明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(21)

(明治六年の政変とは一体何だったのか)
―「蜘蛛の糸の巻きあい」の如くもつれた対立と抗争の再確認とその後―


 ここで明治六年の政変をひきおこすことになった「蜘蛛の糸の巻きあい」(大久保の表現)の如くもつれた対立と抗争を再確認しておこう。

① 木戸の急進的改革志向とそれに反発する漸進改革の大久保の対立。
② 留守政府の約束に反した急進改革の推進とこれに反発する使節団主要メンバーの対立、感情のもつれ。
③ 留守政府における旧肥前、土佐藩勢力の台頭、旧長州藩勢力の凋落、旧長州勢力に対する江藤率いる司法省の追及
④ 留守政府が、太政官制を改革し、有司専制の基盤を掘り崩してしまったこと。
⑤ 副島の外交姿勢

 これらは政変の結果、どうなったか。

 ①については大久保のヘゲモニーの確立、木戸のフェイドアウトによって解決を見た。

 ②は使節団主要メンバーの圧勝により決着した。

 ③については旧肥前、旧土佐藩勢力地滑り的退潮、旧長州勢力の復権(大久保の後継者は伊藤という路線も確立した。)、司法省による追及の頓挫により解決した。それにより、井上も槇村も逃げおおせることができた。

 井上は、1873年5月9日、外務大輔を辞職し、政府を去っていたが、1875年1、2月の大阪会議の根回しをして、政府への影響力を確保、1876年2月、江華島事件の処理においては弁理大臣の黒田清隆を補佐する副使となって朝鮮との交渉に当たり、日朝修好条規を締結させるのに貢献した。その後、井上は、しばらく外遊をしたあと、1878年6月、伊藤の要請を受けて参議兼工部卿に就任、翌1879年9月、外務卿へ転任。明治十四年の政変では、伊藤の盟友として、大隈追い落し一役買った。

注:政変直後の11月1日、井上は参議兼工部卿となった伊藤に次のような書簡を送っている。熟読玩味して頂きたい。利権あさりの催促状である。わが世の春を謳歌する井上の顔が目に浮かぶようである。

 「・・・早速ながらわがままがましくそうらえども、工部卿職に対しそうらいて申しあげそうろう。諸鉱山への税御免と□□(破損により不明)鉱山だけは是非とも生(:井上のこと)へおうせつけられたく願い奉りそうろう。また飛騨高山鉱山の儀は小民稼ぎ(小規模経営という意味)に従来の弊多くこれありそうらえども、充分見込みもこれありそうろう山にそうろうあいだ、一応鉱山寮に(工部省の部局である)のものにお引けあげ下されそうらいて、わが会社へお任せ下されそうらえばありがたく存じそうろう・・・」


 山縣は、1873年4月18日、あいつぐ不祥事と自身に対する疑惑の責任をとり、一旦、陸軍大輔を辞職したが、その後間もなく、西郷に救ってもらい、同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理。)に就任(同年6月には正式に陸軍卿となる)、やがて帝国陸軍と近・現代日本の政界に、長州閥という魔物を埋め込むことに貢献することとなった。

 ④については岩倉の閣議決定無視、太政大臣の上奏権の不可侵なる言動により、内閣・閣議を国政の最高意思決定機関とした1873年5月2日改正の太政官職制を失効せしめ、太政大臣(もしくは左右大臣)の上奏権と輔弼専権が再確認された。有司専制は復活した。

 ⑤については、副島の退任により、外交姿勢は転換されることになった。
 副島の外交姿勢というとき、朝鮮への大規模侵攻論だけではなく、外国人の国内旅行の自由を求める諸国との交渉姿勢もその中に入る。安政以来の、修好通商条約では、締約国の諸国民の移動範囲を開港場から10里以内と制限していたが、これを撤廃し、これら諸国民の内国旅行の自由を求める声が諸国外交団から上がっていた。副島は、これを容認することに前向きであったのである(パークスの1873年12月8日付本国外務省への報告)。
 政変後、外務卿に就任した寺島は、11月8日に行われた諸外国代表との会談で、副島の下で煮詰められつつあった「内地旅行規則案」について論議することを拒否した。その弁を確認しておこう。

「(超訳要旨)各国は風俗・文化を異にしている。だから各国民に内国旅行の自由を認めるのは不都合である。治外法権の下でも外国人の内国旅行の自由を認めている国もあるが、わが国は、そうした諸国の経験を研究した上でなければ交渉には入れない。」(日本外交文書第6巻)。

 やがて時代は、明治憲法の制定、国会開設へと進んで行く。この近代日本の立憲政治の草創期が、伊藤のような政治家に道筋をつけられたことは、私たち現代を生きる者にとって幸せであったのか、不幸であったのか、それは現在の政治状況の評価とともに各人各様の考えとなるのであろうが、私は、不幸であったと考える一人である。

 明治六年の政変、明治十四年の政変により、フランス流立憲政治、アメリカ流立憲政治、イギリス立憲政治、いずれにも向かい得る多様な可能性は消去され、プロシア流の疑似立憲政治へと選択肢が絞られた。法律によっていかようにも制限できる「自由」と「権利」、万世一系の天皇の大権、統帥権の独立。その下でわが国は、産業の発展と軍事大国化の道をひた走り、植民地と市場の確保のために軍事力を行使し続ける。気づいてみれば、軍国主義、ファシズムが席巻し、アジア全域を侵略し、世界を相手に無謀な戦争へ突入に突入していた。
 しかし、敗戦によって、その道が完全に断ち切られたわけではない。今も、わが国民は、疑似立憲政治の呪縛から解き放たれてはいないのである。

          (続く)

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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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