立憲君主制と象徴天皇制の間 (9)

1945年6月8日の御前会議で、徹底抗戦路線に一決したのであったが、その見直しの動きは水面下から公の場に移された。18日、最高戦争指導会議で、9月までに戦争終結するように7月末までにソ連の斡旋を要請することが決定された。
さらに20日、天皇は東郷外相に「最近受け取った報告によって、統帥部の言っていることとは違って、日本内地の本土決戦の準備がまったく不十分であることが明らかとなった。なるべく速やかに戦争を終結せしめることに取り運ぶよう希望する」と申し述べ、22日には、天皇自ら御前会議を招集した。これらは木戸内大臣の根回しによるものだった。招集に応じて出席したのは、鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津参謀総長、豊田副武軍令部総長であった。

会議は、先般の御前会議決定によりあくまでも戦争を継続することはもっともであるが、また一面時局収拾につき考慮することも必要であろう、右に関する所見はどうかとの天皇の問いかけによって始まった。沈黙が支配する中、天皇の指名で鈴木首相が口火を切り、次いで米内海相が、さらに東郷外相が、和平により戦争終結をめざすことをこもごも申し述べた。東郷外相は「連合国は、ベルリン郊外のポツダムで7月半ばに会議を開くと発表しています。その前に、なんとか7月はじめまでにはソ連との協定に達したいと考えます」と方法と時期も明示した。これに対し、沈黙していた他の3名の出席者を代表して阿南陸相は、「特に申し上げることはありません」と述べ、事実上同意した。こうして東郷外相案が承認された。和平によって確保すべきものは、国体の護持、実質的には皇室の存続であることは暗黙の了解事項であった。このかん僅か35分。

当日、沖縄戦は終結。日本軍は殲滅され、戦死者約10万9000人、県民の死者約10万人。米軍の戦死者も多数いただろう。上記のような、いとやんごとなき目的を達するための敗戦の仕方を僅か35分の会議で決めたこととの不均衡・不条理をなんと表現したらいいだろうか。

早速、23日、東郷外相は、広田元首相と会い、ソ連のマリク駐日大使と至急会談を持つように要請、24日、箱根にて広田・マリク会談が実現する。広田元首相は、ソ連との関係強化のために、満州、中国、東南アジアで、ソ連に譲歩する用意があると述べるにとどめ、戦争終結のためソ連の斡旋を求めるとの申し出さえしない、マリクは、「二国間の関係は日ソ中立条約を基礎にして正常に発展しているように思われる。ソ連は条約を破棄する決定を行ったが、ソ連政府は条約を破ったわけではない」と辛抱強く応答、交渉継続を拒まない、即ち本国からの交渉引き延ばしの訓令に忠実に従っている。

続いて29日、東京のソ連大使館にて、広田・マリク会談。広田元首相は、日本の譲歩案として、ソ連の満州国への内政不干渉と領土保全の保障と引き換えに満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連からの石油供給と引き換えに日本のソ連領海での漁業権の放棄、その他ソ連が関心を持つあらゆる問題をあげた。マリクにとっては、ヤルタ密約で得られる獲物と比べてあまりにもみみっちいものであったが「この提案はソ連政府の上層部において真剣に考慮されるであろう」と答えた。心憎いばかりの冷静な対応である。

広田元首相はさらに粘った。しかし、最後は7月11日、ソ連大使館への要請電話にも、マリクは病気と称して会おうとしなかった。広田元首相をたてたソ連との交渉は完全に失敗した。否、誰が行っても失敗に帰する定めにあったのだ。なぜなら既にスターリンは、ヤルタ密約に従い、の対日参戦を決定、その成果を手中にすることにあらゆる努力を傾注していたのだから。

既に7月17日を期して、ベルリン郊外のポツダムに、米英ソ3カ国首脳をはじめ連合国首脳が集い、ヨーロッパ戦後処理策及び対日戦争当事国による対日戦争終結とその後の方策が話し合われることが決まっていた。
それでも東郷外相は、ソ連に天皇の特使を派遣して一挙に打開しようと思いを巡らす。ここで急浮上したのが近衛文麿元首相の名前であった。

7月8日、東郷外相は近衛元首相の意向打診。近衛元首相も乗り気になり、降伏条件は無条件降伏に近いものでもやむを得ないという東郷外相に対し、白紙で臨みたいと申し述べた。10日、最高戦争指導会議で特使派遣を決定、12日、天皇が近衛元首相を特使に任命。事態はめまぐるしく動く。

近衛が携えて行くことになった和平案「和平に関する要綱」は以下のような内容で、相当思い切ったものではあった。
第一に、国体の護持。国体とは皇統を確保し、天皇政治を行うことを主眼とするが、我が国古来の伝統たる天皇を戴く民本主義に復帰することを約束する。
第二に、領土は我が国固有の本土に制限されること、行政が若干の期間監督を受けること、戦争責任者の処分を認めること、一時的な完全武装解除を認めること、軍事占領は回避に努めるが一時的に若干の駐屯を認めることなど。

こうして日本側では天皇特使派遣の舞台回しが進んで行ったが、肝心のソ連は動かない。東郷外相から佐藤大使に訓令を発し、佐藤大使は不承不承にモロトフ外相との会見を申し出るが、ソ連側は外交的体裁を取り繕うだけで、ソ連政府としての責任ある対応をしなかった。近衛文麿天皇特使派遣は幻に終わった。それもそのはずであることは今さらいうまでもない。
なお、これも当然のことながら、米国には、この日本の動きは手にとるように把握されていた。

ポツダム会談では、スターリン対トルーマンの火花飛び交うような駆け引きが始まった。トルーマンもここで磨きあげられた。一方、米英中三国によるポツダム宣言は、米国が用意し、まもなく発出されることになる。

その内容と我が国のぶざまな対応は次回まわしとする。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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