立憲君主制と象徴天皇制の間 (4)

津田博士とはやや異なる構成ながら、日本法制史の大家、石井良助博士も、戦後いちはやく、かねてからの自説であった「天皇不親政の伝統」に、新たに「刃に血ぬらざるの伝統」を追加・補充し、象徴天皇制原則こそ天皇制の伝統回帰だとして理論的に位置づける一連の労作を発表された。
今、私の手元にある「天皇 天皇の生成および不親政の伝統」(講談社学術文庫)をひもといて、石井博士の所説を見てみよう。

紀元前1世紀ごろ、日本の状況は「漢書 地理志」の短い記述、青銅器の分布状況から、九州を中心とする小国家群(銅剣・銅鉾文化圏)と、近畿を中心とする小国家群(銅鐸文化圏)とが対立していたと考えられる。紀元1世紀ころには、「後漢書」の記述により九州を中心とする小国家群の統合が進展していた様子がうかがわれる。一方、そのころ近畿でも統合が進んでいただろうと思われる。その中心は邪馬台国であったと考えられる。紀元2、3世紀になると、青銅器にかわって鉄器の使用が一般化し、二つの文化圏の統合が進行する。その統合者となったのが邪馬台国であり、その女王・卑弥呼であっただろうと思われる。それはいわゆる3世紀半ばの日本事情を書いた「魏志倭人伝」を根拠とした推論であり、古墳の考古学的研究からも裏付けられる。

「魏志倭人伝」の記述から、女王卑弥呼の任務は神の意思を「知る」ことにあったと考えられる。天皇の支配を「しろしめす」と言うのはここに由来する。そして神意を述べることを当時の言葉で「のる」と言い、これが後に天皇の「みことのり」になる。しかし、神意を知り、それを「のる」だけで支配できない。そこに外部に伝え、威令を遍く行き渡らせる者、当初は「男弟」、後には重臣が必要とされる。卑弥呼、後に天皇は、神意を知り、それをみことのりする、そして重臣が実際にはこれ執行する。天皇は「不親政」なのだ。

卑弥呼は3世紀半ばに死に、一族の女、台与があとを継いだが弱体化が進む。その機に北九州の一国、おそらく「奴国」の長が、東遷し、平和的に邪馬台国の王の地位についた。それが第10代とされる崇神天皇である。記紀の表記で、崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」とされているのは、そのことを意味する。一方、台与は、記紀の表記では「豊鋤入姫命」で、崇神天皇の皇女とされているが、実際には、姥(祖父の姉妹)として崇敬の対象とされた。
 
崇神天皇は、かくて近畿、北九州を統合する邪馬台国=大和の王となり、四道将軍を派遣し、宗教的威力をもって刃に血を塗ることなく、周辺諸小国を服属させていく。
    
このように漢書、後漢書、魏志倭人伝、古事記及び日本書紀の記述と考古学的知見に基づいて上代の歴史とその支配構造の論述が続く。上代において既に「天皇不親政」、「刃に血塗らざる」は確立し、我が国天皇の伝統となったと言うのである。そしてその後の歴史を通覧し、以下のように述べる。

前記の諸変遷のなかにおいて、天皇親政が標榜され、かつ行われたのは奈良時代を中心とする上世と近代だけである。ところが、この両時代とも、外国法継受時代である。上世はすなわち中国より律令制度が輸入された時代であって、我が国の全制度は中国化されたのである。そこに成立した天皇制は中国式天皇制であり、当時の天皇は中国式の皇帝であった。明治初年において天皇親政が強調されたが、それは王政復古が標榜された時代であり、太政官政治時代であり、当時の天皇はいちおう律令的な天皇の復活と規定しうるのであるが、やがて採用された立憲制度における天皇制は、明瞭にヨーロッパ、ことにプロシア流の皇帝を模倣したものである。ここに成立したのはプロシア的な天皇である。

かくして石井博士にあっては、日本国憲法の象徴天皇制は、まさに我が意を得たりというわけである。私は、石井博士の見解もなにやら現実離れをしているように思う。しかし、津田博士にしても、石井博士にしても、論理的に反駁するとなるとこれはなまなかなことではいかない。今すぐにはとても無理だ。しかし、あと数年の余裕をもらえればある程度の反駁ができるのではないかと心に期すものがある。人の上に人をつくる制度、人の外に人をつくる制度は民主主義とは相容れない。このままほっておくわけにはいかないのだ。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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