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天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(4)

海防勅書

 孝明天皇が即位した1846年3月(弘化3年2月)といえば、清国が阿片戦争でイギリスに蹂躙された記憶もまだ新しい時期、わが国にもアメリカ、イギリ、フランスの軍艦が来航して航路・港湾の測量や通商を要求することが頻繁になっていた。

 祖父光格天皇から天照大神、神武天皇に伝わる万世一系の皇統の教えと、それをバックにした強烈な君主意識を叩きこまれた孝明天皇は、この状況に条件反射し、光格天皇も成しえなかった挙に出た。同年10月21日(弘化3年8月29日)、幕府に要旨以下の如き勅書を下した。

 「近年異国船がときどき来航するという噂を耳にしている。幕府は、異国を侮らず畏れず海防を一層強化し、『神州の瑕瑾』とならないように処置し、宸襟を安んじるように」
 
 世にこれを海防勅書と呼んでおり、天皇が幕府の対外政策に直接介入したはじめてのできごとである。

 さらに武家伝奏は、上記勅書を伝達する際、(要旨)「異国船の儀、文化度の振り合いもあるから、差し支えない範囲で、最近の状況を報告されたい」との要望を付け加えている。「文化度の振り合い」とは、1807年(文化4年)、幕府が朝廷に、蝦夷地に来航したロシア船との紛争を報告した先例に倣ってという趣旨である。

 幕府は、これを異例・異式として咎めるどころか、同年11月21日(弘化3年10月3日)、要旨以下の回答を行った。

 「先般のお沙汰は、将軍に言上されることになりました。最近の異国船渡来の模様については、老中より、文化度の振り合いでよろしく取り計らえとの意向が示されましたので、禁裏付武士へ伝えました」これにより、幕府は、対外情勢を朝廷に報告することが慣例化し、外交問題に関し、天皇・朝廷が幕府に、指示・要求を出せる仕組みのひな形となる。

五畿内七道諸国司への太政官符

 1853年(嘉永6年)と翌年のペリー来航と日米和親条約については、あたらしくできた慣例に従い、幕府から朝廷に対し、報告がなされた。これに対し、孝明天皇は、武家伝奏を通じて、「アメリカへの回答を行うにあたっては「神州の一大事であり、人心動揺により国内が混乱し、国体を辱めることがないように」と一般論的な叡慮を伝えさせるにとどめざるを得なかったが、その際、老中阿部正弘らから、幕府としては、アメリカへの回答は穏便に扱わざるを得ませんが、叡慮を安んじることを重視しています、今後、こうしたいと思われることがあれば遠慮なくお申し付け下さい、お申し付けに従いあらためて対応をします、との返事を得た。

 天皇・朝廷が、幕府に対し、指示・要求を出せる仕組みが確認されたのである。しかし、このチャンスに、朝廷において、アメリカへの回答をめぐって意見対立があり、幕府への大政委任論の立場から、幕府に任せるべきだという意見が大勢を占めた。

 日米和親条約締結直後の1854年11月8日(嘉永7年9月18日)、今度は、ロシア使節・プチャーチンの乗る軍艦ディアナ号が大阪湾天保山沖に来航した。お膝元を不意打ちされて動転した孝明天皇と朝廷は、1855年2月9日(安政元年12月23日)、国家的危難を救うためとして、五畿内七道(古代日本の律令制国家の広域地方行政区画)の諸国司へ「諸国の寺院の梵鐘」を「皇国擁護の器」である大砲に鋳かえることを命じる太政官符を発した。これは内容といい、また形式といい、あまりにもアナクロニズムであり、かつまた梵鐘を大砲に鋳かえることは不穏当ということで、実効ある命令とはならなかったが、幕藩体制と朝幕関係を根本から揺るがす大事件であったことは否定できない。以後、幕府は、天皇・朝廷の意向を重要視せざるを得なくなって行く。

                                (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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