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明治維新という時代

外国軍隊の撤退を求めた明治政府(4)

 1869年4月27日のパークス・岩倉会談は、日本側は議事録を残していないでパークスが本国外務省に送った報告文書に添付された会談録でうかがうほかない。これにだけを読むと、パークスは、一応、紳士の言葉で対応しているようであるが、実際は、怒髪天を衝く勢いであったろうことは、「応接のたびごとに怒罵愚弄の甚だしく、如何に鉄面皮無識の宗城にても堪え忍びがたし」と、外国官知事(外務大臣)伊達宗城がその直後の5月1日付岩倉宛て書簡で漏らした泣き言を読めば、おおよそ察しがつくであろう。

 とにもかくにもイギリス軍撤退の言質をとった岩倉は、「日本の開国はまさに今日から始まる」と意気盛んであった。

 パークスは、それでも一気に撤退を決断したわけではない。パークスが動いたのはそれから9ヶ月後のこと、まずは部分的撤退であった。1870年2月に本国外務大臣に、当時駐屯していた第10連隊第1大隊と砲兵・工兵の分遣隊約800名に代えて、250名ないし300名の海兵隊を新規に駐屯させるという具申をしたのであった。曰く、「毎日何が起きるか、だれにも予言できない日本のような激変しやすい国の場合、軍隊を一時に、且つその全員を撤退させるのは危険なことだと思う。」と。

 かくしてパークスの具申が本国政府に採用され、日本側には事前通告なしで現駐屯部隊およそ800名が横浜を去り、入れ替わりにおよそ300名の海兵隊が横浜に上陸したのは1871年6月末のことであった。このときフランスは、およそ300名の海兵隊に代えて、歩兵2中隊、およそ200名に縮小している。

 この頃のわが明治政府の動きを、ワンポイントで語ると以下のとおりである。

 岩倉が、郷里にあって自藩の経営にいそしんでいた西郷隆盛、板垣退助を説き伏せ、中央政府に復帰させたのは、1871年3月(明治4年1月)のことであった。これで王政復古のクーデタ、戊辰戦争を闘い抜いた面々が、再び政府に顔をそろえることとなった。
 同年4月から6月(同2月から4月)にかけて、鹿児島、山口、高知の各藩は、それぞれ申し合わせの上、政府に藩兵を提供して、公称1万名からなる帝国陸軍(親兵)が組織された。
 この力をバックにして、同年8月29日(同7月14日)、廃藩置県が一気に断行された。
 かくして、わが国は、ようやくにして各藩分立体制に終止符を打ち、中央集権国家体制へと変貌を遂げることができた。

 さて外国軍隊撤退問題のその後を見てみよう。

 パークスは、上記部分撤退の段取りをつけた後、おおよそ5年に1度、1年程度の賜暇が与えられるというイギリス外務省の規則に従い、1871年4月、賜暇をとり、イギリスに帰国した。しかし、そのイギリスで、再び、岩倉から、その問題がむしかえされた。

 岩倉を全権大使とする米欧遣外使節団が、横浜を出港したのは、その8カ月後、同年12月23日のことであった。使節団の主たる目的は、友好・親善関係を深め、先進諸国の制度・文物に係る見聞を広めることであったが、安政の通商条約の交渉開始期限をまじかに控えて、各国と考え方を聞き、意見を取り交わすことでもあった。
使節団が、イギリスに入国したのは、その前の訪問国アメリカで少し手間取ったため、翌1872年7月3日のこと、ロンドンに到着したのは同年8月17日ことでであった。

 ようやく岩倉とグランヴィル外務大臣との会談が実現したのは同年11月22日、それを皮切りに、同月27日、翌12月6日と3回行われ、いずれもパークスも陪席した。
 その第2回会談の最後に、グランヴィルから「そのほかにお話しがありますか」と促されて、岩倉は、横浜駐屯軍の撤退要求を持ち出した。グランヴィルは面喰ったのか、「熟考の上お答えします。」と即答を避けた。そして第3回会談で、熟グランヴィルは、間もなく帰任することになるパークスの現地からの報告を受け取るまでは、撤兵の期日について確たることは言えないと逃げの手を打った。しかし、これで引き下がる岩倉ではない。日本側の会談記録によると以下の問答が行われた。

岩倉 ・・・(英国は諸外国の手本となるべき国だと持ちあげて)然るにかような英国政府にて、なおご不安のところより兵隊を今もって御引上げこれなきは、日本の人民をして開化の運びに進ましむの手段これなし。拙者どもにおいては深くこれを残念に存じそうろう。

グランヴィル 至極ごもっともにそうらえども、とうてい公使の実報得そうろう上ならでは、解兵の儀はかり難くそうろう。

(このあと5分に及ぶ重苦しい沈黙)

岩倉 右のご挨拶にてはせんかたこれなくそうろう。

 パークスは、この会談のあと、自らの感想を交えたメモランダムを作成してグランヴィルに提出しているが、その中で「日本へ帰任後、海兵隊の撤退を本国政府に勧告できるような状態の存在を報告できる希望なしとしない。」と述べている。さすがに心を動かされたのであろう。

 岩倉の粘り、迫力、不羈独立へ執念。外国軍隊の駐留を認めているようでは独立国とは言えないのだ。今日の政治家も、少しは見習ってほしいものだ。
 なお岩倉は、フランスにも同様の要求をしていることは当然のことである。

 大急ぎで、英仏駐屯軍のその後を見ておこう。1873年11月に、フランス公使とパークスと撤退問題について協議している。フランス公使が近く撤兵予定と告げたので、パークスも撤兵を決断し、本国外務省に、現駐屯軍の交代時期が1874年春に来るので、そのときに撤兵することを具申して、その承認を得た。
 もっとも1874年2月に佐賀の乱、同年5月台湾出兵など不穏な情勢が続いたことが原因で、それは遅らされ、英仏駐屯軍の撤兵が完了したのは1875年3月1日となった。

 これで第一話を終える。第二話は『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』である。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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