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緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(5)

現代立憲主義

 「王様も憲法に縛られる」という意味での立憲主義は古典的立憲主義である。イギリスでは、17世紀末には、既にその段階を突き抜けていた。
 200年も遅れて、我が国は、その背中をはるか後方からようやく望見できるところにたどりついたが、それもつかの間、「王様」は、神となって、憲法を超越してしまった。絶対的天皇制とファシズムが猛威をふるい、国民は、独裁のくびきに呻吟し、未曾有の犠牲を被った。

 一方イギリスの経験は、ホッブス、ロック、ルソーらの思想によって豊かに潤色され、アメリカとフランスの貴重な経験に引き継がれて、人類普遍の共有財産に高められた。

アメリカ合衆国独立宣言(抜粋)

我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。
すべての人間は平等につくられている。
創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。
これらの権利を確実なものとするために、人は政府という機関をもつ。その正当な権力は被統治者の同意に基づいている。
いかなる形態であれ政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには、それを改めまたは廃止し、新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利である。

フランス人権宣言 (抜粋)

第1条(自由・権利の平等) 人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。
第3条(国民主権) すべての主権の淵源(えんげん=みなもと)は、本質的に国民にある。いかなる団体も、いかなる個人も、国民から明示的に発しない権威を行使することはできない。
第16条(権利の保障と権力分立) 権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。

 
 自由、平等、個人の尊厳と幸福追求との権利、これらは人が生まれながらに有する基本的人権である。国家は、このような基本的人権の実現に奉仕するために構成され、国家権力はこのような基本的人権を有する人民の意思に帰属し、かつ立法、行政、司法の三権に分割される。これが近代憲法の核心である。
 「王様も憲法に縛られる」から「『国民主権の下で、基本的人権が保障され、かつ三権分立が確保された』近代憲法に国家権力が縛られる」へ。安倍首相においては、始めの段階で時間が止まってしまったが、立憲主義は、より高みに駆け上がった。これを近代立憲主義と呼ぶことにしよう。

 しかし、その後がある。近代憲法の担い手である市民が圧倒的多数を占める労働者、農民にまでおり下るとき、そこに見えてくるものは、日々の生活にさえ不安を覚え、一旦、戦争ともなれば戦地に動員され、殺し・殺される悲惨な現実であった。そうした労働者・農民が政治の舞台に登場することにより、近代憲法は重要な修正を迫られた。
 一つには基本的人権に新たなものを取り入れ、より高次のものにレベルアップした。新たに取り入れられた基本的人権とは全ての人に人たるに値する生存を保障するための社会権といわれるものである。二つには戦争・武力行使の自由を否定し、これを違法とする平和主義の採択である。これがワイマール憲法から日本国憲法につらなる現代憲法である。
 我が国は、日本国憲法の制定により劇的に転換を遂げた。日本国憲法が保障する基本的人権は、自由権(及び平等権)に加えて社会権が拡充され、第9条において恒久平和主義を定められている。それだけではなく前文及び第9条・第13条・25条からは基本的人権の最も基底をなす権利ともいうべき平和の内に生存する権利(平和的生存権)が導き出される。

 国家権力は、そのような現代憲法に拘束され、その実現に奉仕しなければならない。これが現代立憲主義である。
(続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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