憲法改正の立憲主義的規制

 戦前、東の美濃部達吉博士、西の佐々木惣一博士といえば、憲法学の権威として、相並び立つ存在でした。お二人は、絶対主義的天皇制を定めた明治憲法を立憲主義的に解釈したことでも知られています。

 美濃部博士は天皇機関説を唱えましたが、これは天皇大権を制限し、国民殊にその代表者としての議会を政治の中心におく考え方でした。
 佐々木博士は、大正7年に、『立憲非立憲』なる一般国民向けの啓蒙書を書き、その中で、「違憲とは憲法に違反することをいうに過ぎないが、非立憲とは立憲主義の精神に違反することをいう。違憲はもとより非立憲であるが、違憲でなくとも非立憲という場合があり得るのである。しかればいやしくも政治家たる者は違憲と非立憲との区別を心得て、その行動の、ただに違憲たらざるのみならず、非立憲ならざるようにせねばならぬ」と述べています(『立憲非立憲』講談社学術文庫)。

 フランス革命下で採択されたフランス人権宣言(人及び市民の権利宣言)は、第16条で、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない。」と謳っています。フランス人権宣言は、基本的人権の保障、三権分立の確立によって国家権力を縛ることを高らかに宣言しました。これが本来の立憲主義です。

 両博士は、明治憲法を、できるだけこれに近づけようと努力をしたのです。

 戦後、わが国は、国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義、三権分立を定める日本国憲法によって、立憲主義を闡明しました。

 国家権力を縛るのが立憲主義とだということは、かなりポピュラーになりましたね。

 さて憲法は国の最高法規ですから、これを改正することは、法的には最高度の国家権力の行使です。この法的には最高度の国家権力を憲法制定権力といいます。国民主権の日本国憲法では、それは、国民に帰属します。

 立憲主義の下では、国民自ら行使すべき憲法制定権力こそ、最も厳しく縛られなければならないというパラドキシカルな規制の下におかれます。

 日本国憲法では、その縛りは、面手続きと実体面の両面からかけられています。

 まず手続き面から。


 憲法96条によって、衆参各議院の総議員の三分の二以上の賛成による発議と国民投票における過半数の賛成による承認が要件とされています。

 次に実体面から。

 その第一は、日本国憲法の核である国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義、三権分立を変更してはならないということです。

 その第二は、憲法を改正しなければならないやむを得ない事由が存在し、改正することに合理性、相当性があるということが実証されなければならないということです。通常、憲法改正に関わる立法事実といわれるものです。

 たとえば国民のいのちと暮らし、権利と自由を守るのに必要不可欠な政策を実現するのに憲法のある規定が障害となり、これを改正することなくしてはその政策を実現することができないということが実証されれば、当該規定を改正すべき立法事実が存在すると認められます。しかし、当該規定の合理的解釈によって、必ずしも政策実現の障害にはなるものではないということがいえる場合には、当該規定を改正すべき立法事実は存在しないことになります。

 この点を正しく理解しておかなければなりません。

 ある政治家、ある特定政治集団の憲法9条を変えたいとの信条や情念などは、悪しきポピュリズムとはなり得ても、憲法改正の立法事実とはおよそ無縁であることは明らかです。それでもそれを敢えてやってのけようとするような政治家や特定政治集団は、非立憲であり、やがて歴史のくずかごに投げ捨てられるでしょう。

                     (了)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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