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日本と朝鮮の関係

 平成天皇は、歴史に謙虚なお方である。そしてアジア諸国との平和的関係が維持されるように、政治への関与を疑われない程度に抑制しつつ、極めて適切な発言をしている。

 1990年5月24日、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の訪日の際に催された宮中晩餐(ばんさん)会の席で、盧大統領に、「韓国と相当なゆかりがあるように感じます」と語りかけ、そのあと「私どもの家系を見ると、母方に韓国系の人物がいるようです」と続けた。

 2001年12月23日の誕生日の記者会見で、「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されている。韓国から移住した人々や招聘された人々によってさまざまな文化や技術が伝えられた」、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じている」、「武寧王は日本との関係が深く、この時に五経博士が代々、日本に招聘されるようになった」、「武寧王の子・聖明王は日本に仏教を伝えたことで知られている」などとし、宮内庁楽部の楽士の中には当時の移住者の子孫で、代々、楽士を務め、今も折々に雅楽を演奏している人がいる」等、縷々詳細な歴史認識を披瀝した。

 古代、わが国と朝鮮半島との政治的、経済的、文化的交流は濃密であり、当然のことながら人的往来も頻繁であった。そのことは日本書紀の記述をざった見ればおおむね了解できるところである。日本古代史の研究者・東北大学名誉教授関晃氏は、名著「帰化人 古代の政治・経済・文化を語る」(講談社学術文庫)のはしがきで、「古代の帰化人は、われわれの祖先だということ、日本の古代社会を形成したのは主に彼ら帰化人の力だったということ、この二つの事実が、とくに本書ではっきりさせたかったことである。」と述べている。同書は、見事に、中国大陸、朝鮮半島からの帰化人、とりわけ後者こそが、われわれの祖先であり、わが国古代国家形成の中心を担ったことを、論証しきっている。現代日本人必読の書であると言ってよい。

 平成天皇の発言は、むしろ控え目と言ってもよいほどである。これを口汚く非難する右派系の人たち、民族主義系の人たちには、少しは勉強せよというほかはない。

 ところでわが国と朝鮮との関係は、モンゴルの軍門に降り、その属国とされた高麗が、モンゴルに使役され、モンゴル軍とともにわが国に来襲した文永、弘安の役を除いて、朝鮮が、わが国に武力行使をしたことはない。一方、わが国が、朝鮮に対して武力行使をしたことは古代にもあるし、戦国時代末にもあった。明治以後の歴史はその拡大再生産である。また中世においては倭寇なる武装集団が朝鮮半島沿岸を荒らしまわっている。
 
 寺島実郎氏は、世界4月号で、「朝鮮通信使」に触れ、江戸期の日朝関係を書いておられる。小論であるが、実に、考えさせられる一文である。

 李氏朝鮮が建国されたのは1392年のこと。それより1世紀余り前、高麗は、1259年にモンゴルに屈服し、次第にモンゴル化が進行する。モンゴルによる高麗王朝への血の注入である。第27代忠粛王になると四分の三をモンゴル人の血がしめることになってしまった。文永、弘安の役で高麗軍がモンゴル軍とともにわが国に来襲したのはそのような高麗のモンゴル化の過程における出来事であった。これに対し、倭寇の鎮圧にあたっていた高麗の将軍李成桂が、モンゴル化した高麗王朝を打倒し、李氏朝鮮を建国したのであった。
 その李氏朝鮮に、わが豊臣秀吉は二度にわたり出兵した(文禄、慶長の役)。しかし、朝鮮軍民の激しい抵抗で苦戦を強いられた。秀吉が、野望は遂げられないまま死亡すると、もともと朝鮮出兵には批判的であったかった徳川家康が、前田利家とともに撤兵を主導し、完了した。その間、実に、5万人ともいわれる捕虜が、わが国に連行されている。
 関が原の勝利により、事実上、徳川政権が樹立されると、家康は、直ちに日朝関係の緊張緩和に手をつけた。その結果、1607年に国交回復され、朝鮮使節が来訪する。朝鮮使節は、「通信使」ではなく、「回答兼刷還使」と呼称されている。わが国の国書への回答及び刷還、即ち捕虜取り戻しを任務とする使節であった。この使節は、1400人もの捕虜を連れ帰っている。2回目の朝鮮使節が来訪したのが1617年。このときの使節も321人の捕虜を連れ帰っている。文字通り「通信使」として純粋な交流のための使節が送られたのは第4回、1636年のことであった。朝鮮使節が「通信使」として訪問するようになった後、1719年、8回目の使節訪問時には、方広寺大仏前招宴拒否事件が起こる。方広寺の大仏は、秀吉が建立したものだが、慶長大地震で倒壊し、その後家康の深謀遠慮で、秀頼に再建させたものであった。そのそばには、朝鮮出兵時に朝鮮軍民の鼻や耳をそいで塩漬けし、持ち帰って埋めたという耳塚がある。「朝鮮通信使」は、その大仏前で催される歓迎宴への出席を拒んだのである。耳塚を幕で遮蔽するなどしてなんとかその場を取り繕われたが、1748年、10回目の使節訪問時より、方広寺大仏前での歓迎宴は取りやめになっている。文禄、慶長の役(朝鮮側は「壬辰倭乱」と呼んでいる。)は、実に、100年以上にもわたって恨みを残したことになる。
 徳川政権期、朝鮮からの使節は、12回目、1811年の「通信使」をもって終了する。「通信使」来訪は、鎖国体制をとる徳川政権において、数少ない異国文化交流の機会であり、朝鮮とわが国の友好関係を示す国際的なイベントであった。また徳川政権下の鎖国体制にあっても、対馬藩を通じて朝鮮との交易が細々とではあるが続けられたことは特筆されてよい。

 以上、私見をまじえた寺島氏の論文のあらすじである。その後、王政復古を果たし、天皇専制体制構築を急いでいた維新政府は、1868年、朝鮮に対し、維新変革を通告し、天皇の名で、国交を求めた国書を送ったが、朝鮮は、その文書中に、「皇」及び「勅」なる文言が使用されており、清国と冊封体制をとり、清国皇帝に臣従する李王朝の朝鮮としては受け入れがたいものであるとの理由で、受理を拒んだ。これは、あるいは朝鮮は、徳川政権に親近感をもっていたことを示しているのかもしれない。
 その朝鮮の対応が無礼である、朝鮮撃つべしという短絡的な反発が木戸孝允ら維新政府高官の中に生じたことがそもそもの始まりで、その後、不平士族対策の征韓論へと高まり、、朝鮮への干渉、武力行使に突き進み、領土的野望となる。朝鮮侵略は、些細な出来事から始まり、これにいんねんをつけ、ついでわが国の矛盾のはけ口として利用し、さらには領土的野望へと拡大、深化をして行ったという歴史であった。そこには一遍の理もないと思うがどうであろうか。 
                                                                (了)
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Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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