、その拘禁中執拗に追及を受けたのはこの日の近衛の話の内容、とりわけ天皇に何を話し、天皇からどういう質問を受けたと近衛が話していたかということであった。

 このような何の力にもならない動きを「降伏への助走」とすることはなんともやるせない思いに駆られるが、このような動きにさえ目配りをし、過剰に反応する軍部の疑心暗鬼、神経症ぶりは悲惨でさえあった。
                         
                                 (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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