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緊急事態条項と憲法9条・立憲主義(16)

緊急事態条項は、危険、有害かつ不必要である(その4)
  
 諸外国でも緊急事態条項の悪用や濫用の事例は枚挙にいとまがないほどである。以下に掲げるのはそのほんの一部に過ぎない。

ドイツの場合・・・ナチス政権登場の前夜
 ドイツでは、第一次大戦の敗北により帝政が崩壊し、政治の民主化が急速に進行し、1919年、当時、世界で最も民主的と評価されたワイマール憲法が制定された。
 同憲法54条によると宰相も各大臣も議会の不信任決議があった時は辞任しなければならないとされており、議会の多数派の信任を得て内閣を構成する議院内閣制を志向していた。しかし他方で、第53条では、大統領には憲法上は何ら制約のない宰相及び各大臣の任免権が認められていた。つまり大統領内閣制である。このためにワイマール憲法下の内閣は、二人の主人を持つと評されていた。
 かくして元来、内閣の政治的基盤は不安定であった上に、議会が不信任決議をするにあたって、次の宰相や各大臣を選出することは義務づけられておらず、政争の果てに無責任な不信任決議が繰り返された。
 ワイマール憲法の定める統治機構は、政治的混乱と動揺をもたらす構造的欠陥を孕んでいたのである。

注:現在のドイツ憲法(ボン基本法)は以下のようい規定している。

第67条(不信任投票)
① 連邦議会が連邦宰相に対して不信任を表明できるのは、その議員の過半数をもって後任を選出するとともに、連邦大統領に対しては連邦宰相の否認を要請した場合に限られる。連邦大統領は、この罷免要請に応じるとともに、被選出者に対する任命を行わなければならない。
② 略

 議院内閣制に純化するとともに、議会が宰相を不信任する場合には次の宰相選出を条件とことしたのである。後者を、聞きなれない言葉であるが「建設的不信任制度」と呼んでいる。
 ボン基本法は、ワイマール憲法の上記の欠陥を除去しようとしたのである。
 ドイツ国法学の大家カール・シュミットは、当初はナチス政権寄りの姿勢をとりナチスに重用さたが、その後、政権から疎んじられることになった。そのカール・シュミットは、戦後、ナチスが猛威を振るった時期、自分は暇だったので、ナチス台頭の原因に思いめぐらす十分な時間があったと述懐している。彼の思いめぐらしたことが曲折を経て、ボン基本法に採択されたのであろう。


 ドイツでは、ワイマール憲法が制定された1919年からヒットラーが首相に就任する1933年1月まで、議会においては安定多数の政治勢力が形成されず、首相や各大臣に対する不信任決議が度々なされては、後任首相が議会で選任できず、前内閣が暫定内閣として事務処理を続けるか、政治的空白となるか、大統領の任免権に基づいて新内閣を組閣するか、いずれかで推移してきた。当然のことながら次第に議会も内閣も弱体化し、世界恐慌期にあっても積極策が打ち出せず、国民の不満が高まって行った。
 そうした国民の不満の高まりがナチス躍進の原動力となったである。
 もっとも、1932年7月の総選挙で、総議席608のうち230を獲得、第一党となった時が、本当はナチスが自由な選挙で国民の支持を得たピークであった。その4ヶ月後、同年11月の総選挙では、196に議席を後退させてしまった。同時に、ようやく世界恐慌からの脱出の兆候もようやく見え始め、今後、ナチスが伸びる要素はなくなりつつあった。しかし、そのときナチスにとっては思わぬ救世主が現れた。
 保守政党の実力者フランツ・フォン・パーペンなる野心家が画策し、ヒンデンブルグ大統領にヒットラーを首相に任命させたのである。まさにパーペンとヒンデンブルグは、坂道を転がり始める寸前に、ナチスを助け起こしてしまったのであり、ナチスにあってプロパガンダの天才と言われたゲッペルスも、この事態を評して、「偉大な奇跡が起きた」と日記に記しているほどである。
(続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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