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「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その11

GHQ草案交付後の幣原の逡巡は何を意味するか

 日本国憲法制定史の研究者古関彰一は、「右往左往を続けた幣原と、説得を続けたマッカーサーとが、のちに『戦争放棄の発案者は幣原だ』と豹変した」と述べ(『日本国憲法の誕生 増補改訂版』・岩波現代文庫2017年4月刊)、9条の起源は幣原の提案にあるとの説を厳しく批判している。

 その批判の根幹をなしているのは、GHQ草案交付後、受け入れの閣議決定に至る間の、幣原の対応である。同書と『平和憲法の深層』(ちくま新書・2015年5月刊)から抜粋すると以下のごとくである。

① 1946年2月13日GHQ草案交付後、同月19日閣議までこれを秘匿し、同閣議で、その他の閣僚とともに「我々はこれを受諾できない」と述べたことをはじめ、幣原は、終始逡巡し、消極的な姿勢をとり続けた(『芦田均日記』第1巻・岩波書店)。

② この閣議後の同月21日、幣原はマッカーサーを訪ね、3時間に及ぶ会談をしているが、その模様が翌22日の閣議で報告された。幣原が報告したマッカーサーとのやりとりは、芦田厚生大臣によって次のように筆録されている(前同書)。

 「吾輩は日本の為めに誠心誠意図って居る。天皇に拝謁して以来、如何にもして天皇を安泰にしたいと念じている。幣原男(ママ)国の為めに誠意を以て働いておられることも了解している。しかしFar Eastern Commission(極東委員会)のWashingtonに於ける討議の内容は実に不愉快なものであったとの報告に接してゐる。それは総理の想像に及ばない程日本にとって不快なものだと聞いてゐる。自分も果たしていつ迄此の地位に留まりうるや疑はしいが、其後がどうなるかを考へる時自分は不安に堪えぬ。
 ソ聯と濠州とは日本の復讐戦を疑惧して極力これを防止せんことを努めている。・・・吾等がBasic Forms(ママ)といふのは草案第1条と戦争を抛棄すると規定するところに在る。・・・戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思う。」 
 幣原は此時語を挿んでLeadershipと言はれるが、恐らく誰もFollowerとならないであろうと言った。
 Macarthurは、
 「Followerが無くても日本は失ふ処はない。之を指示しないのは、しない者が悪いのである。・・・」

 
 幣原が提案したのであれば、何故、このような教えをマッカーサーから受けなければならないのか。

 その閣議でGHQ草案受け入れを決めたが、閣議出席者の入江俊郎内閣法制局次長は、後に前述の憲法調査会で、「幣原は『(GHQの)交付案で、先方の一番の眼目は、天皇の象徴の規定と戦争放棄の規定である。全然このようなことなどは、そのときまで日本は考えたことがなかったといっていいと思う』と言った」と述べている(憲法調査会編「憲法制定の経過に関する小委員会報告書案(第一分冊)」。

 確かに自ら提案しておきながら、それをとりいれたGHQ草案が交付されるや手のひらを返して、受け入れを逡巡し、消極的姿勢を示すなどということは通常あり得ないことである。古関が突っ込むのは、これだけを見ればもっともなことのようである。
 しかし、この幣原の不可思議な対応ぶりについては、先に引用した平野文書により、答えが出されている。再度、引用しておこう。

 「この構想は天皇制を存続すると共に第9条を実現する言わば一石二鳥の名案である。もっとも天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、またなかったからこそ続いていたのだ。もし天皇が権力をもったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。
日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を維持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に戻ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにも良いと僕は思う。

 この考えは僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。

 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出してもらうように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。」

 
 幣原が恐れたのは、戦争放棄の提案をしたことよりも、天皇大権を奪い、象徴天皇制にするということを承諾してしまったことが明らかになることであった。戦前からの連続性と断絶性とが、まさに踵を接して鬩ぎ合っていたとはいえ、天皇制については、連続性を志向する勢力、思想がはるかに優勢であった当時、天皇大権を奪い、天皇を無力化することを承諾したなどということは、いかな幣原でも、口が裂けても言えないことであったであろう。押しつけられたかのように印象操作をしつつ、次第に受け入れへと導いていった、この幣原の手法は、モラルの面で批判の余地はあっても、みごとに成功したのである。

 まとめ

 誤解のないように繰り返しておきたいが、私は、9条が幣原によってもたらされたなどと短絡しているのでないし、いわんや幣原一個人を持ちあげようという意図を持っているのでもないない。ここまでまじめに読んで頂いた読者は、あくまでも資料に基づき、事実を客観的に述べているに過ぎないことを了解されるであろう。

 私が言いたいことは次のことである。

戦後の民衆レベルでの戦争と軍への嫌悪の情と、平和の到来を歓迎し、二度と戦争を引き起こさせたくないという心情が、平和主義国建設の勅語やGHQが次々と打ち出す民主化指令を触媒として、無意識下において成長し、次第に戦争と軍備の放棄の意思へと化学変化を起こして行った。それは、民間憲法草案、幣原と昭和天皇のコラボによる「人間宣言」詔書、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談、政府における憲法問題調査委員会での軍事関条項削除の議論と試案作成、当時の憲法学の第一人者宮沢俊義の「転向と前進」などへとさまざまな形をとって、GHQ草案と政府の「憲法改正草案」へと流れ込み、やがて来るべき第90帝国議会における歴史上類を見ないほどに自由闊達な討議と制定後の政府の新憲法キャンペーン、さらには戦後史を彩る国民的実践活動を通じて、日本国憲法第9条が国民的に受容されて行くことになる。
 幣原は、その流れをひと押ししたに過ぎない。しかし、そのひと押しは決して無視されてはならないのである。

                                (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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