明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(6)

(旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州勢力の凋落)

 上に述べたように江藤が、留守政府内で存在感を高めただけでなく、1873年4月19日、左院議長後藤象二郎、文部卿大木喬任、それに司法卿江藤の3名が新たに参議に任命された。これで留守政府の参議は、筆頭の西郷のほか、板垣、大隈、後藤、大木、江藤となり、旧薩摩1、旧長州0、旧土佐2、旧肥前3となった。旧土佐、肥前勢力の台頭は、明らかである。
 それに比べて、旧長州藩勢力はと言えば、不祥事が相次ぎ、その凋落は目をおおうばかりであった。

 留守政府が急進的改革を加速させ、大きな実績をあげていたこと、とりわけ急進的民権論者とでも評し得る江藤の目をみはるような活躍ぶりとあわせて、この旧土佐、旧肥前勢力の台頭、旧長州勢力の凋落は、これまた上述した新たな対立と抗争のもう一つの局面であった。

 旧長州勢力の人々の不祥事の経緯は、ストーリーとしても非常に興味深く、日本政治疑獄史において多くのページを割くに値するが、この小論では、ごく簡潔に触れるにとどめざるを得ない。

① 陸軍大輔山縣有朋の公金横流し疑惑

 元長州騎兵隊幹部にして山縣の部下であった山城屋和助なる兵部省⇒陸軍省御用商人に、陸軍省は、総計64万円余りの大金(国家予算の1%ほどである)を貸し付けていた。山城屋は、これを生糸相場や遊興費に費消した挙句、1872年12月29日、陸軍省内で割腹自殺。山縣の公金横流しと同人から遊興費等を融通させていたとの疑惑があり、山縣は窮地に追い込まれたが、陸軍省の混乱を防ぐために西郷が奔走し、助けた。
 しかし、山縣は、旧長州藩御用達から陸軍省御用商人となっていた三谷三九郎なる者が陸軍省公金35万円を借り受け、返済不能となった件でも陸軍省内部で疑惑を持たれ、翌1873年4月18日、辞職を余儀なくされた。ただ、このときも西郷が陸軍省の混乱を防ぐために環境を整え、わずか11日後の同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理)として復職させた。
 なお、これらの事件については、司法卿江藤の追及の的になっていたことは言うまでもない。

 山縣にはその後も黒いうわさが絶えなかったが、やがて内閣総理大臣、帝国陸軍のドン、そして維新の元勲としてそのときどきのキングメーカーになる。みごとというべきだろうか?

② 大蔵大輔井上馨の利権あさり疑惑

 井上も、三井組とのいかがわしい関係はよく知られていた。

 上に述べた三谷三九郎事件は、返済能力のない三谷に代わって三井組に返済をさせ、そのかわりに三谷の所有地を三井組に移す形で処理されたのであるが、三井組はその結果多大の利益を得ることとなった。この処理は、井上が、山縣と組んで策動したのではないかと疑われている。

 井上は、後に述べるようにその後間もない同年5月9日、辞職をして大蔵省を去り、一民間人となるのであるが、在職中の末期に、大蔵省があらぬ口実をもうけて旧盛岡藩御用達の商人・村井茂平から、同人有する尾去沢銅山経営権を没収し、これを岡田平蔵なる者に破格の格安条件で払い下げさせた。そして大蔵省辞職後の同年8月に、上記銅山地境に、臆面もなく「従四位井上馨所有地」なる木標を立てたと言われている。
 この露骨で悪質な職権乱用による財産乗っ取り事件は、江藤司法卿の追及するところとなり、司法省大丞兼大検事警保頭島本仲道の捜査報告書によって容疑の裏付けがなされたとして、司法省から太政官に井上勾引の申し出がなされるに至っていた。後述の政変、江藤の下野という事態に至っていなければ、井上の身柄拘束にまで至っていたであろう。
 なお、井上、岡田を含め、これに関与した者は全て旧長州藩出身者であった。

③ 旧長州藩出身大物地方官の職権乱用、井上も結託か?

 小野組は、江戸時代に「井筒屋」を名乗った豪商で、戊辰戦争以来、三井組、島田組とともに維新政権の財政を支える一翼を担ってきた。1873年4月、小野組が、本店を神戸と東京に転籍することを京都府へ申し出たところ、京都府はこれを受理しないばかりか、さまざまな圧迫を加えた。当時、京都府の大参事として京都府政を牛耳っていたのは、これまた旧長州藩出身の槇村正直であったことから、これはまだ大蔵省大輔の地位にあって槇村を配下に置く井上のさしがねだという風評が流れた。三井組と結託した井上が、三井組の商売敵たる小野組に待ったをかけ、三井組をバックアップしようとしたのだというわけである。井上の黒い霧は、ここにも垂れこめていたのである。
 その真偽はともかく、小野組は、前出の司法省達第46号に基づき、同年5月、京都裁判所に訴え出た。京都裁判所は、司法卿江藤の肝いりで天誅組の生き残りの硬派の北畠治房が所長を務めていた。その北畠所長の下で、裁判所は裁判を迅速に進め、同年6月、京都府は、上記転籍申し出を受理し、至急送籍せよとの判決を下した。
 しかし、京都府は、請書も出さず上訴もしないで黙殺する態度をとり、さらには小野組に対する攻撃を強めた。そこで北畠は、ただちに京都府の対応は違式罪にあたるので速やかに処罰するべきだと司法省に報告した。これを受けて司法省は、同年7月、上記処罰を相当とする決定を得た。そこで、京都裁判所は、同円8月、知事長谷信篤及び大参事槇村に対し、それぞれ贖罪金8円、同6円を課する判決を下した。
 長谷、槇村はそれをも無視するので、北畠裁判長は、司法省を通じて太政官に、両名の身柄拘束の許可を求めるまでに紛糾して行った。その後、穏便な解決を願う三条の意向を汲んで、太政官は、司法省にこの件を裁く臨時裁判所を設置して審理させることとしたが、司法省による槇村追及の手は一向に弱まることはなかった。これは「明治六年の政変」直前のことである。
 
        (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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