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集団的自衛権は、戦前から自衛権の一種として認められていたとの謬論 ―チェンバレン・ドクトリンに関して―

(はじめに)

 私は、当ブログ上で、幾度となく集団的自衛権は、国連憲章制定過程において、諸国の思惑による妥協の産物として第51条に規定されるに至ったものであり、国際慣習法上の自衛権とは異なり、定義、目的、要件など不明確で怪しげな「権利」であること、これは国連のレーゾンデートルである個別国家の武力行使禁止と集団的安全保障体制を根底から覆すもので、国際法学においても例外かつ暫定的なものとして限定的解釈がなされ、もしくは立法論としてこれを廃止する提言がなされてきたこと、それにもかかわらず戦後国際紛争の数々において大国が自国の国益を守り、そのヘゲモニー、イデオロギーを強制するために、侵略と干渉の道具として濫用してきたことを縷々述べてきた。

 ところがこれに反する見解を述べる人もいる。たとえば本年9月15日参議院平安特別の中央公聴会で公述人として招致された坂元一哉氏である。彼は、次のように述べた。

 「集団的自衛権という言葉は、個別的自衛権という言葉と同じく、70年前、1945年にできた、国連憲章の中で初めて使われた言葉です。しかし、その考え方自体は、これも個別的自衛権と同じく、それ以前から存在しておりました。
 時間の関係で詳しくは申しませんが、たとえばイギリスは1928年、国際紛争解決の手段としての戦争を禁じた〔不戦条約〕を結ぶ際に、自衛権に関して留保をつけ、「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明確に述べております。
 国連憲章第51条が、『集団的自衛権も個別的自衛権も、どちらも国家固有の自衛権だ』という書きぶりになっておりますのも、この権利が、国連憲章ができる前から存在する、〔自衛のための権利〕だと認めているからではないでしょうか。」

 しかし、これは誤りである。以下、その理由を順次のべていくこととする。

(国際法上の自衛権前史)

 国際法上の自衛権の歴史は、実は意外と新しい。国際紛争の場で、自衛権をめぐるやりとりがはじめて取り交わされたのは、1837年に発生した有名なカロライン号事件においてである。カロライン号事件の概略を見とおこう。

 米国と英領カナダの境にあるナイアガラ川のカナダ領内にネイヴィ島というキナ臭い名前の島があった。1837年当時、そこを拠点として、カナダの独立を目指す独立派が武器をとって英国と戦っていた。その独立派に対し、米国人所有の船カロライン号が、ナイアガラ川の米国岸とネイヴィ島との間を往復し、人員、武器、物資を輸送していた。英国は、米国にその取り締まりを要求したが、はかばかしい効果がない。そこでカナダ提督指揮下の英軍は、米国ニューヨーク州シュロッサー港に停泊中のカロライン号を急襲し、火を放った上、ナイアガラの滝から落下させてしまった。
 当然、この事件は、英国と米国との間で、重要な外交案件となり、厳しい交渉が行われた。その過程で、米国務長官ウェブスターは、駐米英国公使フォスターに宛てた書簡で、「英国政府は、差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったことを示す必要がある」、「たとえ仮に米国領域への侵入がそのときの必要性よって容認されるとしても」、「非合理な、もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があり、それは、自衛の必要によって正当化される行為が、かかる必要性によって限界づけられ、明白にその範囲内にとどまるものでなければならないからである」と主張し、英国政府に、カロライン号急襲と米国領侵犯につき、自衛権の行使としての正当性の論証を求めた。

 ところでカロライン号事件は、現在の通念では、自衛権の行使と目されるような事案ではなく、また当時は無差別戦争観が支配していた時代あったから、英国の武力行使が自衛権として国際法に照らし正当なものかどうかが問われたわけではない。言ってみれば、外交上自衛権なる問題が取り上げられ、英国、米国の外交上の非難・応酬の対象となったに過ぎず、結局は、英国、米国とも、落としどころを得て、無事、落着をみた。
 しかし、上記ウェブスター書簡で述べられた「差し迫って圧倒的な自衛の必要があり、手段の選択の余地がなく、熟慮時間もなかったこと」という定式は、後に国際法上の自衛権が確立する時代において、国際法学者によって、ウェブスター・フォーミュラと命名され、自衛権の要件として注目されることとなる。わが国における従来の政府見解である「自衛権行使三要件」の源流でもある。

(国際法上の自衛権の確立)

 19世紀に勃興した帝国主義的領土分割の時代は、やがて20世紀における二度にわたる世界大戦という疾風怒濤期を経て終息期に向かう。さしずめ今はその最後の時期にさしかかっていると言ってよいのかもしれない。その大きな時代の移り変わりの中で、戦争と平和という人類史的テーマも様変わりした。かつて例をみない惨害をもたらした第一次世界大戦がエポックを画した。全世界を覆う平和運動の波とロシア革命を先頭とする変革の嵐。やがて国際連盟が設立され、国際社会あげて、軍縮の実現をめざし、無差別戦争観・戦争自由の思想にピリオドを打ち、戦争と武力行使を違法とし、禁止し、それに反する行動をとった国には国際連盟による制裁を科すという道が模索された。ヨーロッパの英、仏、伯、伊、独5カ国間のロカルノ条約を経て、1928年、とにもかくにも戦争と武力行使を違法とし、禁止するパリ不戦条約が締結された。

 こうして国際社会において戦争と武力行使を違法とし、禁止することが公認されるようになる反面、その例外として許容されるべき戦争と武力行使が浮上する。それが自衛権の行使としての戦争と武力行使である。
 国際法学者らは、上述したように百年も昔のカロライン号事件におけるウェブスター書簡中で示されたウェブスター・フォーミュラに息を吹き込み、次の三点に集約・整理し、これを自衛権の定義、自衛権の行使要件とした。

①急迫不正の侵害の存在
②他に取り得る方法がないこと(必要性)
③必要最小限度の範囲にとどまる措置であること(均衡性)

 わが国でも、横田喜三郎博士は、既に戦前において、「自衛権は、国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力をもって防衛する行為である。この実力行為は、右の危害をさけるためにやむを得ない行為でなくてはならない。」として、具体的に「第一に、急迫または現実の不正な危害でなければならない。(以下略)」、「第二に、国家または国民に対する危害がなければならない。(以下略)」、「第三に、危害に対する防衛の行為は、危害を防止するために、やむを得ないものでなければならない。(以下略)」と説いていた(「国際法」上巻・有斐閣 1933年)。

 これらは、わが国の従来の政府見解「自衛権行使三要件」と同じであり、集団的自衛権とは縁もゆかりもないことは明らかである。

(パリ不戦条約)
 
 パリ不戦条約は本文3か条のうち、第3条は手続規定であるから、正味は、第1条、第2条のみである。

第1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策の手段としての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。

第2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないことを約束する。

 第1条には「国家間の紛争の解決のため」とか「国家政策の手段として」とかの語句があり、戦争放棄は条件付のようにも読める。同条においては侵略戦争の放棄をしているだけであって、自衛戦争は放棄されていないと読み取る余地が生じる。
 しかし第2条は単純明瞭である。全ての争議または紛争を、性質、原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないとある。そこでわかりにくい第1条を第2条とともに解釈すると全ての戦争を放棄する趣旨だと解さざるを得ない。

 パリ不戦条約第1条だけを取り出して、同条約の本旨を自衛のための戦争を留保し、侵略戦争の放棄を約したものと解し、そこから「国際紛争を解決する手段として」というわが憲法9条1項の用語例を、自衛のための戦争、武力の行使を排除する趣旨だという読み方が人口に膾炙しているが、どうやらそれは間違いのようである。
 もっとも、実際問題として、パリ不戦条約では自衛戦争(あるいは自衛のための武力行使)は放棄されていないものとして取り扱われてきた。ではどうしてそうなるのか。
 実は、各国は、不戦条約批准に際し、「自衛権の行使を留保する」との趣旨を明示した交換公文を取り交わしていたのだ。つまり各国は、「自衛権の行使を放棄しない」との条件で批准をしていたから、不戦条約では自衛戦争(もしくは自衛のための武力行使)は放棄されていないということになるというカラクリになっていたのである(田岡良一「国際法上の自衛権」勁草書房157頁以下参照)。

 ここで各国が交換公文で留保した自衛権は、各国各様の主張にもかかわらず、パリ不戦条約を主導したケロッグ米国務長官により、「自国領域を攻撃又は侵入から守る自由」と定義されている(1928年6月23日付公文。森肇志『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』東京大学出版会146頁以下参照)。これは上述した国際法上の自衛権に一致するものである。

(チェンバレン・ドクトリン)

 さて、上述のとおり、坂元氏は、英国がパリ不戦条約調印に際し差し入れた交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記されていることをあげて、集団的自衛権の考え方が既にこのころには存在していたと主張したのであった。

 確かに、英国が、パリ不戦条約調印に際し、交換した公文に上記の趣旨が明記されていた。これはチェンバレン・ドクトリンと呼ばれているものだ。

 これを集団的自衛権の先例とする著名な国際法学者もいる(田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』)。坂元氏の上記主張は、これに追随し、自己流にふくらましているのである。

 しかし、これはあくまでも英国政府の政治的マニフェストに過ぎない。英国は19世紀末葉までは世界の海を制覇し、パックス・ブリタニカと称せられた帝国主義国であった。時改まって1920年代、その勢力は斜陽となっていた。しかし、斜陽となった帝国主義国家も、否、斜陽となったればこそ一層というべきであろう、帝国の権益を固守しようとはかるものである。そのような帝国主義の真髄を示す政治的マニフェストが、帝国主義を拒絶し、戦争と武力行使を違法化し、禁止をするための条約において受容されることはあり得ない。事実、前記ケロッグ国務長官の公文によりそのことは確認されている。

 英国だけではない。帝国主義列強の末席に連なるごとく参入したわが大日本帝国も若いだけに鼻息は荒かった。時まさに幣原協調外交から田中儀一強権外交に席を譲った頃であった。わが大日本帝国は、満蒙の特殊権益なる特異な主張をし、それを守ることも自衛権の行使だとして戦争、武力行使の違法化、禁止を無効としてしまうような自衛権概念を呈示した。これはパリ不戦条約の交換公文には明記されていないが、わが国が国際社会に発した公然たるメッセージであった。しかし、だからといって、そのような特異な自衛権概念が自衛権には含まれるなどとは誰もいわないだろう。チェンバレン・ドクトリンも満蒙の特殊権益論も自衛権の意義、目的、要件になんらの変更をもたらしてはいない。

(まとめ)

 以上述べたところから、チェンバレン・ドクトリンに飛びついて、集団的自衛権は自衛権の一種として存在していたと言うのは誤りであり、デマゴギーに類する主張であることがお分かり頂けたことと思う。それはあくまでも帝国主義国家・英国の特殊な主張であり、国際法上の自衛権の意義、目的、要件になんらの影響ももたらすものではない。
 坂元氏は、国連憲章51条の書きぶりにも言及するが、それは上述の如く歪んだ眼から見た憶測に過ぎないから、これ以上言葉を費やす必要はなかろう。
                         (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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