スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(4)

政権の要石となった西郷

(廃藩置県)

 政府メンバーの一新は、維新改革を前進させる力となった。というよりもその力を貯めるための一策であったというほうが正しいかもしれない。

 既に1869年に、各大名が、領地と領民を、国家に返上するという版籍奉還が実施されていたが、これは多分に名目的・形式的なもので、実質的には、各藩の領土・領民は、その後も各藩主の支配下にあった。このような中途半端な状態がそのまま残される筈はなく、当然、その先に、名実ともに、領土、領民を国家に帰属させ、各藩主の支配を断ち切る抜本的な変革、即ち廃藩置県が展望されていた。
 新たな陣容により基盤を強固にした政府は、そのわずか2週間余り後の1871年8月29日(旧暦明治4年7月14日)、これを一挙に実現させてしまった。まるで直属の軍隊の威力、西郷の叱咤激励の声、木戸の冷徹な論理の力につき動かされるように。

 ついに封建主義の根幹に大ナタがふるわれ、以後、わが国は中央集権の国民国家として、近代化の道を進み始める。
 しかし、その進め方、国家の統治システムの構想、不平等条約の締結を余儀なくされた西欧列強諸国やアジアの近隣諸国との関係等をめぐって、新たな対立と抗争が始まる。1871年8月末、西郷は、否応なくその真っ只中に立つことになったのである。

 木戸の急進的改革志向とそれに反発する大久保の自己の権力基盤固め、これらはその新たな対立と抗争の一局面であった。

 それに関して、西郷は、政策論では木戸を支持し、組織論では、大久保を支持したように思われる。それは結局のところ、権力基盤を固めようとする大久保を利する結果をもたらしたとも言えるのではなかろうか。

 前者に関して言えば、廃藩置県実施後、堰を切ったように、10月、「華族・士族・平民間の通婚許可」、「被差別民の解放」、「田畑勝手作の許可」(耕作の自由)などが実施されたことが確認できる。

 ① 廃藩置県と同時に太政官制が改革された。これは太政官を、太政大臣、左右大臣、参議の合議制機関たる正院、立法機関たる左院、各省長官の協議・調整機関たる右院の三つの機関からなるものとするなどの改革である。太政大臣に三条、右大臣に岩倉、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任。大臣が天皇を輔弼し、参議・卿を指揮する。岩倉と大久保とは、丁卯(ていぼう)以来、つまり二人が相謀って発動した1868年1月3日(慶応3年12月9日。丁卯とはこの年のこと。)王政復古の大号令以来のツーカーの仲である。大久保にとっては、右大臣岩倉を通じて主導権を握れることは明らかで、この改革は、既に述べた有司専制の道を進めようとする大久保の意に沿うものであった。

 ② 9月、民部省が大蔵省に併合・廃止され、巨大な大蔵省が出現した。これは勿論、大蔵卿・大久保の権限強化となる。

岩倉遣外欧米使節団と留守政府

(モラトリアムは許されなかった)

 さて岩倉遣外欧米使節団(以下「使節団」という。)が横浜を立ったのは、同年12月23日である。そのメンバーの主だった顔触れを見てみよう。

 特命全権大使/右大臣 岩倉具視  副使/参議 木戸孝允
 副使/大蔵卿 大久保利通  副使/工部大輔 伊藤博文
 副使/外務少輔 山口尚芳

 使節団の意義、使節団の活動、その功罪等は、それはそれで興味深いのである、この小論では触れないことにする。ただ、まさに廃藩置県実施後、難問山積、新たな対立と抗争が始まっているこの時期に、このような豪華メンバーを揃えた使節団が派遣されたことに、私は、驚きを禁じ得ないとだけ言っておきたい。

 これに対し、このとき残された政府(一般に留守政府と呼ばれている。)のメンバーの顔触れを見ると以下のとおりである。

 太政大臣 三条実美  参議 西郷隆盛  参議 大隈重信
 参議 板垣退助  左院議長 後藤象二郎  外務卿副島種臣
 大蔵大輔 井上馨  兵部大輔 山縣有朋  開拓次官 黒田清隆

 この顔触れを見るとき、使節団のメンバーならずとも、独走したりはしないだろうかと心配になる。そのためか、使節団の主要メンバーと、留守政府のメンバーとの間で、それぞれ署名捺印までして取り交わした十二箇条からなる約束書を取り交わしたのであった。その中には、その趣旨を次のように要約できる項目があった。

・内政・外交の重要問題については、使節団帰国後に手をつける。
・留守政府の人事に関しては、現状を維持する。
・使節団と留守政府との間に、議論、矛盾、差異を生じないようにする。
・廃藩置県の目的に沿う改革は実施すべきである。

 使節団のメンバーからすれば、このような約束書を取り交わしておけば、西郷という要石もいることだから大丈夫と思ったに違いない。しかし、それは甘かった。留守政府は、取り交わした約束文書を無視して、後にみるとおり次々と新たな改革に手を染めて行ったのであった。
 使節団は、当初の見込みでは、10ヶ月半程度で帰国する筈であった。ところが実際には、1年9ヶ月という思いもかけない長期間の留守をしてしまった(もっとも三条からの訓令により、少し、早期に帰国した大久保、木戸の留守期間は、それぞれ1年5ヶ月、1年7ヶ月である。)。だから、使節団メンバーとしても、その背信を、公然と咎めることはできなかったのである。
 使節団が留守政府に抱く屈折した意識は、上述の新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。
                     (続く)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。