琉球処分

 

 前回、戦後のわが国政府の沖縄の施政権放棄と沖縄県民切捨てを「第二の琉球処分」だと述べたが、今回は、元祖・琉球処分を顧みておくこととする。

 琉球王国は、明治維新まで、清国から冊封を受けるとともに、薩摩藩の事実上の支配を受けていた。維新政府は、これを曖昧な法的状態であると見なし、廃藩置県を断行した1871年8月ころから、その処置を検討し始めた。

 1872年5月、大蔵太輔(次官)井上馨は、琉球王国の処置に関する建議書を正院に提出した。見られるとおり琉球国王・尚泰を酋長と呼び、天皇の前に招致して譴責するなどと粗暴な言辞を弄し、露骨な皇権と版図の拡張、併合を建議している。

 「……従前曖昧ノ陋轍(ロウテツ)ヲ一掃シテ、改テ皇国ノ規模御拡張ノ御措置有之度(アリタク)……彼ノ酋長ヲ近ク闕下(ケッカ)ニ招致シ、其不臣ノ罪ヲ譴責……速ニ版籍ヲ収メ明ニ我所属ニ帰シ……」

注:当時の統治機構の中枢部は、正院、右院、左院から成っていた。正院は天皇臨席のもとに政務を統括する機関で、太政大臣と若干名の納言、参議により構成され、このもとに行政(司法を含む)を司る各省が分属した。左院は、参議が兼任する議長と正院が任命する議員によって構成され、正院の諮問に応じ、または左院自身の発議で「諸立法ノ事ヲ議スル」という立法機関である。右院は、行政部各省の長官及び次官の合議体で、正院の諮問もしくは各省の発議で法案を検討し、調整する機関である。

 正院は、上記建議を受けて、直ちに左院に諮問した。翌月である同年6月、左院は以下のように回答した。要するに、上記の建議書の文言を用いるなら従前どおりの「曖昧ノ陋轍」を、わが国の国家意思を明示しつつ維持するという姑息な考え方である。

・ 琉球国は、日本と清に両属しているが、清へは名目的服属、日本へは実体的服属である。
・ このような両属状態やめさせ、日本だけに服属させようとすると清との間に紛争をもたらすことになり、無益なことである。清には名を与え、日本は実をとればよい。
・ 琉球国王を琉球藩王とか華族にするのは異議がある。
・ 日本があらためて琉球王に封じ、かつ清からも冊封を受けることを許可すべきである。

 維新政府は、同年9月、左院の回答とは異なり、琉球王国を琉球藩とし、国王・尚泰を琉球藩王とし、華族に列せしめた。維新政府は、1874年7月、琉球藩を外務省管轄から内務省(時の内務卿は大久保利通であった。)管轄に移した。
大久保利通は、太政大臣三条実美にあてて、琉球藩に清との関係の廃絶を強制し、維新政府の包摂する意見書をやつぎばやに提出し、強引に維新政府の琉球政策を誘導して行った。

 維新政府は、1875年1月、琉球藩に対し、清との関係断絶、明治年号の使用などを命じ、大久保利通の腹心・松田道之を派遣して、次々と維新政府の意向に沿って改革を断行させようとした。しかし琉球藩支配層はこれに抵抗、藩王・尚泰はその後も清への朝貢を続けた。
 維新政府は、1876年7月、熊本鎮台分遣隊と警官を派遣、清への朝貢を実力阻止の挙に出たため、清からの強硬な抗議を受け、清との関係も悪化、松田を帰京させた。
 しかし、1879年1月、維新政府は、再度松田を送り込み、強硬措置に及ぼうとしたが、またも琉球藩支配層は抵抗、松田は、いったん引き揚げ、同年3月、軍隊380人余り、警官160人を率いて渡琉し、武力をもって琉球支配層の抵抗を抑え込み、藩王・尚泰を東京へ連行し、同年4月、琉球藩の廃止と沖縄県設置を強行した。

 この一連の維新政府の処置を、琉球処分と称するのであるが、ことの本質は、維新政府による琉球王国への不当な介入と力ずくの併合であった。今、私たちが沖縄問題を考えるとき、この厳然たる歴史的事実を看過してはならない。 (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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