緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(14)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その2)

 戒厳令を「戦時若しくは事変」以外の事態に目的外使用した事例を、主に歴史家の大江志乃夫の説くところ(『戒厳令』岩波新書)に依拠しつつ、ざっと概観してみることとする。

日比谷焼き討ち事件

 日露戦争は、ロシア側の戦没42,000人余り、負傷146,000人余りに対し、日本側は戦没88,000人余り、負傷153,000人余り、と、その犠牲者の数において、日本側がロシア側をはるかに凌駕しており、日本の大苦戦であったことは、歴史を学んだ者なら誰もが知っていることである。総じて言えば、ロシア側の革命情勢の進展とイギリスの支援、アメリカのセオドア・ルーズベルトの仲立ちによって、わが国はようやくにして薄氷の上の勝利を得たと見るのが穏当なところであろう。ポーツマス講和条約では、満州と朝鮮からのロシアの撤退、満州の権益と南樺太の譲渡が謳われたものの無賠償であった。
 そのポーツマス講和条約が成立したのは、日本時間で1905年9月5日15時47分。その報が伝わるや、連日大勝利の虚報に踊らされた民衆は、怒って街頭に繰り出し、日比谷公園に集結した。これに対して、警官たちが抜刀して解散させようとしたことから、群衆の一部が暴徒化し、内務大臣官邸が襲い、交番などを焼き討ちした。東京市中の約7割の交番が焼き討ちされ、死者17名に及んだというから、その激しさは推して知るべしである。
 政府は、翌6日、東京市中と府下5郡に戒厳令を適用する緊急勅令を発した。諮問を受けた枢密院会議では、議論が紛糾、反対論が続出し、実に7対6の僅差で、辛うじて承認であった。反対論は警察力で鎮圧すべしというものであり、賛成論も軍隊を治安のために出動させることにはためらいがあった由である。
 戒厳司令官の命により各要所に展開した軍隊は、東京市内と府下5郡を軍事制圧し、その下で警視庁は検問所を設置、市民を監視し、郵便物も無差別に検閲された。かくして暴動はまたたく間に鎮圧されたが、戒厳が解除されたのは、実に約3カ月後の11月29日のことであった。
 軍隊の治安出動は、これを嚆矢とする。

関東大震災

 1923年9月1日、関東地方を襲った関東大震災において、同月3日、関東一円に行政戒厳が発令され、戒厳司令官が治安に関する全ての権限を掌握し、傘下の武装部隊が展開した。戒厳発令は、朝鮮総督府において総監を務めた水野錬太郎内相と同じく朝鮮総督府において内務局長を務めた赤池濃(あつし)警視総監が、主導したと言われている。
 両名は、1919年3月1日事件後に、朝鮮総督府にあって、産米増殖計画を推進し、朝鮮農民から土地を取り上げ、彼らを流浪の民として日本内地の底辺労働者として大量流入させた。両名は朝鮮民衆の怒りを肌身で感じていた筈である。特に水野は、朝鮮総督府に赴任したとき、斎藤実総督とともに爆弾テロの攻撃を受けており、朝鮮民衆に対する畏怖心は如何ともし難いものがあったであろう。
 戒厳令の下で、朝鮮人の暴行略奪、朝鮮人による暴動、さらには主義者による破壊活動などとの流言飛語が飛び交い、憲兵隊によって組織された自警団や或いは憲兵隊自らの手で、朝鮮人、労働運動家、社会主義者や無政府主義者を虐殺する凄惨な事件が各地に頻発した。
 内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)よると、朝鮮人死亡231人・重軽傷43人、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59人、重軽傷43人であったとされるが、それも全容の一部に過ぎないだろう。
 この戒厳が解除されたのは、同年11月15日のことであった。
(この項未完)
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深草 徹

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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