漱石生誕150年 『坊っちゃん』の読み方一例(上)

 漱石は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)生まれであるから、今年は、漱石生誕150年である。純文学では、おそらく漱石の作品が、一番多く読み継がれているのではなかろうか。

 その中でも『坊っちゃん』は、最も多く読まれている部類だろう。しかし、その読みとり方は、人それぞれである。

 たとえば吉本隆明氏は、「ひとつは典型的日本の悪童物語を書いたということです。」「赤シャツという文学士の教頭ができてきます。赤シャツは松山中学へ行ったときの漱石の分身です。知的なエリートである漱石は、赤シャツの方に投影され、幼児期あるいはもっと小さい時期の母親に育てられたときのじぶんの悪童性が『坊っちゃん』に表れています。必ずしも『坊っちゃん』が漱石の自画像ではなくて、漱石の優れた英文学者としての姿は赤シャツのなかに投影されています。」と述べている(吉本隆明『漱石を読む』ちくま文庫)。

 小説は多義的に読まれなければ優れた作品とは言えない。『坊っちゃん』の読まれ方は、本当に多義的である。

 「『坊っちゃん』は、校長の狸は山縣有朋、教頭の赤シャツは西園寺公望、画学の教師野だいこ(野だ)は山縣の子分の桂太郎と解読して読め。」

 英文学者で元慶応大学教授の赤木昭夫氏は、『漱石の遺言「坊っちゃんの」の風刺』(『世界』2016年4月号、5月号)で、このようなことを述べておられる。

 赤木氏は、『坊っちゃん』には、このようによむべき記号が三つあると言われる。「山城屋」と「松」と「マドンナ」である。

 一つめの「山城屋」。東京の坊っちゃんの生家の隣家の質屋の屋号は「山城屋」であり、坊っちゃんが松山に赴任して最初に泊った旅館の屋号は「山城屋」であった。
 坊っちゃんの生家の庭には栗の木があった。ある日、「山城屋」の息子が、栗泥棒に入り、坊っちゃんにつかまえられ、組みうちの末、一段低い質屋の敷地に転落してしまった。このことが坊っちゃんの子供時代の悪行、いたずらとしてさらりと書かれている。
 松山の旅館「山城屋」では、一日目は、品定めされたのか、階段下の暗くて熱い小部屋に押し込められたが、茶代として5円やると、二日目は15畳もの広々とした部屋に移され、下にも置かぬもてなしに変じた。

 泥棒、転落、金の力。確かにこれはただならぬ言葉的雰囲気の中で、「山城屋」という屋号が使われている。これには尋常ならざる意味が込められているようである。

 私は当ブログに書いた『明治維新という時代』の第三話『大西郷は永続革命を目指したのか』のなかで次のように書いた。

 「元長州騎兵隊幹部にして山縣の部下であった山城屋和助なる兵部省⇒陸軍省御用商人に、陸軍省は、総計64万円余りの大金(国家予算の1%ほどである)を貸し付けていた。山城屋は、これを生糸相場や遊興費に費消した挙句、1872年12月29日、陸軍省内で割腹自殺。山縣の公金横流しと同人から遊興費等を融通させていたとの疑惑があり、山縣は窮地に追い込まれたが、陸軍省の混乱を防ぐために西郷が奔走し、助けた。
 しかし、山縣は、旧長州藩御用達から陸軍省御用商人となっていた三谷三九郎なる者が陸軍省公金35万円を借り受け、返済不能となった件でも陸軍省内部で疑惑を持たれ、翌1873年4月18日、辞職を余儀なくされた。ただ、このときも西郷が陸軍省の混乱を防ぐために環境を整え、わずか11日後の同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理)として復職させた。
 なお、これらの事件については、司法卿江藤の追及の的になっていたことは言うまでもない。
 山縣にはその後も黒いうわさが絶えなかったが、やがて内閣総理大臣、帝国陸軍のドン、そして維新の元勲としてそのときどきのキングメーカーになる。みごとというべきだろうか?」

 二つめの「松」。坊っちゃんが赤シャツと野だに誘われて釣りに出かけたときに、沖合の小島に見えたみごとな一本の松の木。赤シャツと野だが、この松をめぐって、イギリスの画家ターナー談義をし、野だがこの小島をターナー島と名付けましょうと発案、赤シャツは、そいつは面白い、われわれはこれからそういおうと賛成する。
 庭園造りにかけては、玄人はだしの山縣。前出の『大西郷は永続革命をめざしたのか?』で、松本清張『象徴の設計』(松本清張全集17・文芸春秋社)の中で、伊藤が山縣自慢の邸宅・椿山荘に山縣を訪れて交わしたやりとりを引用したが、その少し前のところで、こんな場面が描写されている。

 「伊藤はまず黄昏れかける広い庭を逍遥した。背の低い伊藤と長身の有朋とはなだらかな傾斜をならんで下り、滝を眺め、小渓を渡り、池に佇んだ。『なるほどこれは大したものだ』と伊藤はほめた。『おぬしの庭づくりの腕はえらいものだ。噂には聞いていたが、こねえにええとは思わなんだ』」

 庭園造りが嵩じて、山縣は、1896年には、京都・南禅寺の西隣に無隣庵を完成させる。今は、京都を訪れる観光客の目をたのしませる場となっているが、ここには、明治天皇から下賜された二本の松が植えられていた。山縣はそのことを自慢話に吹聴しており、新聞でも大きく取り上げられたりしていた。「坊っちゃん」が書かれた1906年3月当時、松といえば、容易にこのエピソードが連想された。

 三つめは、マドンナ。「ターナー島」の松の話の続きで、野だが「あの岩の上に、どうです、ラファエルのマドンナを置いちゃ。いい画ができますぜ」と言うと、「マドンナの話はよそうじゃないかホホホと赤シャツが気味の悪い笑い方をした。」とあって、坊っちゃんが「マドンナというのは何でも赤シャツの馴染みの芸者の渾名か何かに違いない」、「なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない」と思う。
 山縣は、日本橋「吉田屋」の芸者大和(吉田貞子)を囲っており、1893年正妻が亡くなると入籍はしなかったものの家に入れ、後妻として扱うようになった。これも当時、知らぬものはいなかった。

 確かに、『坊っちゃん』では、山縣が、重要な登場人物に擬せられているようだ。
                               (続く)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR