大杉栄虐殺後の甘粕正彦大尉

 以下は戦前史のこぼれ話である。

 関東大震災後の混乱の中、信じ難いような血なまぐさい事件が発生した。一つは、デマ情報に踊らされた自警団と一部軍人の手で多数の朝鮮人・中国人が相次いで殺された事件、二つには、陸軍憲兵隊らの手で、労働組合活動家や社会主義者が虐殺された事件。アナーキスト大杉栄が妻・伊藤野枝および甥・橘宗一(6歳)とともに麹町憲兵隊司令部で虐殺された事件はそのうちの一つである。時に1923年9月16日。首謀者でかつ実行行為の重要部分を自ら行ったのは分隊長甘粕正彦大尉であった。

 大杉は、名古屋陸軍幼年学校在学中に男色をとがめられ退学処分、軍人への道を断たれた経歴を有している。犯人の甘粕も、実は、6年ほど後輩だが、同じ陸軍幼年学校を卒業している。奇妙な因縁話である。

 甘粕は、軍法会議にかけられ、懲役10年の刑を宣告された。これはとても3人もの人を殺害した者に対する刑とは考えられないほどに寛大な判決である。しかも実際にはその刑期も、2年間服役しただけで仮釈放され出獄という超特典付であった。さらに出獄後、甘粕は、1927年7月、皆があこがれるフランスに渡り、1929年2月、帰国までの1年半ほどの間滞在した。もっともフランスでの生活は決して優雅でも華やかでもなく、人との交際を殆ど断った暗いものだったようだ。

 甘粕は、帰国後ほどなく、1929年7月には満州に渡り、1945年8月20日、同地で服毒自殺を遂げるまでの生涯をそこで過ごした。享年54歳。

 満州で甘粕がしたことは、一つは、関東軍の特務機関として働き、満州事変の拡大に一役も二役を買ったこと、もう一つは満州映画協会(満映)の理事長として手腕を発揮、「五族協和」なる満州国建国の「理想」を、映画づくりを通じて、満州国の人達に浸透させようとしたこと、であった。

 甘粕が理事長を勤めた満映は、実に不思議な空間であった。内地で表現の場を失い、偽装を含む転向左翼演劇人をその経歴を知りつつ受け入れたばかりか、内地では考えられないほどに自由に映画を作らせているのである。それはちょうど南満州鉄道(満鉄)調査部が、偽装も含む転向左翼知識人を相当数雇い入れ、彼らがその能力を発揮する場を与えられていたのと同様であったと言える。

 山口淑子・藤原作弥「李香蘭―私の生涯」(新潮社・1987年)によると、「有為な人材登用も甘粕さんの功績だった。名監督といわれた進歩派の鈴木重吉氏、内田吐夢氏、科学映画畑の加藤泰氏。シナリオ作家の八木保太郎氏、松浦健郎氏。戦後、数々の受賞に輝く世界的カメラマンの杉山公平氏。変り種では六大学野球の慶応ピッチャーの浜崎真二氏(のちに阪急ブレーブス監督)がいるが、浜崎さんは満映社員のスポーツ振興のために招かれたのだった。大陸という土地は、甘粕さんのような右翼軍国主義体制からはみだした“満州浪人”を受け入れる新天地だったが、満鉄調査部とならび満映も、イデオロギーをこえた度量の広さで左翼陣営の芸術家を厚遇した。前記のほかに脚本家の原健一郎氏、巡回映画を担当した大塚有章氏。大塚氏は、共産党大森ギャング事件(銀行襲撃事件)に加わり10年の刑期を終えてから甘粕さんに庇護された。そして進歩的映画評論家の岩崎昶氏。」といった具合である。
 大塚有章氏は、あの河上肇博士の義弟。戦後、共産党に復帰したが、中国の文革時に離党した毛沢東主義者として知られている。

 甘粕の中にある絶対主義的天皇制を信奉する右翼思想と、弾圧された左翼を庇護し、彼らに自由を認めたこととがどう折り合いをつけられていたのであろうか。また彼の中で、大杉らの虐殺はどう位置づけられていたのであろうか。是非とも聞いてみたいところである。

                                     (了)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

ありがとうございます!

こんにちは。
新しい「ブロとも」リストから来ました!承諾、ありがとうございます。

甘粕大尉の一見相反する行動は興味深いですね。
大杉栄さん、その妻と甥を殺害した経緯は、すべて彼の一存でなされた事なのか、それとも上からの指示でなされた事なのか、知りたい所です:最終的に決断するのは本人なので、彼の責任に変わり有りませんが。。。
雰囲気的に似たような時代になりつつあり、どんどん窮屈になり、人の考え方も萎縮して来ているようで非常に気掛かりです。
プロフィール

深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR