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明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(11)

(征韓論本論)

(一般に説かれている征韓論は誤りと矛盾がある)

 いま私の手元にある山川出版社の高等学校用日本史教科書『詳説日本史』(2005年3月5日発行)によると、第4部「近代・現代」の第9章「近代国家の成立」のうち、「明治維新と富国強兵」のタイトルを付した第2項の中で、次のように記述されている。

 「新政府は発足とともに朝鮮に国交樹立を求めたが、当時、鎖国政策をとっていた朝鮮は、日本の交渉態度を不満として交渉に応じなかった。1873年(明治6年)、留守政府首脳の西郷隆盛・板垣退助らは征韓論をとなえたが、帰国した大久保利通らの強い反対にあって挫折した。」   この記述部分をAとする。

 これに続けて、以下のように記述されている。

 「その後1875年(明治8年)の江華島事件を機に日本は朝鮮にせまって、翌1876年日朝修好条規(江華条約)を結び、朝鮮を開国させた。」  この記述部分をBとする。

 Aの部分はごく一般的な「征韓論」論を記したものであろう。しかし、これは誤りである。即ち、征韓論の主唱者は、上述のパークスの覚書を見れば、副島であることは明白である。いやもっと明らかにそのことを示す資料がある。

 パークスは「明治六年の政変」直後の10月29日、副島と面談した。パークスが作成したその面談結果を記した覚書である。それによると、副島は朝鮮問題についてとうとうと述べているが、その一部を抜粋するに止めておこう。

 「副島はためらうことなく朝鮮遠征が実施されなかったのは非常に残念であると、わたしに語った。自分はこの問題をふかく検討してみたのであり、遠征は成功すると確信していたのであると、副島は述べた。」
 「副島は語り続けた。(かつての太閤の朝鮮侵攻が失敗に終わったことについて)かれは兵を朝鮮の南部に上陸させ、それから北進しようとしたからである。自分は逆の経路を主張する。すなわち、遠征軍を二手に分け、それぞれに25000の兵をあたえ、一隊を清国との国境に近い朝鮮の北西部に、別の一隊をロシアとの国境に近い北東部に上陸させる。つづいて、それぞれの上陸地点に1万の兵を守備隊として残し、残りの兵力、それぞれが1万5千の兵からなる二つの部隊を率いて、南下する。このようにすれば、朝鮮軍の退路は断たれるし、彼らが外部から援助を受ける方策も失われる。」


 次に、AとBとは完全な矛盾ではなかろうか。征韓論者とされた西郷や板垣が挫折し、下野したわずか2年後に、強い反対論者であった筈の大久保が率いる政府が征韓論を実行している。こんな矛盾した説明が平気でまかりとおっているのである。高校生諸君よ、教科書はまず疑ってかかることが肝要のようでがある。

                           (続く)

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No title

 大久保利通は、征韓論について「時期尚早」として一時的に海外進出をためらって反対していたというだけで、朝鮮進出は将来的課題とされていました。つまり、大久保の反対論は、思想的背景に基づくものではなく、AとBの記述は、何ら矛盾するものではないように思います。

 征韓論者とされた西郷や板垣らが挫折し下野したわずか2年後に、江華島事件を起こした理由は、依然として強い士族の専制政府への不満をそらすためのものと思われます。

 また、1873年(明治6年)の政変時とは国際情勢が異なる点も重要で、英国から日本の朝鮮進出支持を取り付け、朝鮮進出に列強が干渉しないと分かっていたも朝鮮進出を後押しすることになりました。

 大久保内閣は内地「優先」で征韓論派を退けながらも、西南戦争後も続く不平士族をなだめることを狙い、あえて早い時期から台湾出兵を行うなどしました。しかし、当時の日本の実力では、英国の斡旋をうけて清に賠償金を請求するなど、列強と結びつかなければ海外進出ができない状況でした。
 大久保は、台湾侵略後の交渉で北京に行った際に、英国公使から日本が台湾に向かわずに朝鮮に進むなら英国は日本を援助する旨、言われたとされています。
 1860年代までに朝鮮開国を実現できなかった英国をはじめとする列強が、日本を利用することで開国させることを望み、台湾進出よりも朝鮮進出を促され、1
875年の江華島事件に繋がります。

 なお、Aの記載についても、「西郷隆盛・板垣退助ら」とあり、副島を含むものであり、政治的に重要な西郷・板垣の名前を出したと思われるので、仮に副島が征韓論の主唱者だとしても、誤記という指摘はあたらないと思われます。

Re: No title

>  大久保利通は、征韓論について「時期尚早」として一時的に海外進出をためらって反対していたというだけで、朝鮮進出は将来的課題とされていました。つまり、大久保の反対論は、思想的背景に基づくものではなく、AとBの記述は、何ら矛盾するものではないように思います。
>
>  征韓論者とされた西郷や板垣らが挫折し下野したわずか2年後に、江華島事件を起こした理由は、依然として強い士族の専制政府への不満をそらすためのものと思われます。
>
>  また、1873年(明治6年)の政変時とは国際情勢が異なる点も重要で、英国から日本の朝鮮進出支持を取り付け、朝鮮進出に列強が干渉しないと分かっていたも朝鮮進出を後押しすることになりました。
>
>  大久保内閣は内地「優先」で征韓論派を退けながらも、西南戦争後も続く不平士族をなだめることを狙い、あえて早い時期から台湾出兵を行うなどしました。しかし、当時の日本の実力では、英国の斡旋をうけて清に賠償金を請求するなど、列強と結びつかなければ海外進出ができない状況でした。
>  大久保は、台湾侵略後の交渉で北京に行った際に、英国公使から日本が台湾に向かわずに朝鮮に進むなら英国は日本を援助する旨、言われたとされています。
>  1860年代までに朝鮮開国を実現できなかった英国をはじめとする列強が、日本を利用することで開国させることを望み、台湾進出よりも朝鮮進出を促され、1
> 875年の江華島事件に繋がります。
>
>  なお、Aの記載についても、「西郷隆盛・板垣退助ら」とあり、副島を含むものであり、政治的に重要な西郷・板垣の名前を出したと思われるので、仮に副島が征韓論の主唱者だとしても、誤記という指摘はあたらないと思われます。

 大久保があげた反対理由は、その後の2年で解消していないと思います。もっとも大久保は、むしろ政変を起こすためにとってつけたような理由をあげて反対したのだと私は考えていますが・・・。

 国際環境を見ると、朝鮮問題は対清問題でした。ですから副島は、明治6年3月~7月、全権大使としてし清国に行ったとき(明治6年政変の直前です。)、清国側の意向打診をしたのです。あとで岩倉は、副島が清国で大言壮語してきたと言って非難しているのは、このことをさしているのだと思います。英国公使は、大久保に、本当に、朝鮮進出を進めたのか?指摘される英国公使とは、パークスではなく駐清公使のウェードのことだと思いますが、これはいかがわしい死の商人ピットマンがウェードがそう言ったと柳原前光に述べたもので、ウェード自身が本当にそう言ったのかどうかは確認されていません。むしろ英国も、清国との紛争は避けたいところですから、疑問です。そんないいかげんな話で、日本のビスマルク大久保が動くとは思えません。

 不平士族問題の切迫感は、佐賀事件鎮圧後の明治8年には、明治6年より和らいだのではないでしょうか。

 客観的にみると、副島は、征韓論の急先鋒。それを書かないのは誤りです。
 西郷はその急進的征韓論者副島をおさえようとしたというのが、私の考えです。

 お読み頂きありがとうございました。続きもどうぞ。
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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