明治維新という時代

ニワトリからアヒルの帝国軍隊(3)

 帝国軍隊が、海外で武力行使をした嚆矢は、征台の役であった。その経緯をたどってみることにする。

 1871年11月、琉球の宮古島から本島に年貢を運んで帰路についていた船が遭難し、台湾南部の東海岸・パーヤオワンに漂着、乗組員66名中、54名が原住民に殺害され、残り12名が清国の地方行政機関に保護されるという事件が発生した。
 かつて琉球国は、薩摩藩に服属するところであったから、この事件の報が伝わると、鹿児島県士族は、台湾(蕃族)征伐の声に沸き立ち、自ら出兵することを願い出るもの後を絶たない状況となった。こうした動きにおされて、翌1872年5月、時の鹿児島県参事大山綱良(実質上の県行政責任者)は、政府に次のような建白書を差し出した。

伏して願わくは綱良皇威により、問罪の使を興し彼を征せんと欲す。故に謹んで軍艦を借り、直ちに彼が巣窟を指し、その巨魁をほろぼし、上には皇威を海外に張り、下には島民の怨恨を慰せんと欲す。

 しかし、政府としては、ようやく中央集権国家への緒についた現在、鹿児島県に軍艦を貸して、台湾(蕃族)征伐をさせることなど出来ようはずもない。そこで、政府は、自らの手で、これを決行する検討を始めた。これを決行する上で、最大の難問は、清国の出方であった。台湾は、清国の領土であるから、台湾(蛮族)征伐が、清国との戦争に発展するようなことは避けなければならない。そこで、清国の出方を確かめる必要があった。

 少し時計を巻き戻すが、日清間で、日清修好条規の締結交渉が始まったのは、1870年8月のことである。外務省の権大丞というから局長クラスにあたると思われる柳原前光らによる予備折衝を経て、1871年4月、大蔵卿伊達宗城が全権大使となって、清国に乗り込み、清国側全権大使李鴻章との間で、交渉を重ねる。ようやくにして締結・調印に至ったのは同年7月であった。これは、相互尊重、相互援助、全権公使の交換、相互の開港場(横浜・神戸・上海・寧波など)での交易、相互の領事裁判権の行使に承認しあうもので、本文18条、付録の通商規側・海関税則33款からなる完全平等条約であった。
 これに対して、パークス不在の間のイギリス公使の代役を務めていたアダムズ代理公使が、相互援助の条項が「攻守同盟」と解される余地があるとの懸念を表明、その批准に待ったがかかった。政府内からも、最恵国条項や内地通商条項がないことに異論がでた。しかし、紆余曲折の末、、政府は、結局、これを批准することに決し、1873年3月、副島外務卿を批准書交換のため、清国に派遣した。

 その際、副島は実に巧妙に立ちまわった。日清修好条規の批准書交換を終えると、副島は、前出の柳原前光を総理衙門(外務省)に遣わし、琉球・宮古島島民の遭難事件を説明させ、犠牲者は日本国の人民だとして、清国側の措置を尋ねさせた。清国側は、蕃族は「化外に置き、甚だ理することなさざるなり」と応じたので、柳原は、ただちに話を打ち切り、副島にその旨報告した。それだけ聞けば十分、これでかの台湾蕃族は清国民ではないし、その住む所は清国の有効に支配する地ではない、無主の民であり、無主の地だから、これに兵を派遣して討つことは、清国が容喙できることではない、こう副島は結論を下したのである。

 イギリス公使パークスは同年3月帰任、副島は同7月帰国、早速、同8月に会談が持たれた。そのとき、副島は、清国との話し合いで、清国は、かの台湾蕃族の行為には何の責任も持てない、日本政府がこれを罰する権利を持っていると答えたと述べ、およそ1カ月後に、1隻ないし数隻の軍艦を派遣しすることになると語ったとのことである(パークスが本国外務省に送った覚書)。

 実際に、台湾(蕃族)征伐が、実行に移されるのは翌1874年5月のことであった。

                    (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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