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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―番外編

 『「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える』を連載していますが、書きたいことが次から次へと浮かんで、ついい43回に及んでしまいました。

 審議過程におけるハイライトは、あと象徴天皇制(第1条)をめぐる議論(後向きの議論、 瓢箪から駒の国民主権の明確化)を綴り、「第3章 憲法第9条を考える」の第2項「第90帝国議会における審議」の項を終え以下のように書き進める予定です。

 おそらく10回くらい連載が続くことになると思いますが、所用のため1週間程度休載して、9月末ころから再開します。引き続きお付き合いいただきますようお願いします。

第3項 政治に翻弄された第9条―第9条解釈論

 いわゆる芦田修正をめぐって 五百旗頭教授紹介のケーディス発言(前掲書305頁批判)も
 芦田の横顔、66条文民規定創設経緯
 疑いえない解釈
 政府解釈の変遷
 国際法・集団的自衛権

第4項 現在問う第9条の規範性

 戦後保守政治がそうしても乗り越えられなかった規範の力
(本論考を一書にまとめるときには、既にブログに掲載した『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』はこのあとに続くことになる。)

第4章 まとめ

 現在の9条改正論について・・・規範の逸脱には限界がある。新たな規定を保守反動勢力は必要としている、しかしそれは憲法論的にいえば壊憲であり、「憲法改正権」の限界を超えることなど比較的短いまとめをする
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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その43

積極的議論が目立った「戦争放棄・戦力不保持」(第9条)―自衛のための戦争・武力行使

 第9条に関する議論のハイライト第二弾は、自衛権もしくは自衛のための戦争・武力行使に関して、政府側が明確にこれを否定する見解を示したことであった。第9条に関して、その後の主要な争点となった事項に関して、制定時には、誰もが疑い得ないかたちで決着をみていたのである。

 この議論の口火を切ったのは、共産党の野坂参三であった。彼は、6月28日の本会議で、政府原案に対する総括的な質問・批判の中で、次のように述べた。

野坂参三 ・・・第六番目の問題、是は戰爭抛棄の問題です、此所には戰爭一般の抛棄と云ふことが書かれてありますが、戰爭には我々の考へでは二つの種類の戰爭がある、二つの性質の戰爭がある、一つは正しくない不正の戰爭である、是は日本の帝國主義者が滿洲事變以後起したあの戰爭、他國征服、侵略の戰爭である、是は正しくない、同時に侵略された國が自國を護る爲めの戰爭は、我々は正しい戰爭と言つて差支へないと思ふ、此の意味に於て過去の戰爭に於て中國或は英米其の他の聯合國、是は防衞的な戰爭である、是は正しい戰爭と云つて差支へないと思ふ、一體此の憲法草案に戰爭一般抛棄と云ふ形でなしに、我々は之を侵略戰爭の抛棄、斯うするのがもつと的確ではないか、此の問題に付て我々共産黨は斯う云ふ風に主張して居る、日本國は總ての平和愛好諸國と緊密に協力し、民主主義的國際平和機構に參加し、如何なる侵略戰爭をも支持せず、又之に參加しない、私は斯う云ふ風な條項がもつと的確ではないかと思ふ(6月28日本会議議事録)

 これに対して吉田首相は、敢然としてこう答弁し、平和のための国際団体が樹立された場合には、正当防衛権(自衛権)を認めること自体有害無益であるとまで言い切っている。

吉田首相 ・・・戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戰爭は多くは國家防衞權の名に於て行はれたることは顯著なる事實であります、故に正當防衞權を認むることが偶偶戰爭を誘發する所以であると思ふのであります、又交戰權抛棄に關する草案の條項の期する所は、國際平和團體の樹立にあるのであります、國際平和團體の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戰爭を防止しようとするのであります、併しながら正當防衞に依る戰爭が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戰爭を目的とした國があることを前提としなければならぬのであります、故に正當防衞、國家の防衞權に依る戰爭を認むると云ふことは、偶々戰爭を誘發する有害な考へであるのみならず、若し平和團體が、國際團體が樹立された場合に於きましては、正當防衞權を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考へます(同上)

 帝国憲法改正案委員会に審議の場が移って7月4日、1928年以来衆議院議員を務めていたが、翼賛政治に反対し、翼賛政治会(後に大日本政治会に改組)に所属せず、1942年の翼賛選挙で落選、戦後、1946年4月10日の総選挙で、進歩党から立候補、当選、返り咲いた林平馬と吉田首相のやりとりも、紹介しておこう(7月4日委員会議事録)。

林  先日本會議に於て吉田總理大臣は、從來自衞權の名に於て戰爭が惹き起されて來たのであるから、眞の世界平和建設の大理想達成の爲には、其の自衞權をも亦抛棄すべきものであるとの御意思のやうな御答辨があつたのでありまするが、恐らくは此の御答辨は世界の思慮ある人々をして感銘を博したことと信じます・・・日本國民が此の戰爭抛棄の宣言をすることは、所謂曳かれ者の小唄では斷じてありませぬ、又あつてはなりませぬ、此の最大崇高なる使命の中に生きて行きたいのであります、是が我我民族の切なる念願であると信じます

吉田首相 此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衞權に依る交戰權の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衞權に依る戰爭、又侵略に依る交戰權、此の二つに分ける區別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります、今日までの戰爭は多くは自衞權の名に依つて戰爭を始められたと云ふことが過去に於ける事實であります、自衞權に依る交戰權、侵略を目的とする交戰權、此の二つに分けることが、多くの場合に於て戰爭を誘起するものであるが故に、斯く分けることが有害なりと申した積りであります・・・講和條約が出來、日本が獨立を囘復した場合に、日本の獨立なるものを完全な状態に復せしめた場合に於て、武力なくして侵略國に向つて如何に之を日本自ら自己國家を防衞するか、此の御質問は洵に御尤もでありますが、併しながら國際平和國體が樹立せられて、さうして樹立後に於ては、所謂U・N・O(注:国連のこと)の目的が達せられた場合にはU・N・O加盟國は國際聯合憲章の規定の第四十三條に依りますれば、兵力を提供する義務を持ち、U・N・O 自身が兵力を持つて世界の平和を害する侵略國に對しては、世界を擧げて此の侵略國を壓伏する抑壓すると云ふことになつて居ります

 吉田首相は、戦力なき日本に対する侵略がもし企図されれば、それは国連によって排除されるという展望を語り、あくまでも第9条により、我が国は全ての戦争・武力行使を放棄し、全ての戦力・交戦権を否定するものであることを力説している。

 しかし、勿論、吉田首相の見解に対する批判も出されている。それは共産党だけではなく、他の会派の議員からも出されている。たとえば無所属の藤田榮は次のように述べている。

藤田 私は他國との粉爭の解決の手段としての戰爭を永久に抛棄すると云ふ此の第九條第一項は洵に結構であると考へるのでありまするが、第二項の交戰權の否認がなぜ制裁としての戰爭或は自衞の戰爭をも含まなければならぬか解釋に苦しむのであります、勿論戰爭は兵力に依る鬪爭でありまして隨てそれは双方的の行爲であり一方的の行爲は戰爭を構成せず、一方の兵力が他方の領域に侵入しても、他方が之に抵抗しないか、或は戰爭宣言をしない限りは戰爭は生じないのでありまするが、一方戰爭宣言があれば鬪爭がなくても戰爭状態に入り得るのであります、なぜならば戰爭は鬪爭其のものではなく、鬪爭を中心とした状態であることは、國際法上一般に認められて居る所でありまして、隨て日本が事實上陸海空の戰力を保持しないと云ふことは、斯樣な制裁の戰爭なり或は自衞の戰爭、詰り交戰權を直ちに否認しなければならぬ理由とはならぬと考へるのであります(7月9日委員会議事録)

 これに対する金森憲法担当相の答弁。

金森 憲法第九條の前段の第一項の言葉の意味する所は固より自衞的戰爭を否定すると云ふ明文を備へて居りませぬ、併し第二項に於きましては、其の原因が何であるとに拘らず、陸海空軍を保持することなく、交戰權を主張することなし云ふ風に定まつて居る譯であります、是は豫ね豫ね色々な機會に意見が述べられました通り日本が捨身になつて、世界の平和的秩序を實現するの方向に土臺石を作つて行かうと云ふ大決心に基くものである譯であります御説の如く此の規定を設けました限り、將來世界の大いなる舞臺に對して日本が十分平和貢獻の役割を、國際法の各規定を十分利用しつつ進むべきことは、我々の理想とする所である譯であります(同上)
 
社会党の森三樹二も、吉田首相に、将来我が国の存立を危うくしないという見通し、方法、手段についてどう考えるかと質問。これに対して吉田首相は次のように答弁した。

吉田首相 此の戰爭抛棄の條項の消極的な意味から申せば、日本に對する疑惑──再軍備、若しくは世界の平和を再び脅かしはしないかと云ふ疑惑を除去することが、消極的の效果であります、又積極的に申しますと、日本が戰爭を抛棄することに依つて、即ち國際の平和愛好國であることを表示することに依つて、世界の平和を脅やかす國から申しますると云ふと、此の國が一旦生じた以上は、何と言ひますか、所謂「ウノ」──國際平和團體と申しますか、其の「ウノ」の四十三條でありますかの規定に依つて、世界の何れの國と雖も侵略の戰爭をなすものに對しては制裁を加へると云ふ規定があるのであります、即ち世界の平和を脅やかす國があれば、それは世界の平和に對する傍觀者として、相當の制裁が加へられると云ふことになつて居ります、兎に角さう云う規定も今日に於て考へに入れて、日本が憲法に於て交戰權を抛棄することに依つて、日本の地位が世界の疑惑から兎れ、更に萬一日本に對して侵略する國が生じた以上には、聯合國が擧つて日本の平和を保護すると云ふ態度に出づると云ふことに理論に於てなつて居る、斯う考へるのであります(同上)

 吉田首相は、日本の存立を危うくするような他国の脅威に対しては、国連によって保護されるとの見通しを述べ、第9条は、全ての戦争・武力行使を放棄し、全ての戦力を保持しないという趣旨であることを繰り返し確認したのであった。

 議論の状況はこの程度の紹介で十分了解できるだろうが最後に、芦田委員長が、8月24日本会議で行った委員会報告のうち第9条に関する部分を、ハイライト第一弾にもまたがるが、紹介しておくこととする。

 「委員會に於ては此の問題を繞つて最も熱心な論議が展開せられました、委員會の關心の中心點は、第九條の規定に依り我が國は自衞權をも抛棄する結果となるかどうか、自衞權は抛棄しないとしても、軍備を持たない日本國は、何か國際的保障でも取付けなければ、自己防衞の方法を有しないではないかと云ふ問題、竝に我が國としては單に日本が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみでなく、進んで世界に呼び掛けて、永久平和の樹立に努力すべきであるとの點でありました、政府の見解は、第九條の一項が自衞の爲の戰爭を否認するものではないけれども、第二項に依つて其の場合の交戰權も否定せられて居ると言ふのであります、之に對し委員の一人は、國際聯合憲章第五十一條には、明かに自衞權を認めて居り、且つ日本が國際聯合に加入する場合を想像するならば、國際聯合憲章には、世界の平和を脅威する如き侵略の行はれる時には、安全保障理事會は其の兵力を以て被侵略國を防衞する義務を負ふのであるから、今後に於ける我が國の防衞は、國際聯合に參加することに依つて全うせられるのではないかとの質問がありました、政府は之に對して大體同見である旨の囘答を與へました、更に第九條に依つて我が國が戰爭の否認を宣言しても、他國が之に贊同しない限り、其の實效は保障されぬではないかとの質問に對して、政府は次の如き所見を明かに致しました、即ち第九條の規定は我が國が好戰國であるとの世界の疑惑を除く消極的效果と、國際聯合自身も理想として掲げて居る所の、戰爭は國際平和團體に對する犯罪であるとの精神を、我が國が率先して實現すると云ふ積極的效果があり、現在の我が國は未だ十分な發言權を持つて、此の後の理想を主張し得る段階には達して居ないけれども、必ずや何時の日にか世界の支持を受けるであらうと云ふ答辨でありました、委員會に於ては更に一歩を進めて、單に我が國が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみを以ては、地球表面より戰爭を絶滅することが出來ない、今日成立して居る國際聯合でさへも、其の組織は戰勝國の平和維持に偏重した機構であつて、今尚ほ敵味方の觀念に支配されて居る状況であるから、我が國としては、更に進んで四海同胞の思想に依る普遍的國際聯合の建設に邁進すべきであるとの意見が表示せられ、此の點に關する政府の努力に付て注意を喚起したのでありました」(8月24日本会議議事録)
              
                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その42

積極的議論が目立った「戦争放棄・戦力不保持」(第9条)―日本國民は、正義と秩序とを基調とする國際平和を誠實に希求する

  『帝国憲法改正案』の審議は、今日の国会の状況からは想像できないほど、討議をしている議員も答弁にあたる政府当局者も、まじめで真剣な議論をしている。とりわけ「戦争放棄・戦力不保持」を定める第9条に関する議論は、積極的かつ建設的であった。

 第9条をめぐる議論のハイライト第一弾。第9条は、政府原案では、第1項で「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する」とし、第2項で「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない」であったが、これだけでは消極的、受動的に過ぎる、もっと積極的に平和主義を打ち出し、世界に宣言するものでならず、かつ国内でどう生かしていくかを明確にしなければならない、という指摘がなされ、この趣旨を鮮明にする条文づくりに知恵をそぼりあったことが注目される。

 口火を切ったのは社会党の片山哲であった。『帝国憲法改正案』が上程される前の6月21日の本会議で、吉田首相の首相就任演説に関連して、片山は次のように質問をした。

片山 (前略)民主憲法は積極的に、日本國は平和國として出發するものであることを明示する、世界に向つての平和宣言を必要とすると私は考へるのであります、例へば第二章の戰爭抛棄の前に別條を設けることも宜しいと思ひまするが、日本國及び日本國民は平和愛好者たることを世界に向つて宣言する世界恆久平和の爲に努力する、且つ國際信義を尊重する建前であることを聲明することが必要なりと私は考へて居るのであります(6月21日本会議議事録)

 これに対する吉田首相の答弁(翌22日の本会議)

吉田首相 (前略)憲法に戰爭抛棄を明記して居るが、更に積極的に世界に向つて平和宣言をなす用意ありや否やと云ふ御尋ねであります、憲法に戰爭抛棄を明記したことに付きましては、日本は實に世界平和を念願する爲の一大決心に基いたものでありまして、其の趣意を以て世界に既に呼び掛けて居る譯であります、更に宣言をなすことの用意ありや否や、なすべきや否やと云ふことは暫く今後の國際事情の發展に待ちたいと思ひます、一應御答へを致します(6月22日本会議議事録)

 弁護士出身の進歩党吉田安も、少し趣旨は違うが、第9条の実効性確保の観点から、6月27日の本会議で次のように述べた。

吉田安 (前略)或る人は、戰爭抛棄は、侵略國家たる日本が平和國に戰を仕掛けて負けたから、其の贖罪的な規定であると、斯う言ふ人もある、勿論贖罪的な規定とも考へられまするが、之を唯贖罪的だとのみ考へるならば、餘りにも過大過ぎると私は思ふ、何處にか國家としてはまだ遠大なる目的がなければならぬ、其の遠大なる目的に對しましては、總理大臣から何囘も御答辨になつて居りまするが、又一面國家の最低限度の自衞權はどうだ斯うだと言ふ人もあるのでありまするが、或は又永世局外中立國云々、國際聯合國云々と云ふ高遠なる目的は勿論必要でありまするが、其の高遠なる目的に進むに付きましては、何としても先づ國内に於て此の戰爭抛棄を如何に活かして行くかどうかと云ふ、それに對する御考へを私ははつきり承つて置きたいです(後略。6月27日本会議議事録)

 これに対し、金森憲法担当相の答弁は次の如くであった。

金森 (前略)御主張の如く、日本は此の際大乘的見地に於きまして、平和の一路を突進して、世界文化諸國の先頭をなす趣旨を以て此の案を設けたのでありまして、其の規定の第一項に當るべきものは、世の中に必ずしも類例がない譯ではありませぬが、第二項を設けまして、名實共に平和の一路に進む態度を示しましたことは、畫期的な日本の努力であると思ふのであります、大體人類の世界に於ける理想を實現致しまする爲に、單純なる伝統的の思想をのみ追究致しますれば、疑心暗鬼に依つて殆ど文化的前進をすることは出來ないのでありまして、日本は此の今囘の改正草案の中に於きまして、衆に先んじて一大勇氣を奮つて模範を示す趣旨であるのであります、隨て固より之に基きましての凡ゆる施策に於きまして、一路此の目的を達成することが必要でありまして、平和的文化的な各般の處置は是よりして國家全局の力を總合して努力すべきものと考へて居ります(後略。同上)。

 世界に向けて積極的に平和主義を打ち出し、平和規範として国内でどう生かすかという観点からの修正意見について、政府側の答弁は、及び腰であった。しかし、帝国憲法改正案委員小委員会において、この点はさらに深められ、修正がなされる。7月27日、28日と引き続いて、この問題について各党委員から意見が出され、最後は芦田が引き取ってまとめ上げた。口火を切ったのは、社会党の鈴木義男であった。鈴木は、かの憲法草案要綱をまとめた憲法研究会のメンバーでもあり、東北大学で行政法の教授を務めた経歴を有する学者であった。彼は次のように述べた。

鈴木 (前略)それから社會黨は此の總則の方へ持つて來るならば今一條平和愛好國であると云ふやうなことを出したいと思つた、日本國は平和を愛好し、國際信義を重んずる―是は法律に直すには可なり難かしい技術を要しますが、是は道徳的の規定になりますから、外にも道徳的の規定は澤山ありますけれども、其の趣旨は前文に出て居りますから、無理にさう云ふ一條を設け、或は此の前に出すことはないと思ひます、強ひて固執は致しませぬが、皆さんの御意見を伺ひます、唯戰爭をしない、軍備を皆棄てると云ふことは一寸泣言のやうな消極的な印象を與へるから、先づ平和を愛好するのだと云ふことを宣言して置いて、其の次に此の條文を入れようぢやないか、さう云ふことを申出た趣旨なのであります(7月27日小委員会議事録)

 このあと各党委員の意見がひととおり出たところで芦田委員長が、当日は土曜日ということもあって来週の委員会に持ち越すことということで締めくくった。そして7月31日の委員会冒頭、芦田委員長は、次のように述べて試案を提起した。

芦田 「日本國民は、正義と秩序とを基調とする國際平和を誠實に希求し、陸海空軍その他の戰力を保持せず。國の交戰權を否認することを聲明す。」と第一項に書いて、それから現在の第一項を第二項に持つて來て「前掲の目的を達するため、」、さうして第一項の「國權の發動たる戰爭」云々と斯う云ふやうにしたらどうかと云ふ試案なのです、さうして第二項の「他國との間の紛爭の解決の手段」と云ふ文句が、如何にも持つて廻つてだらだらして居るから、之を「國際紛爭を解決する手段」と直したらどうか(7月31日小委員会議事録)

 この試案をめぐり再び議論は紛糾、ひとまず他の条項の逐条審議をした後、8月1日に至り、以下のような具合に収束した(8月1日小委員会議事録)。

芦田 前項のと云ふのは、實は双方ともに國際平和と云ふことを念願して居ると云ふことを書きたいけれども、重複するやうな嫌ひがあるから、前項の目的を達する爲めと書いたので、詰り兩方共に日本國民の平和的希求の念慮から出て居るのだ、斯う云ふ風に持つて行くに過ぎなかつた

吉田安 そこで、正義と秩序を基調とする國際平和を希求して、此の希求の目的を達成する爲め、陸海空軍其の他の戰力は之を保持してはならない、「これを保持せず」、斯うしたら「保持せず」と直しても目的が謳つてあるから、委員長の御苦心が生きる、委員長と意見の違ふ所は、一項と二項は原文の儘で、自發的な精神を生かして……


(中略)

芦田 さうすると、今進歩黨の案は「日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、それから第二項に於て「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない」

 かくして第9条第1項に「日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し」という戦争放棄・戦力不保持を支える精神的支柱が据えられたのであった。

                                  (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その41

「帝国憲法改正案」の審議経過

 6月25日、『帝国憲法改正案』が衆議院に上程された。第1条と第9条の案文を再度確認しておこう。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。


 この日、本会議で『帝国憲法改正案』第1読会が行われ、本格的な論戦が開始されたが、既に、既に6月21日本会議で行われた吉田の首相就任演説に関する各党代表による質疑の中で、実質的に論戦の火ぶたが切られていた。

 まず審議経過を見ておこう。概略以下のとおりであった。

 6月28日まで、本会議で総括的一般的な審議が行われ、同日、帝国憲法改正案委員会(委員長芦田均以下74名)に付託。以来、7月23日まで、同委員会で18日間に及ぶ会議が開かれて濃密な議論が行われ、おおむね議論を尽くしたところで芦田委員長以下14名の委員(共産党からは、同党所属議員が少数であったから選出されなかった。)からなる帝国憲法改正案委員小委員会に移行して、非公開の懇談形式で共同修正案を作成することとなった。同小委員会は、7月25日から8月20日まで、夏休みも返上して13日間に及ぶ会議を持ち、暑い時期の熱い討議の結果、同小委員一致の修正案を作成した。

 8月21日に帝国憲法改正案委員会が開かれ、これを審議、可決し、同月24日の本会議で、芦田委員長が、同委員会における審議経過を報告し、あらためて質疑討論を行い、同日、記名投票方式によって修正『帝国憲法改正案』を議決した。反対者は8名のみ、圧倒的多数の可決であった。反対者のうち6名は共産党所属議員、2名は無所属左派系議員であった(議事録)。

 芦田の委員会報告は、冒頭、「本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります」との挨拶に始まり、「改正憲法の最大の特色は、大膽率直に戰爭の放棄を宣言したことであります、是こそ數千萬の人命を犧牲とした大戰爭を體驗して、萬人の齋しく翹望する所であり、世界平和への大道であります、我々は此の理想の旗を掲げて全世界に呼掛けんとするものであります、さうして是こそ日本が再生する唯一の機會であつて、斯かる機會を日本國民に與へられたることに對し、私は天地神明に感謝せんと欲するものであります、併しながら憲法が如何に完全な内容と雄渾の文字を以て書綴られたとしても、所詮それは文字たるに過ぎませぬ、我々國民が憲法の目指す方向を理解して、其の精神を體得するにあらずんば、日本の再生は成し遂げることは出來ないと思ひます」と結ばれていく1万7000字を超える詳細を極めたもので、憲法制定(改正)への芦田の並々ならぬ意気込み、熱意、情熱を感じさせるものであった。

 因みに同日の本会議で、共産党を代表して野坂参三が述べた反対理由は次のとおりであった。

① 勤労人民の権利保障が不徹底である
② 象徴天皇制の規定は反民主的である
③ 参議院は有害無益、衆議院一院制とするべきである
④ 第9条は自衛権をも放棄しており、民族独立を危うくする危険がある


 衆議院を通過した『帝国憲法改正案』では、原案の第1条と第9条は次のように修正されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。


 原案からの主な修正点は、第1条では、「日本国民の至高の総意」との語句が「主権の存する日本国民の総意」と改められたこと、第9条では、第1項に、冒頭、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」との語句が置かれ、第2項に「前項の目的を達するため」の語句が加えられたことである。

 これらの修正の意味ついては、後に述べることとする。

このあと貴族院での審議に移され、同院で、連合国極東委員会で問題とされた2ヶ条(第15条に公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障する規定、第66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない旨の規定を追加)を含む若干の修正のあと、衆議院に回付され、10月7日、衆議院本会議において起立方式による採決の結果、「五名を除き、其の他の諸君は全員起立、仍て三分の二以上の多數」(議事録)で議決された。
 この第66条のあまり注目はされてこなかった修正についても、その経緯、意味について、後に述べることとする。

 かくして日本国憲法は制定されたのであるが、戦争放棄・戦力不保持、象徴天皇制の順に、審議過程での議論のハイライトを抽出して見て行くことにしたい。

                           (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その40

審議日程は大きく変更された

 マッカーサー・GHQと、アメリカ本国政府及び連合国極東委員会(FEC)との日本の憲法改正問題(日本国憲法制定問題)をめぐる軋轢は、前にも述べたようにアメリカ国務省が、1946年3月、GHQ憲法問題顧問として送り込んだ政治学者で日本憲政史に造詣の深いケネス・コールグローブのとりなしで、調整作業がなされ、おさまりかけていたが、改正(制定)の手法とスケジュールについて、依然として対立の火種がくすぶっていた。
 日本政府は、当初、3月2日の閣議で、第90帝国議会で5月10日から7月10日の間に審議を終え、公布するということを閣議決定していたが、さらに4月24日、枢密院で、松本国務相が、「5月中旬に議会招集、6月中旬迄に審議終了、同月下旬に公布、7月に附属法規のための議会招集、本年末の議会開会の頃には本案施行の見透」と説明していた。

 このような改正(制定)手法と性急な審議に対しては、我が国においても反対する意見は根強いものがあった。

 2月3日には、輿論調査研究所の世論調査結果によると、「憲法改正委員を公選して国民直接の代表者により改正案を公議する」という者が53%、「議会の憲法改正委員会において改正案を審議する」という者は24%に過ぎなかったことが報じられた。

 3月から4月にかけて、憲法制定(改正)は、特別に選出された議員からなる憲法制定議会もしくは国民投票など、国民の参加声の下で行われるべきだという声が高まった。前年末に『憲法草案要綱』を作成し、政府とGHQにて提出していた憲法研究会の高野岩三郎、鈴木安蔵は、憲法制定議会をつくり、そこで時間を十分にとって審議すべきことを提言し、社会党、共産党を中心として結成された民主人民戦線も、「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」を決議した。ここに結集した主な人たちの名前をあげると、石橋湛山、大内兵衛、野坂参三、森戸辰男、山川均、横田喜三郎らなどであった(以上(古関『誕生』293、294頁)。

 政府が、このような声を無視して、上記のように決定してしまったのである。これは、憲法改正(制定)を急ぐマッカーサー・GHQの意を受けたものであったのだろう。 

 そこで、連合国極東委員会は、再々、マッカーサーに書簡を送って、さかんにマッカーサーを牽制するがマッカーサーは意に介さない。アメリカ国務省も、さらには陸軍省までも、心配をしてマッカーサーに連合国極東委員会と協議することを求めるが、マッカーサーはのらりくらりと身をかわす。

 かくして連合国極東委員会は、5月13日、以下のように決定をしてGHQに伝達した(国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料3-28)。

 日本の新憲法の採択についての原則

新憲法の採択についての原則は、その憲法が最終的に採択されたとき、それが、実際に、日本国民の意思の自由な表明であることを保証するようなものでなければならない。そのために、次のような諸原則が守られねばならない。

a 新憲法の条項を徹底的に討議し検討するため、十分の時間と機会とが与えられるべきである。

b 一八八九年の憲法と新憲法との間に完全な法的連続性の存することが保証されるべきである。

c 新憲法は、それが日本国民の自由な意思を、確定的に表明するものであることを示すような方法で採択されるべきである。


 しかし、マッカーサーは沈黙を続ける、しびれをきらしたアメリカ本国政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、6月11日、日本政府の審議スケジュールが拙速であること、憲法制定議会もしくは国民投票の手法をとるべきことを連合国極東委員会は勧告していることをあげ、「わが国政府は、貴官が日本の適当な指導者と協議し、憲法制定議会もしくはその目的を明らかにして選挙された国会、あるいは国民投票によって憲法を最終的に承認することに何の妨げもないことを明らかにすることが望ましい」との大統領書簡の素案を準備し、マッカーサーに「情報並びに指針」として送ることを決めた(古関『誕生』306頁)。

 ここに及んでついにマッカーサーは、第90帝国議会の開院がなされた翌日の6月21日に、形式上は日本国民向け、実際はアメリカ本国政府と連合国極東委員会に向けた声明を発表するに至った(Press Release: General MacArthur Issues Statement on Submission of Draft Constitution to Japanese Diet)

 その声明は、「審議のための充分な時間と機会」が与えられるべきこと、「明治憲法との法的持続性」が保証されるべきこと、新憲法の採択は「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならない、と説いたのであり(原文は、国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料4-5)、上記の連合国極東委員会の決定に満額回答をしたことを示すものであった。

 このマッカーサー声明によって、第90帝国議会は、審議日程が大幅に延長され、実りある審議の場となった。特別に設けられる憲法制定議会もしく国民投票ではなかったが、憲法制定(改正)が時の話題になっていた4月10日に実施された総選挙で、はじめて参政権を得た女性も参加して選出された議員は、文字通り国民の代表といってよく、彼らによって構成された新たな衆議院は国民の総意を反映し、自由闊達な議論の場となったといってよい。連日なされる新聞・ラジオの報道、それを通じて議会にフィードバックされる国民の声、それらも含めて日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたこを示すことができることとなったのである。その審議の過程を通じて、日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたことを示すことができることとなったのである。

 前置きが長くなったが次回には審議の中身に入ることにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その39

国民はメシも憲法もだった

 日本進歩党は大政翼賛会における公認院内会派であった大日本政治会(1945年3月、翼賛政治会から改編された。)を母体に、同年11、結成された保守政党で、幣原内閣も同党を支持基盤にし、幣原自身も、1946年3月、同党総裁に就任しているが、同年1月4日のGHQ・公職追放令(SCAPIN548、550)によって、現職議員274名中、260名が公職追放となり、4月10日の総選挙では、第二党の地位に甘んじることを余儀なくされた。

 日本自由党は、翼賛政治会時代に同会を脱退し、東条内閣と距離を置いていた鳩山一郎が敗戦直後から、「政治の手あかに染まっていない官僚、学者、ジャーナリストら新人を発掘し、穏健な社会主義者たちも包含して、清新で活力ある新政党を樹立する意欲を持って」(五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』講談社学術文庫259、260頁)、前年11月19日、結成された保守政党で、結成時は、43名の議員を有するに過ぎなかったが、4月10日の総選挙では、上記公職追放令の影響をまともに受けた進歩党の低迷をよそに、第一党に躍進した。鳩山は、勇躍、組閣に向けて動き出し、5月4日には天皇から組閣の大命が下されるという間際のところまでこぎつけたのであるが、その前日、公職追放の命令が下されてしまった。

 日本社会党は、戦前の無産政党の流れをくむ左右の社会民主主義者を幅広く糾合し、前年11月2日、結成。17名の現職議員が結集した。しかし、遺憾ながら、このうち10名が、公職追放となっている。戦後の平和、民主主義運動の担い手として大きな役割を果たした社会党であるが、その出自には、このような暗い側面があったことを忘れてはならない。この社会党は、4月10日の総選挙で、進歩等に肉薄する第三党に躍進した。

 日本共産党は、前年10月4日、GHQの人権指令によって獄舎から解放され徳田球一、志賀義雄らを中心として、同年12月4日再建され、活動を再開すると、急速に国民に浸透し、4月10日の総選挙では5名の当選者にとどまったものの、一貫して戦争に反対し、軍国主義・帝国主義を糾弾し続けた唯一の政党として知的道義的権威を獲得して、論戦をリードした。

 さて組閣を目前にして公職追放となり傷心の鳩山、衆議院には議席を持たない幣原内閣の外務大臣吉田茂に白羽の矢を立て、自由党総裁への就任と次期首相となることを要請した。吉田がこれを受諾して、1ヶ月以上にわたる「政権空白」にようやくピリオドを打つことになった。
 五百旗頭の前掲書に、このときのいきさつが次のように書かれている。

 「吉田は鳩山のあとを継ぐにあたって、長くじらした後、5月14日であろうか、鳩山を外相官邸に招いた。鳩山を呼び出しただけではなく、後から聞いた河野一郎が憤慨するような条件をつけた。第一は、金はつくれない、鳩山の方で面倒をみる。第二は、人事について、内閣は吉田に任せ鳩山は口を出さない[しかし、党の人事はすべてを鳩山に任せる]。第三は、やめたくなったらいつでもやめる[鳩山がやれるようになったらすぐにあけ渡す]。[ ]の部分は、吉田の回想は記していないが、鳩山の回想が記しているものである。」(同書276頁)

 実は、鳩山、吉田の間で、このような合意を見る前に、片山哲社会党書記長が中心になって、自由党、協同党、共産党との連立による救国政府構想が模索されていただけに、戦後の永久的保守政権の原型となり、三次にわたり7年間の長期間政権を担い、サンフランシスコ講和・安保条約体制を形成した吉田政権がこのような偶然と寝技的な闇取引のような合意でスタートをしたことは、歴史の悪戯というほか的確に表現する言葉がない。

 吉田による組閣を完了し、第一に吉田内閣が発足したのは5月22日、5月16日に召集され、6月20日、開院した第90帝国議会に枢密院での審議を終えた「帝国憲法改正案」が提出され、衆議院に上程されたのは同月25日のことであった。

 折から我が国の食糧危機は深刻の度を深めていた。国内の田畑は荒廃し、旧植民地からの米麦の強奪は不可となり、戦地や外地からの帰還が相次ぎ、当時、日本人は一日あたり、2500キロカロリーを必要とするとされていたのに、東京都民は1351キロカロリーしか摂取できず、配給は775キロカロリーに過ぎなかった。その配給さえも遅配続きで、このままでは1000万人の餓死者が出ると取りざたされていたほどである(五百旗頭・前掲書280頁)。

 こんな状況に国民は黙ってはいない。5月17日には、「食糧メーデー」と銘打った大集会が催され、皇居前広場に25万人もの大群衆がおしかけ、そこから繰り出したデモ隊は首相官邸を包囲した。「国体はゴジされたぞ 朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられ、徳田球一が塀を乗り越えて首相官邸に押し入るという勇ましい事件が起こったのはこのときのことであった。まさに共産党をも含む救国政府構想は絵空事ではなかったのである。

 では、国民は、メシより憲法だったのであろうか。いや、そうではなくメシも憲法もであった。国民は、飢えに我慢を強いられつつも、第90帝国議会衆議院の議論とそれを報じる新聞を食い入るようにして読み、ラジオのニュース放送にかじりついていたのである。

 さて、この第90帝国議会の衆議院において、後世語り継がれるほどの大活躍をした人物が二人いる。憲法担当国務大臣金森徳次郎と帝国憲法改正案委員会の委員長となった芦田均である。

 金森は、愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)、一高、東大を経て、1912年大蔵省入省、その後法制局に転じ、1934年、岡田啓介内閣で法制局長官を務めた。個人的なことをいうと、金森は、私にとって高校、大学の大先輩である。
1935年、右翼・軍部が騒ぎ立てた天皇機関説事件に関して、法制局長官として議会で見解を求められた金森は、「学問のことは政治の世界で論じない方がよい」とはねつけるが、右翼・軍部の攻撃が勢いを増し、1936年、金森は退官を余儀なくされ、退官後の金森は、警察や憲兵の監視下に置かれた。
 雌伏10年、1945年12月、法制局長官経験者は貴族院議員となる資格を有するとの規則により、貴族院議員に勅任され、第一次吉田内閣で、憲法担当の国務大臣に就任、第90帝国議会を通じて、政府を代表して1365回にも及ぶ答弁をこなしている。彼の答弁はとおりいっぺんのものではなく、長いものは1時間半にも及び、その内容も機知に富み、洒脱で、議事録を読むのが楽しくなるほどである。

 その金森は、第9条を評して、これからの日本は「文一道で行く」ことを選択したのだと述べているとおり、議会答弁でも、第9条に関しては、その意義を最も丁寧かつ明確に説明をしていることは後に見るとおりである。

 芦田については、第9条に後足であと泥をかけるようなことをしているので、それについて述べる箇所で紹介することにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その38

 
『憲法改正草案要綱』から『憲法改正草案』へ

 1946年3月6日、GHQ民政局とギリギリまで調整を経て公表された『憲法改正草案要綱』には次のような天皇の勅語が付されていた。

 朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ鑑ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享受シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シ誼ヲ邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念(おも)ヒ乃(すなわ)チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メンコトヲ庶幾(こいねが)フ政府当局其レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成センコトヲ期セヨ 
 
 なんとも読みにくい文章であるが、趣旨は読みとることができるだろう。日本国民は正義を尊重し、平和的生存と文化的向上を希求すること、戦争を放棄して諸外国との友好関係を確立すること、基本的人権を尊重することを宣命し、ここに憲法改正をする旨、宣言しているのである。

 この『憲法改正草案要綱』では、象徴天皇制と戦争放棄・戦力不保持は次のようになっていた。

第一 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト

第九 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄スルコト
 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト


 これがさらに4月17日公表された政府原案『憲法改正草案』では次のように条文化されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

 
 実質上の変更はないが、文章が、カタカナ・文語体からひらがな・口語体に変わっていることが目を引く。これは国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)が、3月21日、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出したことが契機となった。その意見書には、冒頭、次のように書かれていた。

 「国民一般に必要な書きものは、国民一般にわかりやすい書き方でなければなりません。それにもかゝはらず、これまで法令そのほかの公文書が、この点をおろそかにしてゐたことは、だれでもみとめているとほりであります。この不合理をそのまゝにしておくならば、すべての国民の心をあつめて新しい日本をうち立てようとしても、それはおぼつかないことに存じます。
 今や新しい歴史の出発点にあたって、国民に対する国家の期待をあきらかにし、国民の自覚と勇気とをふるひ起こさせる上から、この際、法令、公文書のすがたを一新することはきはめて望ましい手だてであると信じます。
 右の注意から、このたび政府でご提出になる憲法改正案をはじめ、すべての法令、公文書の書き方を次のようにお改め願ひたいと思ひます。

一、文体は口語体とすること
二、むずかしい漢語はできるだけ使はぬこと
三、わかりにくい言ひまわしは避けること
四、漢字はできるだけへらすこと
五、濁点、半濁点、句読点をもちひること
 
以上の方針のもとに、現在おこなはれてゐるものは、すみやかに書き改め、今後のものはこのやうに作られますやう、建議いたします。」


 「国民の国語運動」の代表、安藤正次博士は、台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長を歴任した国語学の権威で、賛同者名簿には、当時の著名な文化人が網羅されていると言ってもよいほどである(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説3-25)。

 日本国憲法の制定に向けて、条文化作業に関してもこのような国民的広がりがあったことは、特筆すべきことであり、敢えて紹介した次第である。

 法制局は、この建議を積極的に受け止め、閣議了解を得て、作家山本有三、国際法学学者横田喜三郎、元判事三宅正太郎らの協力のもとで政府原案『憲法改正草案』を起草したのであった。

 この政府原案は、明治憲法第56条により、枢密院の審議を経て若干の字句修正の上、6月20日、第90帝国議会に『帝国憲法改正案』として提出された。

 第1条、第9条に関しては、第9条2項について、「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。」と修正されただけである。

 さて、第90帝国議会では、前年12月に、満20歳以上の男女が選挙権を有することに改正された衆議院議員選挙法に基づいて、4月10日に実施された戦後はじめての総選挙によって選出された新しい衆議院において(定数466のうちの党派別当選者は日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、日本協同党14、日本共産党5、諸派38で、うち女性は39名。定数2の沖縄全県区はアメリカ軍政下にあったため、選挙が行われず、日本の国籍を有するものの台湾籍、朝鮮籍、樺太籍の者の参加は認められなかった。)、この第1条と第9条をめぐる議論が熱心に展開された。この経過を次回に見ていくこととしたい。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その37

戦争放棄・戦力不保持は象徴天皇制の代償だったのか

 日本国憲法に、過去と断絶する前向きのベクトルとして埋め込まれた戦争放棄・戦力不保持(第9条)と過去と連続する後ろ向きのベクトルとして埋め込まれた象徴天皇制(第1条)とが、無関係ではなく相互関連性をもっていたことは、これまで述べてきたところから明らかであり、本論考のタイトル『「菊と刀」のバーター 日本国憲法第9条を考える』もそのことを当然のこととしている。

 しかし、どのような意味で相互関連性があったと見るのかは、検討を要するところである。

 一つの見方は、象徴天皇制を採択することに対する国際社会の批判、不安、不満を押さえ込むために戦争放棄・戦力不保持を採択したというものである。戦争放棄・戦力不保持代償説と呼んでおこう。

 憲法第1条(象徴天皇制)の由来を論じた第2章の中で、マッカーサーは、要するに天皇と天皇制が、占領統治の不可欠の手段であるとの認識に立って、これを温存することを模索していたが、幣原からの戦争放棄・戦力不保持の提案を受けて、これを採択することにより象徴天皇制を憲法に規定するとの決断をしたことを明らかにした。マッカーサーこそ、戦争放棄・戦力不保持代償説の本家本元である。さらには、「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)で、マッカーサーの決断を追認したアメリカ政府もこの考え方なのであろう。プラグマティズムの国にふさわしいというべきだろうか。

 もっとも幣原もこのような考えを口にしたことがある。平野文書に見る次の問答を見られたい。

問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、(略)、豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。

 
 しかし、この問答の直前に、次の問答があることを見落としてはならない。

問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。

答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰してしまうことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。
 そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

 
 幣原は、戦争放棄・戦力不保持は、幣原自身がかねてからの考えを深めたもので、天皇制の問題とは無関係に、独自に追求してきたものであることを強調しているのである。 

 憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)の由来を論じた第1章で、私は、次のように要約した。

 戦後の民衆レベルでの戦争と軍への嫌悪の情と、平和の到来を歓迎し、二度と戦争を引き起こさせたくないという心情が、平和主義国建設の勅語やGHQが次々と打ち出す民主化指令を触媒として、無意識下において成長し、次第に戦争と軍備の放棄の意思へと化学変化を起こして行った。それは、民間憲法草案、幣原と昭和天皇のコラボによる「人間宣言」詔書、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談、政府における憲法問題調査委員会での軍事関条項削除の議論と試案作成、当時の憲法学の第一人者宮沢俊義の「転向と前進」などへとさまざまな形をとって、GHQ草案と政府の「憲法改正草案」へと流れ込んで行った。

 一方、憲法第1条(象徴天皇制)の由来を論じた第2章では、日本の指導層の天皇制維持にかけた執念、アメリカ政府の天皇制
に関する無定見、アメリカ軍部の戦術としての天皇制利用策、マッカーサーの占領統治のための天皇制利用論をつぶさに見た。

 敗戦、占領という激動期、そこでは未来への展望と過去への憧憬、前進と後退、変革・革新と安定・保守、進歩と反動、普遍と特殊、国際主義とナショナリズム、これらのあい反する方向性を持つベクトルが、まさに踵を接してせめぎ合っていたのである。

 上記のあい反するベクトルの前者が戦争放棄・戦力不保持であり、後者が象徴天皇制であった。この両者がともに日本国憲法に採択されたのはまさに対立物のせめぎ合いと統一という事物の属性を示す一事例である。プラグマチックな代償論では、こうした歴史のダイナミズムを表し得ていない。歴史はジグザグにしか進まないのだ。

                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その36

第3章 憲法第9条を考える

1 「菊と刀」のバーターの深層を読む

象徴天皇制は「日本人民の自由な意思」に従うもの―アメリカ政府の受容

 アメリカ政府は、天皇と天皇制の取り扱いについて、明確な政策指針を打ち出せないまま、マッカーサーとGHQに委ねてきた。尻尾が頭を振り回すような構図であった。しかし、いよいよそれに決着をつけるときがきたのである。

 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、下部作業部会である極東小委員会(SFE)において、ライシャワーを中心としてこの問題の検討が続けたきた。

 極東小委員会は、GHQ草案(マッカーサー草案)が日本政府に交付されたのに遅れること二週間、1946年2月28日に、「天皇制の取り扱いについて」と題する文書(SFE141)が作成し、親委員会に提出した。この文書は、そこでの討議を経て、4月11日、一部訂正のうえ承認されて「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)となった。

 それは次のように述べている。

・ 1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)ですでに実行されている政治改革との関連で、とくに天皇制改革として留意する点は次のとおりである。
(イ)大日本帝国憲法第1条、3条および4条を精神・文言両面で改正し、天皇は神聖、不可侵であるのではなく、憲法に従わねばならないことを明記すべきである。
(ロ)天皇の神聖と天皇への盲目的献身の意識を吹きこむために公立学校を利用してはならない。皇位の由来が神にあり、天皇が神であるといういかなる叙述も教科書から排除され、公立学校内にある奉安殿の御真影も撤去される。また天皇および御真影への強制的服従(敬礼)は禁止され、教育勅語を読む儀式は一切許されない。
(ハ)天皇を神秘のベールで包み普通の人間から隔離し、畏敬の念を起させる人にする極端な手段は許されない。

・ 天皇の神格を否定した1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」はたいへん結構である。天皇はもっと一般の日本人や外国人と自由に平等の立場で接触をはかり、「天皇の意思」が真にどの辺にあるかを示すべきである。しかし、最高司令官は、これらの天皇の行為が全く自発的になされていると日本の国民にとられるような影響力を行使すべきである。


 これにより、GHQ、マッカーサーの措置をすべてアメリカ政府にオーソライズされ、受容されたことになる。結局、落とし所は、ポツダム宣言第12項にあった「日本人民の自由なる意志に従って」、ということである。

 しかし、それは過去と断絶できない後ろ向きの意思であり、アジアや世界とつながりをもたない内向きの意思だったのであるが、勿論、同文書では、そんなことには触れられていない。

戦争放棄・戦力不保持の革新性

 「菊と刀」のもう一方の核心である戦争放棄・戦力不保持は、象徴天皇制とは逆に、戦争に明け暮れ、数えきれいない悲劇、惨劇の中から、過去と断絶し、過去を克服して、未来へつなげる前向きのベクトルを日本国憲法に埋め込むものであった。
 それだけではなく、これは、当時の国際法の最先端に立つ革新的条項でもあった。

 国際法上、戦争違法化にむけて動き出したのは、わずか100年ほど前、人類史上かつてない惨害をもたらした第一次世界大戦後のことである。第1次大戦は、一方で全世界の労働者の国際連帯を旗印に掲げたロシア革命を産み落とし、他方で国際連盟設立をもたらした。

 第一次大戦後の国際社会は、軍縮の実現をめざし、無差別戦争観・戦争自由の思想にピリオドを打ち、戦争違法化と戦争を仕掛けた国には国際連盟による制裁を科すという道が模索された。

注:国際連盟は、加盟国間に重大な紛争を生じたときは、国際裁判もしくは国際連盟において紛争解決の手続をとるべきことを義務づけ、その手続き進行中と結論が出されたのちは一定の場合に、戦争に訴えることを禁じた。これに違反した場合には、連盟加盟国に違反国に対し、制裁その他の措置をとるべきことを義務づけた。
 さらに1925年、英、仏、伯、伊、独5カ国間で締結されたロカルノ条約を経て、全世界規模で、戦争と武力行使を違法とし、禁止するパリ不戦条約が締結されたのは1928年のことであった。

注:1925年・ロカルノ条約は、ドイツ-フランス国境、ドイツ-ベルギー国境の現状維持と不可侵を、フランス・ドイツ・ベルギーが認め、イギリス・イタリアがそれを保障したラインラント条約を中心とするヨーロッパの地域的集団的安全保障条約である。ラインラント条約により、締約国は、あらゆる攻撃及び侵入の絶対的禁止、挑発にもとづかない侵略に対する被害国を支援する義務、国際紛争平和的解決の義務を約定した。

 ここではパリ不戦条約について見ておくこととする。
 
(パリ不戦条約)
 
第1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策の手段と しての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を問わず、平和的手段以外の 方法で処理または解決を求めないことを約束する。


 パリ不戦条約は、上記第1条に「国家間の紛争の解決のため」とか「国家政策の手段として」とかの語句があるところから、侵略戦争の放棄・禁止するのみで自衛戦争は放棄・禁止されていないと理解するのが一般的のようだ。
 しかし上記第2条を読めばことは明白である。全ての争議または紛争を、性質、原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないとされているではないか。従って、パリ不戦条約は、全ての戦争を放棄・禁止するものなのである。

 ところが、締約諸国は、不戦条約批准に際し、「自衛権の行使を留保する」との趣旨を明示した交換公文を差し入れ、「自衛権の行使を放棄しない」との条件で批准をしていたのである。このために、締約諸国は、勝手に、自衛のという名分さえ立つならば、戦争や武力行使ができるという解釈をとっていたのである(田岡良一「国際法上の自衛権」勁草書房157頁以下参照)。

 もっとも締約諸国が交換公文で留保した自衛権とは、パリ不戦条約を主導したケロッグ米国務長官により、「自国領域を攻撃又は侵入から守る自由」と定義されている(1928年6月23日付公文。森肇志『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』東京大学出版会146頁以下参照)ので、本来は、歯止めがある筈であったが、これさえも無視しさる大国の横暴が大手を振って通用してしまった。

 たとえばイギリスは、交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記していた(当時のオースティン=チェンバレン外相の名前をとって「チェンバレン・ドクトリン」と呼ばれる。)。

 また我が国は、満蒙の特殊権益を標榜し、それを守ることも自衛権の行使だとして戦争、武力行使の違法化、禁止を完全に無視するかのような主張をしていた。

 やがてドイツ、イタリアは、それにわが国は行動でこのことを示した。

 かくしてパリ不戦条約も、第一次世界大戦をはるかに上回る惨禍を人類にもたらした第二次世界大戦を防ぐことができなかった。その第二次世界大戦が終結した今、世界は、まさに転機を迎え、国際連盟とパリ不戦条約の失敗を繰り返さないために、普遍的国際組織国際連合を設立し、恒久平和への道を模索していた。

 そのようなとき、我が国が、戦争放棄・戦力不保持を採択したことは、世界の人々に未来を切り開く呼びかけともなる出来事であった。

                                    (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その35

第3章 憲法第9条を考える

1 「菊と刀」のバーターの深層を読む

象徴天皇制は先祖返りである―日本の指導層の受容

 「菊と刀」の一方の核心・象徴天皇制は、なんといっても戦前日本の統治システムと国定思想との連続性を有し、その延長線上に位置づけられる。

 当時の日本の指導層の主流派からすれば、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ」とポツダム宣言受諾に条件を付し、8月15日の玉音放送でも「茲ニ国体ヲ護持シ得テ」と天皇も念を押した「天皇大権」の保持は、必死の願望であり、1946年2月8日、政府・憲法調査委員会(松本委員会)が、「憲法改正要綱」をGHQに提出するまで、それを墨守し続けていた。しかし、おそらく天皇自身も含め、当時の日本の指導層の中でも国際情勢を正しく見ていた人たちは、そのようなことは夢のまた夢であることはわかっていた筈である。

 そもそも「大権を有する天皇」なるものは、歴史上特殊の状況の下で、明治政府がつくりあげた天皇の歴史の中でも特異なものであった。

 幕末の危機・動乱の時代、光格天皇とその孫孝明天皇が、天照大神、神武天皇につらなる強烈な皇統意識を前面に押し出し、古代の神事と朝廷儀礼、格式を再興させ、日本書紀をはじめとする六国史などの学習を通じて、保守反動のエトスを広めた。民衆レベルでは、幕府の権威が崩れつつあるとき、これにかわるものとして、この古代以来万世一系とされる天皇に新たな権威を求めた。天皇は、神事と朝廷儀礼により装飾された神的存在として崇敬され、民衆統合と動員の原動力となって行った。

 こうした中で、討幕派は、孝明天皇が夭折したあとを継いだ「幼沖の天子」明治天皇を、「玉」として握ることにより、幕府を倒し、維新政権を打ち立てることができた。
 以後、政権を担う討幕派は明治政府となり、弱体の権力基盤を強化するめに、「玉」としての天皇を最大限利用することになる。

 その手法は、民衆レベルで進んでいた天皇は神的存在なる虚構を一層推し進め、制度化することであった。

 明治初年以来、明治政府は、国家神道の確立、普及に腐心し、その制度化を図ってきた。1870年(明治3年)には大教宣布の詔を発し、神道を国教とすることを宣言、宮中神事を国民的神事とすることにより、民衆に天皇崇拝の心情を植え付けて行った。

 「近代日本を創った男」とも称される伊藤博文は、明治憲法制定にあたって、1888年5月、枢密院で、明治憲法案を審議した際、次のように述べた。

 「今憲法を制定せらるるにあたっては、先ず我国の機軸を求め我国の機軸は何なりやと云ふ事を確定せざるべからず。機軸なくして政治を人民の妄議に任す時は、政其統紀を失ひ、国家亦随て廃亡す。苟も国家が国家として生存し、人民統治せんとせば、宜く深く慮つて以て統治の効用を失はざらん事を期すべきなり。

 そもそも欧洲に於ては憲法政治の萌芽せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならず、又た宗教なる者ありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心之に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるべきものなし。

 佛教は一たび隆盛の勢いを張り上下の人心を繋ぎたるも、今日に至ては已に衰替に傾きたり。神道は祖宗の遺訓に基き之を祖述すとは雖、宗教として人心を帰向せしむるの力に乏し。我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ。」


 かくして、明治憲法は、天皇を現人神とする国家神道の基礎の上に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)と定め、統帥大権をはじめ各種の大権を定める条項をもうけ、荘厳にしていかめしい天皇制絶対主義国家を作り上げたのである。

 しかしながら、戦後まもなく、歴史学の大家津田左右吉博士は、創刊間もない雑誌「世界」編集部の求めに応じて、同誌1946年4月号に『建国の事情と万世一系の思想』なる論文を寄稿した。これは歴史をひもとき、本来の天皇像を明らかにしようとするものであった。その一部を要約すると以下の如くである。

 「6世紀以後においても、天皇は、原則として政治に局にはあたらず、いわゆる親政が行われたのは例外的事象であった。摂関、幕府などの権家の威勢は永続せず、やがて没落しても、政治の局には立たない皇室は永続してきた。皇室は権家に対して精神的権威を持ち、家長である天皇の保有する皇位の永久性を確立した。承久、建武の覇権獲得の動きは例外かつ一時のできごとであった。
 時代が下り、皇室が不動の地位を得た事情のいくつかは消滅し、天皇は、実際政治から遠ざかり、権家との関係ではむしろ弱者の位置に置かれることになったが、精神的権威として崇敬は、民衆の間でむしろ高まった。
 明治維新は、幕府から政治的権力を奪い、天皇に権力を移し、天皇親政を目指した運動であった。幕府と封建諸侯が消滅すると、立憲政体により天皇親政をむしろ抑制しようという考え方も生じたが、藩閥は、逆に天皇を国民の上に君臨する絶対的権力者とし、かつこれまで権家が保持していた軍事の権を、一般国務に優越するものとして天皇に帰属せしめた。国民は、天皇に親愛の情を抱くよりは、その権力と威厳に服従するように仕向けられた。学校教育の場でも、万世一系の天皇を戴く国体の尊厳が教え込まれた。しかし、国民の間には、なおも天皇を精神的権威として見、天皇に対する崇敬の念、親愛の情の表出が見られたが、昭和に至り、軍部及びそれに追随する官僚がそれをも押さえ込み、現代人の知性に適合しない極端な思想を強制した。
 敗戦により、戦争の艱難辛苦を天皇に帰せしめ、天皇制廃止を主張する者が生じている。天皇の存在は民主主義と相反するとの主張もある。しかし、天皇は国民的結合の中心であり、国民的精神の生きた象徴である。」


 津田は、新生日本の言論界をリードしようと意気ごんで創刊されたばかりの雑誌『世界』でこのような論を述べ、象徴天皇制は、明治政府によって与えられた特異な姿態をかなぐりすてて、先祖返りをしたに過ぎず、これを支持することを宣命したのである。戦前、その主著である『神代史の研究』、『古事記及び日本書紀の研究』、『日本上代史研究』及び『上代日本の社会及び思想』の4冊の著作が皇室の尊厳を冒涜するものとして発禁処分を受け、出版法違反で弾圧された経験をもつ津田のこの主張は、重いものがあった。

 そういえばかの平野文書の中で、「この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。」と述べていた。

 象徴天皇制は、当時の日本の指導層からも受容可能な制度であり、過去との連続性を有する後ろ向きのベクトルとして日本国憲法に埋め込まれたものであったと言ってよいだろう。やがてこのことは、第90帝国議会における「国体論議」の中に形をとって表れ、また戦後の昭和天皇や政府指導層の中の戦前と変わらぬ行動で示されることになる。

                             (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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