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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(1)

はじめに

 最初に確認しておきたことがある。それは次の二点である。

 一点目 明治維新は革命であったのか。

 これは古くから論争テーマであった。
 まず、マルクス主義者らの争い。講座派と言われるマルクス主義者(戦前、岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』を執筆したグループ及びこれを継承した人たち)は絶対主義(封建地主階級と資本家階級の両者に基礎を置きつつ、それらからは相対的に自立した天皇制官僚による支配)への転化であったと説き、また労農派はと言われるマルクス主義者(戦前の雑誌『労農』の寄稿者グループ及びこれを継承した人たち)は、不徹底なブルジョア民主主義革命であったと説く。
 次に、世界史的に見る革命のイメージからくるもの。革命とは、フランス革命やロシア革命、あるいは中国革命のように、下からの大衆的参加による社会変革というものであり、王政復古の大号令とともに始まった上からの変革という歴史的経過を持つ明治維新は、そのイメージから遠い。実際、「明治維新」を、英語で表現すると、“Meiji Restoration”である。

 しかし、土地に緊縛され領主に隷属した農民の解放、旧支配階級である世襲坐食の武士と封建領主の廃絶、四民平等と自由、法治主義への転換など巨大な変革をもたらした明治維新は、誰がどう言おうと革命であった。

注:坐食とは働かないで飯を食うという意味。

 二点目 大西郷(大西郷とは西郷隆盛のことである。明治維新において果たした役割の大きさと弟の従道と区別すること、その両者の意味をこめて大西郷と呼ぶ。しかし、以下では単に「西郷」と言う。)は士族の権益擁護と支配温存を第一義としたのか。

 この点については以下のことを指摘しておこう。

 まず旧藩主の父・島津久光の「建白書」と「罪状書」。

 「建白書」は1872年7月27日、西国巡幸で、鹿児島を訪れた天皇に久光が提出したもの。その中に、西郷が筆頭参議として推し進める最近の政府の施策を、共和政治の悪弊に陥っていると激しく攻撃する文言があった。
 「罪状書」は、1872年12月、久光が、西郷に直接つきつけたもの。全部で14ヶ条に及ぶが、その中に、士族から武器をとりあげたのはけしからん、脱刀・散髪を認め、士族・庶人間の通婚を自由にしたことは風俗を乱す、四民平等としたことの処置は国威に関係する重大事であるなどという項目がある。つまり西郷は士族を貶めていると言うのである。

 次に、西郷は、士族の切り捨ての究極策である「秩禄処分」を推進したこと。遣外欧米使節団に加わり、アメリカに滞在している筈の大久保利通に送った1872年3月23日付書簡で、廃藩置県の事後処理である藩札消却がうまく進んだこと、この機会に家禄消却もやってしまうべく米国から3000万ドルの外債借入れを決めたことを伝え、「この機会を失うべからず、両全の方法」と自賛している。

 要するに西郷は、1871年8月11日、参議として政府に加わって以後、まさに廃藩置県を実現し、封建制度を改革し、近代化政策を推し進める責任者(筆頭参議)として、士族の権益と支配を掘り崩し続けていたのである。

 さてこの小論では、「明治六年の政変」の意味、西郷が何をめざしたのかを順次説いていくことにするが、私にとって導きの糸となったのは、政変後2年も経ない1875年9月、政府が江華島事件を起こしたとの報を聞くや、西郷は、「何分にも道を尽くさず、ただ弱きをあなどり強きを恐れそうろう心底より起こりそうろうもの」、「樺太の紛議拒まんがために事を起こしそうろうもあい知れず、或いは政府既に瓦解の勢いにて、如何ともなすすべ尽き果て、早くこの戦場を開き、内の憤怒を迷わしそうろうものか、いずれ術策上より起こりそうろうもの」「遺憾千万」と憤慨した(篠原冬一郎宛て1875年11月5日付書簡)事実である。これが世上言われる征韓論者の発する言葉であろうか?

                           (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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