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明治維新という時代

外国軍隊の撤退を求めた明治政府(2)

 時あたかも、前年のイギリス公使館護衛兵殺害事件と生麦事件に関して、イギリス側から幕府側に出された賠償と容疑者への厳正処罰要求によって、戦争が始まるとの風説が流布し、横浜の外国人居留地は上を下への大騒ぎとなっていた。
イギリス代理公使ニールが、本国外務大臣の訓令に従い、幕府に要求書を提出したのは1863年2月。その要求は以下のとおりであった。

① イギリス公使館護衛兵殺害事件の被害者遺族に対する賠償金として1万ポンド(4万両)を支払え。
② 生麦事件の発生を許したことに公式の謝罪をし、懲罰金として10万ポンド(40万両)を支払え。
③ 薩摩藩は、生麦事件の犯人を、1名ないし数名のイギリス海軍士官の立ち会いの下に処刑し、遺族及び関係者への賠償金として2万5000ポンド(10万両)を支払え。

 本国外務大臣の訓令には、幕府がこの要求に応じない場合には、香港を拠点とするイギリス極東艦隊司令官に要請し、その最も適切と考える手段をとることとされていた。

 戦争が勃発するとの風説が流布するのは当然のことであった。実際、間もなく薩摩という遠方の地ではあるが薩英戦争が始まるし、翌年には英仏米蘭4カ国連合艦隊による下関攻撃が断行されている。

 外国人居留地近傍からは日本人商人らが逃げ出し、外国人居留地では日本人使用人が逃げ出すという事態になって、同年5月になると、フランス人が日本人をピストルで撃つという事件、アメリカ人が日本人に襲われるという事件も起こる。幕府側は、イギリス側の交渉にとどまらず、外国人居留民(当時の横浜外国人居地に住む外国人は、イギリス人91名、アメリカ人70名、オランダ人30名、フランス人18名、プロシア人13名、ポルトガル人6名、総計228名であったという。)の安全確保の措置を求める英仏を代表とする諸国外交団への対応も迫られた。勿論、外国人居留地を警護する部隊によって警戒・巡邏活動を行ってはいたが、それも万全とはいえない状況であった。

 そこに来ての攘夷実行である。幕府は形だけで外国人追放令で時間稼ぎをしようとしたが、長州藩による外国船砲撃の暴挙があり、ことここ至って、いよいよのっぴきならない状況となる。やむなく幕府側は、同年7月3日、交渉責任者である若年寄酒井飛騨守名義の次の書簡を英仏公使に交付した。

 「書翰を以て申し入れ候。しからば方今、我が邦、人心不折り合いにつき、当分横浜おもて居留身辺警衛の儀は、内儀の上、足下の見込みに応じぬる趣、神奈川奉行より承知せり。右は余においても同意。足下の斡旋を待つ。」

 要するに外国人居留地の警護には責任が持てないので、あなた方にて対処されたしと言うのである。

 それではいたしかたなしということで、英仏両国は、自ら、横浜に軍隊を駐留させることとなった。それが英仏駐屯軍であり、イギリスは第9連隊第2大隊・砲兵及び工兵の分遣隊の兵士およそ1000名~1200名、フランスは海兵隊の兵士およそ350名であったという。
                     (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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