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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その8

幣原喜重郎について

 私は、歴史は、傑出した人物によってつくられるなどという偉人史観に決して与するものではない。有名無名の民衆の営みこそが歴史を動かす原動力であり、民衆が歴史をつくるのである。しかし、ある時期、ある情勢のもとで、民衆の動向をキャッチして、ある個人がその思想を飛躍させて、思い切ってとった行動や発言が民衆の営みに跳ね返り、それによって歴史の歯車が動き始めるということは、あり得ることだと私は考える。憲法9条制定史においてもそれは同じことが言える。

 これまで、憲法学者宮沢俊義の「転向と前進」、昭和天皇の「勅語」「詔書」を検討し、幣原を登場させてきたのは、そういう趣旨である。このストーリーは、もう一人、マッカーサーを巻き込み、そうして実らせた果実を民衆が受け取り、賞味することにより完結し、歴史となる。

 さて、ここで幣原とはどんな人物か、ひととおり見ておきたい。

 幣原は、1872年生まれ、1895年東京帝国大学卒業、病気のため1年遅れて1896年10月外務省入省、朝鮮・仁川領事館領事を皮切りに外交官生活に入った。1914年12月、義兄加藤高明が、第二次大隈重信内閣の外相であったとき、日本政府が中国に突きつけた「対支21か条の要求」に対し、オランダ公使の任にあった幣原は、これを公然と批判する意見書電文を加藤外相に送っている。1915年10月、43歳で外務次官に就任、寺内正毅内閣のもとで、1917年、南満州における外交権限が軍部移管されようとしたとき、幣原は、辞表を懐にしのばせてこれに抗議している。

 1918年9月、米騒動による混乱の責任をとって寺内内閣総辞職、かわって政友会・原敬がはじめて本格的な政党内閣を組閣した。原首相は、寺内内閣の外相であり、かつ義兄でもある加藤の意に反してシベリア出兵に反対したことや国際協調外交の姿勢を評価し、あえて幣原を外務次官に据え置いた。

 幣原は、まもなく駐米大使に転じ、1921年から1922年にかけて開催されたワシントン会議で、海相加藤友三郎を補佐して協調外交を展開し、第一次世界大戦後の国際協調の時代を象徴するワシントン体制の成立に大きく貢献したことにより、幣原の平和・協調外交は、一躍、国内外に知られ、高く評価されるところとなった。

注:ワシントン会議・・・米国大統領ウォーレン・ハーディングが、1921年7月、日、英、仏、伊、中などに呼びかけ、開催された。会議期間は同年11月12日から1922年2月6日。この会議開催中の1921年11月4日、原首相が暗殺されたため、政友会・高橋是清内閣となっている。ワシントン会議では、海軍主力艦の削減を主とする軍縮条約、中国の主権・独立・領土保全、中国市場の門戸開放・機会均等などを確認した9カ国条約、太平洋地域における現状維持と紛争の話し合いによる解決を確認した4カ国条約が調印された。
 これをワシントン体制と呼んでいる。


 幣原は、憲政会・加藤高明内閣(1924年6月成立)で、外相就任。加藤没後にあとを継いだ第一次若槻礼次郎内閣(1926年1月成立)が、1927年4月、金融恐慌の拡大処理に失敗して総辞職するまで、その任にあった。この間、米国の排日移民法、中国における北伐開始、排日・民族運動の激化という困難な国際情勢の中で、平和・協調外交を一貫して進め、中国への内政不干渉の姿勢を貫いた。

 1927年4月、第一次若槻内閣瓦解。そのあとを襲い、中国干渉と武断外交を展開した政友会・田中義一内閣が、張作霖爆殺事件の処理をめぐり天皇から問責発言を受け、1929年6月、総辞職、そのあとに成立した民政党(この間に憲政会は、政友会から分裂した政友本党と合同して民政党となった)・浜口雄幸内閣(1929年7月発足)で再び外相就任。浜口首相が暗殺未遂事件により療養中は首相代理を務めた。
 その後、1930年4月、浜口首相の症状悪化、総辞職のあとを受けた第二次若槻内閣にも外相として入閣。1931年12月に総辞職に至るまで、平和・協調外交を貫いた。

 この間1930年4月にロンドン軍縮条約を調印・批准させ、1931年9月、柳条湖事件に際しても閣議で事件は関東軍出先の謀略であるというニュアンスの外務省情報を明かし、朝鮮軍を越境させ、関東軍へ増援部隊を無断派遣した現地司令官林銑十郎中将の処置について厳正な意見を述べている。

 満州事変勃発、5.15事件、2.26事件と世は狂気の支配する時代となる。日中戦争、そして太平洋戦争へと、非常時、戦時と移り行く。わが多くの国民も、偏狭なナショナリズムと戦争熱にとりつかれる。幣原平和・協調外交は、いまや軟弱外交、腰抜け外交、国辱外交、売国外交とまでののしられる。千駄ヶ谷の私邸の塀には「国賊」、「売国奴」の落書きが書きなぐられ、私邸内には石を投げ込まれる日々が続いた。幣原は、こういう無法にじっと耐え、ひっそりと邸内にとじこもり、やがて嵐が過ぎ去るのを待つほかなかった。

 それから14年。幣原は、戦災で自邸を失い、妻の縁で、二子玉川の三菱系の農園内に仮住まいの生活を送っていた。日本降伏の2ヶ月ほど前に、吉田茂が和平工作のキーマンとして幣原を担ぎ出そうとして外務省の後輩市川泰次郎を幣原のもとを訪ねさせたときには、「非常に痩せて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるえ、まことに老齢そのものであった。このようなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさえ怪しんだ」(幣原平和財団編『幣原喜重郎』)ほどに、老け込み、社会から完全に忘れ去られ、歴史の底に沈みこんでいた。

 その幣原が、再び歴史の表舞台に登場する。戦後二代目の首相に就任することになったのである。

 1945年10月6日、東久邇宮内閣総辞職、吉田外相の推挙で、木戸内大臣(当時)が次期総理として天皇に奏上したとき、天皇も驚いたそうだが、この人事を聞いた古手の新聞記者からも「幣原さんはまだ生きていたのか」と驚きの声があがったそうである。天皇からの呼び出しの急ぎの使者が来たときには、ちょうど厨子に確保した別宅にて隠居生活を送るべく引越しのトラックを待っていたところで、幣原にしてみれば青天の霹靂であった。

幣原の戦争放棄原体験

 幣原には、以上述べたところから、戦争放棄の思想をはぐくむ経歴と実績、バックボーンがあった。しかし、それを決定的にしたのは、敗戦の日、1945年8月15日の午後、彼が日本クラブで天皇の放送を聞いたあと、帰宅の途次に電車の中で三十代の男が、「自分は目隠しされて屠殺場に追込まれる牛のような目に逢わされた。けしからんのは我々を馴し討ちにした当局の連中だ」と叫び、群衆がこれに呼応するという光景を目撃したことであった。

 幣原は、後に、このときのことをふり返り、「私は図らずも内閣組織を命ぜられ、総理の職に就いたとき、すぐに私の頭に浮かんだのは、あの電車の中の光景であった。これは何とかしてあの野に叫ぶ国民の意思を実現すべく努めなくちゃいかんと、堅く決心したのであった。それで憲法の中に、未来永劫そのような戦争をしないようにし、政治のやり方を変えることにした。つまり戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹しなければならんということは、ほかの人は知らんが、私だけに関する限り、前に述べた信念からであった。それは一種の魔力とでもいうか、見えざる力が私の頭を支配したのであった。」と回想している(「外交五十年」中公文庫)。

                                 (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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