天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(1)

 「戦国時代の群雄割拠を終焉させて天下統一を実現した英雄三人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について、『織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川』と言い表わされるのは有名である。これをもじって明治維新の王政復古を三人の天皇、光格天皇、孝明天皇 明治天皇で表現してみると『光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治』ということになろうか。」(藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫))

 幕府の支配下にあった天皇・朝廷

 戦国時代、没落し、疲弊の極に呻吟していた天皇と皇室は、天下統一の過程で、覇者による支配に権威と正当性を与え、位階・官職を授与することで家臣・諸大名を圧服する道具として、その存在意義を見出され、覇者の庇護を受けて、存続することができた。

 徳川幕府が成立し、幕藩制統治システムが成立すると、1615年、「禁中並びに公家諸法度」が制定され、天皇と朝廷は、幕府の定める法令により規律されることになった。

 幕府による天皇、朝廷支配は、将軍⇒老中⇒京都所司代⇒禁裏付と順次下達され、公家の武家伝奏⇒関白⇒天皇と「上達」され、貫徹する仕組みとなっていた。

 上記諸法度第1条には「天子諸芸能の事、第一御学問なり」と天皇の在り方が定められおり、第11条には「関白、伝奏並びに奉行職事申し渡す儀、堂上・地下の輩相背くにおいては、流罪たるべき事」と朝廷官人(堂上は殿上人、地下は昇殿を許されない官人)が幕府の刑罰権に服することが定められている。幕末に激変するのであるが、それまでの朝幕関係の実際を見ると、幕府の威令は天皇、朝廷を覆っていたことがわかる。
 経済的にも、幕府が献上した禁裏御料3万石や上皇・公家所領など、朝廷の支配下にある所領は10万石、一貧乏藩の域にしか達し得ず、天皇、朝廷は、幕府の丸抱えと言うに等しい状態であった。

 幕府による天皇と朝廷支配にかげりが見えるのは、18世紀末頃からである。直接の契機となったのは1782年(天明2年)、天明の大飢饉である。幕府のおひざ元ともいうべき関東地方各地に頻発する大規模な百姓一揆は、幕府、将軍の威光を容赦なく叩きのめす。それと反比例して、尊王思想が、勃興する。

光格天皇による天皇・朝廷の地位引き上げの努力

 この流れに掉さし、上手に身をまかしたのは光格天皇であった。

 光格天皇は、傍系の閑院宮家出身で、1779年(安永8年)12月、即位し、1817年(文化14年)5月に退位するまで(退位後の1840年(天保11年)12月崩御までは上皇。歴史上最後の上皇である。)、天明大飢饉後の尊王思想の民衆への普及と幕府の朝廷尊重姿勢への微妙なポジション移動を読み取って、窮民救済を指示し、民衆の支持を確固たるものとし、宮中の神事・祭式を復興させ、先例に基づいて朝議を復興させ、天皇の威厳を高めて行った。

 1782年(天明2年)、天明の大火により京都御所が灰燼に帰すると、光格天皇は、消失前の御所ではなく古式の復古的御所の造営をすることを幕府に求めた。財政難の中、造営費を節約したい幕府は、事を重大と見て、老中松平定信を御所造営の総奉行に任命、復古的御所造営を断念させようとしたが、この交渉の中で、朝廷側は、プランをまとめて幕府側に突き付けるという従来なら考えられない強引なやり方をとり、光格天皇の初志を貫徹し、1790年(寛政2年)、復古的御所が完成すると、仮住まいの聖護院を出て、鳳輦(ほうれん)に乗り、美々しい行列を従えて、新しい御所に移った。

 このときの朝幕間の交渉において、もう一つ大きな変革がもたらされた。それは、従来、朝廷側の武家伝奏が一方的に京都所司代の屋敷に赴くというやり方であったが、光格天皇は、これは昔からそうであったわけではないから改めるできであると主張し、京都所司代の役人も、武家伝奏の屋敷を訪れるようにさせたことである。

 このようにして次第に、天皇・朝廷の地位は引き上げられ、朝幕対等の関係が築かれていくことになった。

                           (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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