戦前秘密保全法制 (7)

(3)再び時代の動き

 1937年7月7日、盧溝橋事件を経て、我が国は、本格的に対中国侵略戦争に踏み込んで行ったことは前述した。間もなく戦前秘密保全法制の三本柱とされる三法、上述の軍機保護法に加えて、軍用資源秘密保護法及び国防保安法が制定され、完結を見ることになるのであるが、その説明をする前に、時代の動きを駆け足で見て行くこととしよう。

 盧溝橋事件そのものは、北京郊外の盧溝橋付近において天津駐屯軍の一部隊が夜間演習をしていたところ、同じように近くで演習していた中国国民政府軍側から数発の銃弾が撃ち込まれたという、何だか謎めいてよくわからない偶発事件をきっかけに、いきり立った現地連隊長がはやって独断で攻撃命令を出し、中国国民政府軍側に攻撃を仕掛けて発生した小競り合いである。因みに、この連隊長氏は、皇道派と目された人物で、2.26事件後に左遷され、出席街道をはずれてしまった個人的うっぷんがあったと言われている。この小競り合い上部機関の外交的折衝によって、翌々9日には停戦協定が成立して、一旦、戦闘は終わったのであった。

ところがかのうっぷん晴らしにうつつをぬかす連隊長氏は、停戦協定を無視して部隊を進軍させ、これを止めようとした旅団長と睨み合って停止命令を跳ね返し、強引に攻撃を許可させてしまった。さらに11日、陸軍は、内地から3個師団、朝鮮から1個師団、満州から2個旅団派遣を決定、時の近衛内閣(同年6月、林内閣の総辞職を受けて、組閣したばかりであった。)もこれを承認し、中国国民政府に対し、19日までに謝罪をすることと現地付近の中国軍の撤退を強硬に要求し、これが受け入れられない限り「武力膺懲」を行うことを通告したのであった。そして早くも同月13日、我が国内では、新聞各紙が一斉に中国膺懲を煽るキャンペーンを開始し、我が少国民は戦争熱に浮かされることとなった。盧溝橋事件をめぐってはさまざまな陰謀・謀略論がある。私は、この手回しのよさを見ると、どう見ても、疑惑の銃弾には裏があり、独断攻撃命令もかの連隊長氏のうっぷん晴らしに帰せしめるわけにはいかないように思うのである。

近衛内閣の発した上記高圧的通告に対し、中国側が怒り心頭、反発するのは理のしからしむるところ、中国共産党は徹底抗戦の声明を発し、国民政府の首班・蒋介石も「我々の態度は戦いに応ずるのであって、戦いを求めるのではない。我々は弱国ではあるが、我が民族の生命を保持せねばならず、祖先から託された歴史上の責任を負わざるを得ない」との有名な「最後の関頭演説」と呼ばれる決然たる抗戦声明で応じた。

ここに、かねて中国一撃論を唱えていた我が日本軍は、好機到来とばかりに戦端を開いた。北支といわれる中国北部から始まった戦争は、たちまちのうちに拡大、同年8月9日に発生した一海軍軍人が中国保安隊に射殺された事件をきっかけに同月13日には上海にも飛び火、同月15日には近衛内閣は「支那軍の暴戻に膺懲し、南京政府に反省を促す」と政府声明を発して、中国との本格的な戦争の泥沼にはまり込んでいくことになる。

陸軍首脳は、かねての一撃論どおり、当初、2か月で戦争を終結させると豪語(天皇にもその旨上奏)していたが、中国各軍の抗戦意欲は極めて旺盛、必死に応戦し、戦火は拡大するばかり、ついに日本軍は国民政府軍を追って、同年12月10日、南京市に突入、同13日には制圧するに至った。ここで、日本軍は、歴史に一大汚点を残すことになった南京大虐殺を引き起こしたのである。

南京市を制圧した中支那方面軍の一部の軍紀は乱れ、とりわけこれを構成する第16師団は顕著で、師団長中島今朝吾自らも蒋介石の自宅から大量に珍宝を私的に持ち帰るというコソ泥行為まで働いていた。同軍司令官松井石根は、1938年末に、調査のために現地に赴いた田中隆吉(後に陸軍兵務局長の要職につき、敗戦後、GHQに全面協力。1932年1月の第一次上海事件のときに、日本軍出撃の口実として日蓮宗僧侶虐殺事件を仕組んだ人物。自らの回想記に「我が半生は、陰謀工作に終始したと言っていい」と述懐している。)に「残虐行為をやめさせるためにできる限りのことをしたが、どうにもならなかった。私はその責任を負わなければならないだろう」と述べたとのことである。

中国国民政府は、1937年9月、我が国の侵略行為を国際連盟提訴、同年10月、国際連盟総会で9カ国条約(1922年2月、主力艦艇の削減をめざしたワシントン会議において、中国の領土保全・門戸開放・機会均等などを約した対中国権益の調整をする条約で、米英日など9カ国が調印)及び不戦条約(1928年8月、日本も調印した侵略戦争を禁止する条約)の各違反として我が国に対する非難決議がなされ、英米両国次第に我が国への態度を硬化させ、中国国民政府支援の姿勢を強めていくことになった。

この間、ドイツ駐中国大使トラウトマンによる和平あっ旋もあったが我が国が厳しい注文をつけたため不調、1938年1月、近衛内閣は、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との無謀な声明を発して、和平の道を閉ざしてしまった。日本軍は、同年10月、広東、漢口、武昌等主要都市を制圧するも、重慶に逃れた国民政府、延安に逃れた中国共産党主力軍とのにらみ合いが続き、戦線は膠着状態に陥り、徒に日本軍将兵と中国軍民の血が流される事態が続くことになった。

 我が国は、このように無謀な対中国侵略戦争を拡大と継続により、外には、1939年6月、天津租界封鎖事件を起こしてイギリス、アメリカとの対立を決定的にして、同年7月、アメリカから日米通商航海条約の破棄通告を受け、同年5月~9月、ノモンハン事件でソ連軍と衝突して大きな打撃を受け、1940年7月、アメリカによる屑鉄、石油、航空用ガソリン禁輸措置、同年9月、ヨーロッパにおけるドイツの快進撃に乗じて北部仏印(ベトナム北部)侵攻と日独伊三国同盟調印、1941年2月以後ドラウト牧師らの民間外交に発端する日米交渉も7月にはほぼ挫折、南部仏印(ベトナム南部)侵攻とアメリカによる同月末と同年8月初めの在米資産凍結、石油全面禁輸措置、そして同年12月8日、対米英蘭開戦と、戦争と破滅へのドミノ倒しが進んで行った。

また内においては、1938年3月、国家総動員法制定と電力国家管理法制定、1939年9月、物価凍結令発令、1940年10月、大政翼賛会発足、11月、大日本産業報国会結成と、戦時統制経済とファッシズムが進行した。

こうした戦争とファッシズムの進行こそ、またしても新たな秘密保護法を生み出す母胎となったのである。

※いよいよ軍用資源秘密保護法と国防保安法の登場ですが、急ぎの案件が入ってしまいましたので2日間連載を中断せざるを得ないことになりました。連続してお読み頂いている方には申し訳ありませんが、暫くお待ちください。
(続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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