天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(3)

「天皇」の尊号復活

 古来、「天皇」の尊号は、死去後におくられる諡号(しごう)もしくは追号(ついごう)として用いられてきた。このように使用されてきた「天皇」の尊号が、10世紀の終わり村上天皇(在位946年~967年)以来、実に、約900年にわたって中断されていたと聞くと、多くの人は意外に思うかもしれない。この間、「院」の号が「天皇」の尊号にかわって用いられてきた。
 江戸時代に編纂された公家・朝廷の職員録『雲上明覧』では、村上天皇の次は冷泉院、光格天皇の先代は後桃園院、その間も全て「○○院」と表記されている。

 なんのことはない。金のあるものは、貴賎を問わず死後には、「○○院」の称号を授かっていたのである。この世に先がけて、あの世では、四民平等であった。

 これまで光格天皇と書いてきたのでそのまま続けるが、光格天皇は、1840年(天保11年)死去した。すると死去した翌年、閏正月に、彼に、「光格天皇」なる諡号(しごう)がおくらた。だから光格天皇と称されるのは、死後のことなのである。

 これは、幕末の動乱に引き継がれる直前の不安定な時代に、38年間在位、院政の時期も含めると41年間、天皇と朝廷の地位引き上げに腐心し、多大の功のあった怪物といってもよい異例の人物であった彼には、ふさわしい処遇であったと言ってよい。

 しかし、こうしてできた先例は、これ以後、引き継がれる。もっとも1868年10月23日(慶応4年9月8日)発せられた明治改元の詔により、天皇一代元号一つという一世一元の制が定められてからは、「元号+天皇」の尊号が用いられるようになったのであるが。
 「天皇」の尊号復活は、現実政治においても独り歩きし、当代の天皇の格式と威厳を一層高めることになった。もはや朝幕関係において、天皇・朝廷優位は動かし難い現実の力を持つに至るのである。

 なお、冷泉院から後桃園院に至る57代の「院」が「天皇」と呼称されることに改められたのは、1925年(大正14年)のこと、時の政府が、わざわざそのようなことを定めたのである。しかし、歴史は上書きをしても消去はできない。

攘夷原理主義と大政委任論原理主義の狭間で

 さて、光格天皇がこねた王政復古餅、ついて完成させたのは孝明だと藤田覚氏は言われたが、その孝明天皇が即位したのは、1846年3月(弘化3年2月)、以来、彼は、1867年1月(慶応2年12月)、死去するまで、文字通り、幕末動乱の時代を、悩み、苦しみ、もだえつつ生き抜いた

 孝明天皇は、この動乱の時代に、一方では硬直した攘夷原理主義者として、名もなき衆生を政治の世界に引きずり込み、他方では、これまた硬直した大政委任論原理主義者として、公武一体論に固執し、前者によって討幕論にまで突き進んだ勢力から、その勢いをそぐ障害物とみなされることになる。

 その死について、岩倉具視による毒殺論など学者による論争まで行われているが、その生きざまの鮮烈な印象がそうさせている一面もあるようである。

 いずれにしても、孝明天皇は、天皇・朝廷の地位・権威を、もはや将軍・幕府も手を触れることができないほどの高みに引き上げた。その経緯の若干を次回に述べることとする。

                         (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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