立憲君主制と象徴天皇制の間 (10)

米英ソ三カ国首脳は、1945年7月17日から8月2日まで、ソ連赤軍が占領しているベルリン郊外ポツダムに集い、会談した。これが世にいうポツダム会談である。

ポツダム会談の主たる議題は、ヨーロッパにおける戦後処理、特にポーランドをはじめ東欧問題とドイツにおける戦後処理であり、対日問題は主たる議題ではなかった。以下の論述では、ヨーロッパ戦後処理問題は私のテーマから外れるので、副次的な議題である対日問題に絞ることとする。

ポツダム会談における対日問題、それは微妙な綾を含む問題であった。米国は、できればソ連をこの問題に引っ張り込みたくはない、かといってヤルタ密約の手前、ソ連を完全にシャットアウトするわけにもいかない。ソ連はヤルタ密約の獲物を確実に手にしたい。米国を率いるのは就任後まだ3ヶ月余りしかたっておらず、経験と実績に乏しいトルーマン、頼みの英国も、会談最中に選挙を戦っており、老練かつ剛毅なチャーチルも精彩がなく、やがて選挙に敗北して7月27日からは労働党のアトリーに交代した。これに比べ、ソ連を率いるのは大祖国防衛戦争に勝利し、日の出の勢いの絶対的権力者スターリン。地の利も加わって、スターリンは自信満々である。

しかし、そこにトルーマンへの百万の援軍が現れた。7月16日、随行したスティムソン陸軍長官のもとに「今朝手術終了。診断未完了だが、結果は良好のようであり、すでに予想された以上である」との暗号電文が届いたのである。同日、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠において「トリニティ」と命名されたプルトニウム型原爆実験が行われ、成功したとのニュースである。これで震えがおさまったトルーマンは、17日、スターリンとの会談に臨む。トルーマンの日記には、「彼(スターリン)は、説明したが、それはまさにダイナマイトであった。しかし私のほうも今爆発させることはしないが、ダイナマイトを持っている。・・・・彼は8月15日にジャップトの戦争に入る(と言った)。ジャップもこれがきたら、もうおしまいだ」とある。つまり、トルーマンは、スターリンから8月15日にソ連が対日参戦をするとの言明を引き出したことで得意満面なのだ。

7月17日、夕方、再びスティムソン陸軍長官のもとに「医者は小さな男の子が大きな兄と同様に元気であることを熱狂的に確信し帰ってきた。男の子の目の光はここからハイホールドまで識別することができ、男の子の泣き声はここから私の農場まで聞くことができた」との奇妙な暗号電文が届いた。いつでも投下できる原爆が用意されているという意味だ。

さらに21日、スティムソンのもとに原爆開発の責任者グローヴスから原爆実験成功の詳報が届いた。グローヴスの報告には「爆発の瞬間に放出されたエネルギーはTNT換算15キロトンから20キロトンに達し、爆発台となった70フィートの鉄骨の塔を一瞬にして気化させてしまうほどであった」とある。さらに追いかけてホワイトハウスからトップシークレットの電文が届く。「貴下のすべての軍事アドバイザーたちは貴下のお気に入りのあの都市を好み、その準備をしている。そしてもし乗務員が現地の条件にかんがみ、四都市の中からこの都市を選ぶならばこの都市を選択する自由が与えられるべきであると考える」。この四都市とは、京都、広島、新潟、小倉。さすがにスティムソンは、トルーマンの承諾を得てグローヴスに京都を除外することを指示した。かわって入れられたのが長崎であった。さらにさらに22日、23日と続けざま、8月1日以後いつでも投下可能であるとの連絡が入る。

トルーマンは、原爆の完成と実戦使用可能となったことに大いなる高揚感を覚えた。既にソ連の対日参戦スケジュールを確認したので、あとはそれにあわせて、ソ連の参戦を招かない対日戦の終結スケジュールを組み立てればよいと考えたに違いない。しかも日本に対してもただでさえ強硬な態度をなお強硬にする。

トルーマンは、スティムソン陸軍長官が起草した対日降伏勧告文草案第12条にあった「これは、そのような政府がふたたび侵略することがないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室の下での立憲君主制を含むものとする」との一文を削除し、英国代表団が要望した「天皇の退位あるいは天皇制の廃止を要求するものではない」との文言挿入も拒否し、対日降伏勧告成文を完成させた。

トルーマンは、ソ連は対日戦当事国ではないとの建前論に徹してソ連を排除して動く。24日、トルーマンはスターリンに「我々は尋常ならざる破壊力を有する新兵器を持っている。」と殺し文句。スターリンは平然と受け流したが、実験成功の情報は入手しておらなかったようで、内心は動揺し、トルーマンのなすがままに見守るほかなかった。スターリンは、後にべリヤを怒鳴りつけたということである。

こうして26日、ポツダムの地より上記の対日降伏勧告成文を世界に発した。これがポツダム宣言である。ちなみにポツダム宣言成文の第12条を見てみよう。「連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。」とあるだけだ。

我が国政府がこれを確認したのは27日であった。東郷外相は、「無条件降伏を求めたるものにあらざることは明瞭」、「占領も地点の占領」であり「保障占領であって広範なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と評価し、慎重かつ前向きに検討することを求めた。鈴木首相も一旦はこれに賛同したが、陸海軍内に強硬な反対意見が噴出、28日、記者会見の場で「何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。我々は断固戦争完遂に邁進するだけである。」と述べてしまった。

我が国政府は、御前会議まで行い、つまるところ「天皇と皇室の存続」だけを要求してソ連を仲介者として米英と和平をする方針を決定していたのであるから、ポツダム宣言第12条がスティムソン草案のままであったなら或いは受諾の方向に傾いたかもしれない。いやその可能性は高い。しかし、成文であっても降伏後の政治体制は「日本人民の自由なる意思に従う」のであるから、天皇と皇室が日本人民の支持を得られるならば存続すると読めるだろう。まことに頑迷固陋にして柔軟性を欠いた人たちである。それとも支持を得る自信がなかったのであろうか。

鈴木首相の発言が、拒絶宣言と受け取られたのは当然である。トルーマンの描いた筋書き通りに進んだ。トルーマンは欣喜として原爆投下命令を出し、8月6日の広島、8月9日の長崎に人類史上かってない大虐殺を引き起こしたのである。

象徴天皇制を現実政治に引き直し、まずは我が国が何を望んでいたか「敗戦直前篇」を綴ってきたのであるが、あと少し。2回の聖断に触れるとともに、日本政府当局者にあって、私が一番しっかりした考えを持って対処したと評価する佐藤尚武駐ソ大使の動きを次回に述べて、ひと段落としたい。

※野暮用のため二日間中断することを余儀なくされました。お読み頂いている方には申し訳ありませんがご容赦のほどお願い致します。。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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