明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(8

(太政大臣三条実美からの召還訓令)

 西郷をして「憐れむべき御小肝」と言わしめた(桐野利秋への書簡)太政大臣三条実美は、使節団の帰国が遅れる一方で、次々に生起する難問に頭を悩ませ、心細い思いを募らせたのであろう、1873年1月19日、使節団の岩倉に、木戸、大久保両名の召還命ずる訓令とともに次のような書簡を送った(原文を読みやすく表記した。)。

 「さて先便縷々申し述べそうろうとおり、本朝国事多端、やむをえざる要用もこれありそうろうについては、各位御帰朝の期もあいはかりがたく、かたがたもって大久保、木戸両人帰朝の御沙汰おうせだされそうろう間、公翰をもってお達し申しそうろうとおり、両人のところ、帰朝あいなりたくお達しこれありたくそうろう。両人お呼び返しの儀は、さだめて御不都合の儀もこれあるべく、ことに尊台において御迷惑とも察し奉りそうらえども、かれこれよんどころなき事情、御遠察祈望つかまつりそうろうことに御座そうろう。」

 この訓令と書簡が使節団のもとに届いたのは同年3月中旬、ワシントン、ロンドン、パリ、ブリュッセル、ハーグを巡歴し、ベルリンに入り、プロシアの鉄血宰相ビスマルクと面談し、弱小国プロシアをドイツ帝国に作り上げてきた「予があれこれの批判を顧みないで国権を全うした本心」を吐露され、「いま日本が親睦を通じ、あい交わるべき国は多々あるだろうが「国権自主を重んずるドイツの如きは親睦中の最も親睦なる国なるべし」とのご高説を拝聴して、一同、おおいに感銘を受けた直後のことであった。久米邦武『米欧回覧実記』によると、「交際の使臣、相宴会する際に、此の語は甚だ意味あるものにて、此の侯の辞令にならえると、政略に長ぜるとをよく認識して、玩味すべき言といいつべし」とある(原文をわかりやすく表記した。)。

 この頃、木戸、大久保は対立が激しくなり、訓令への対応も区々となる。大久保は、訓令に従い3月末に帰国の途につき、5月26日帰国、木戸は、訓令を無視してロシアまで使節団とともに行動し、その後単独行動で2ヶ月にわたりヨーロッパ諸国を歴訪し、7月23日に帰国した。

 三条が、1月19日付書簡において、先便で、縷々申し述べたと言っている「国事多端」の内容は、以下の4項目に要約できる。

 第1は、島津久光問題。これは既に述べた。

 第2は、大蔵省問題。これは次項で述べる。

 第3は、台湾問題。これは第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「政台の役」のところで述べたので繰り返さないが、少しだけ補足しておこう。台湾出兵については、当時、外務卿副島がその急先鋒で、元米国の駐厦門(アモイ)領事、チャールズ・ウィリアム・ル・ジャンドルなる者を大輔待遇という破格の厚遇をもって外務省顧問として雇い入れ、その指導のもとに着々と準備を進めていた。三条は、清国をはじめ、諸国との関係悪化を懸念し、慎重姿勢をとっていた。しかし、副島の勢いを止めることはできず、表向きは日清修好条規の批准書交換、内実は台湾問題での談判との秘めたる任務を与え、2月27日、遣清特命全権大使に任命せざるを得なかった(三条は、この書簡の中でも「やむをえざるの務にして」と弁明している。)。その副島が、勇躍、清国に出発したのは3月13日のことであった。

 第4は、朝鮮問題。書簡では、1872年9月、花房外務大丞を派遣して草梁倭館を接収し、外務省の直轄下に置き、大日本公館としたことに触れているだけで、さほど重要問題とは位置付けてはいないように思われる。
 この問題は、既に第二話『ニワトリからアヒルの帝国軍隊』の「征韓論」のところで触れ、さらにその先の実際の武力を用いた朝鮮への干渉について「江華島事件」のところで触れたが、その間の部分は抜けているので、これを次章で述べる。

                                              (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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