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立憲君主制と象徴天皇制の間 (11)

トルーマンが原爆投下命令を自ら出したのか、出したとしてそれはどの時点のことであるのか、さまざまに取り沙汰されている。いくつかの断片的事実はあるが、それらは決定的なものではなく、確定困難である。しかし、私は、トルーマン自身が日本のポツダム宣言拒否直後に最終命令を出したものであろうと考えるのが妥当であると思う。
その理由は、大量破壊兵器の使用を無条件降伏勧告もなしに命じてしまうということは正当性を欠くであろうということ、ソ連の対日参戦を防ぎつつ日本に無条件降伏をさせるという高度に政治的な決断を大統領以外のものが代行できないだろうということからだ。

一方、スターリンは、それまでの日本側からソ連への働きかけに照らし、ポツダム宣言をすんなりと日本が受諾してしまうことはないと考えた。このポツダム宣言にソ連政府が加わっていないことも、日本がソ連に期待をつなぎ、直ちに受諾しないだろうと考える根拠になった。
しかし、スターリンは、トルーマンの言う「尋常ならざる破壊力を有する新兵器」が使用された結果日本が抗戦意欲を喪失して降伏してしまうことには大いなる危惧を抱いた。勿論、スターリンは、その「尋常ならざる破壊力を有する新兵器」とは原爆のことであることは把握していたであろう。そこでスターリンは、さらに対日参戦の時期を早めるように命じた。

鈴木首相のポツダム宣言黙殺宣言、即ち拒絶は、我が国政府が、世界から置き去りにされ、こうした米ソの赤裸々な主導権争いとは全くかけ離れた別世界に浮遊していたことを如実に示していた。ましてや「天皇と皇室の存続」の保証がないことがその理由であったことにおいておやである。

東郷外相は、広島への原爆投下とその甚大な被害を知った後も、8月6日午後5時、7日午後3時40分と続けて、モスクワ駐在の佐藤駐ソ大使に、ポツダム会議から帰還したモロトフと至急会見するように指示する訓令電を発している。折り返し佐藤大使から東郷外相にモスクワ時間7日午後7時50分発の、「明日午後5時にモロトフと会見予定」との電文が届き(この電文が東郷外相のもとに届いたのは8日正午であった。)、一縷の望み抱いたのであった。

7日午後、閣議。ポツダム宣言を基礎に戦争終結を求める意見も出たが、反対の意見にかき消されてしまう。8日も無為に過ごされる。当日、米内海相と東郷外相との間には、ソ連の和平斡旋の件、「今日明日には何とか言ってくるだろう」との会話が取り交わされている。

ポツダム宣言受諾に大きく傾いたのは8月9日のことであった。
同日午前4時ころ、モスクワ放送が対日宣戦布告を報じ、これを外務省ラジオ室と同盟通信が受信。直ちに迫水久常内閣書記官長が、鈴木首相に電話で報告した。
なお、モスクワ時間8日午後5時、佐藤駐ソ大使は予定通りモロトフとの会見のためクレムリンに赴いたが、そこでモロトフからソ連政府名による宣戦布告の声明文を読み上げられた。

「連合国はソ連政府にたいして、戦争終結までの時間を短縮し、犠牲者の数を少なくし、全世界の速やかな平和の確立に貢献するために日本の侵略にたいする戦争に参加することを申し入れた。」
ソ連政府は、ソ連の参戦こそが「平和の到来を早め、今後起こり得る犠牲と苦難より諸国民を解放し、またドイツが無条件降伏を拒否した後に体験した危険と破壊から日本国民を救うための唯一の方法である」と判断し、「明日、即ち8月9日よりソ連と日本は戦争状態にあるものとみなす。」

ここに「8月9日」とあるのはモスクワより6時間早いザバイカル時間であり、日本時間と同等である。戦闘行動開始1時間前の通告だということになる。佐藤大使は、モロトフの許可を得て、ただちにそのテキスト写しに基づき、日本外務省への電文を用意し、ソ連側に託したがその電文は届いていない。その1時間前の通告さえも本国政府には届いていないのである。

ソ連軍が満州国境を越えてなだれ込んだのは日本時間で9日午前2時。ソ連政府の対日宣戦布告を流すモスクワ放送を外務省ラジオ室と同盟通信が受信したのはそれから2時間ほど後のことであった。同日、以下述べるが如く、東郷外相は多忙を極めたので、ソ連のマリク駐日大使との会見に応じたのは10日になってからのこと、マリク大使が宣戦布告文を読み上げた後、同人に怒りをぶちまけたとのことである。怒るよりはソ連にたばかられたことを恥じるべきではなかったか。

9日早朝、東郷外相以下外務省首脳は緊急会議。ポツダム宣言を受諾して戦争を終結させるほかはないこと、ポツダム宣言受諾の条件は皇室の安泰のみとすること、しかしその条件交渉をするのではなく一方的に「ポツダム宣言受諾は皇室の地位にいかなる影響も及ぼさないという理解の下に」と宣言することを確認した。

午前8時ころ、東郷外相は鈴木首相宅を訪問、外務省首脳の確認事項を伝えた。鈴木首相は、「ともかく陛下の思召を伺ってからにしましょう」といって、すぐに宮中に向かった。そこで木戸内大臣より、天皇から「戦局の収拾につき急速に研究決定の要あり」と命じられた旨聞き、午前10時30分から最高戦争指導会議を開催する招集をかけた。一方、東郷外相は、米内海相と会い、外務省首脳確認について承諾を得た。

最高戦争会議が始まったのは午前11時近くからであった。そこで東郷外相は、外務省首脳の確認どおり皇室の安泰を唯一の条件としてポツダム宣言を受諾すべき旨をよどみなく提案した。鈴木首相、米内海相がこれに同調した。これに対し、阿南陸相は、梅津参謀総長、豊田軍令部総長はこれに反対し、三者の間でややウェートの置き方が異なるものの、皇室の安泰を含む国体護持、占領範囲と態様、武装解除は我が国自身の手で行うこと、戦争犯罪人の処罰は我が国が行うことの4条件のもとにポツダム宣言受諾を主張した。

その会議の最中に2発目の原爆が長崎に投下されたとのニュースが飛び込んだ。しかし、3名の態度は変わらない。最高戦争会議を中断して、午後2時半から臨時閣議に移行、延々午後10時まで続けられたが阿南陸相は態度を変えない。阿南陸相は、国体を護持する保障は軍隊の維持にある、軍隊が存在しなければ一条件であっても履行させる手段はない、原爆投下とソ連参戦のもとでは勝利は不可能であるが、大和民族の名誉にかけて戦い続けるべきだと狂気の主張をするばかりであった。

その間、鈴木首相は、天皇臨席のもとで最高戦争会議(御前会議)を行い、天皇の「聖断」による事態打開を図ることを画策。午後11時50分、宮中防空壕内で平沼騏一郎枢密院議長も加えた御前会議が開催された。東郷外相は、かねての外務省首脳確認が少し変更された「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾するとの一条件案を書面に基づき主張、これに対し阿南陸相が四条件案を同じく書面に基づき主張、三対三の対立の構図が再び繰り返された。議論は紛糾し、午前2時過ぎ、意見を求められた平沼枢密院議長は、東郷外相の提案に対し、「天皇の国法上の地位」を「天皇統治の大権」改めること、決定は聖断によるべきだと意見を述べた。これを受けて鈴木首相が天皇の前に進み出て、すでに長時間にわたり審議せられ、意見の一致を見ざるは甚だ遺憾である、このうえは恐懼に堪えぬが御聖断を仰ぐの外なしと聖断を求めた。

これに応えて天皇は平沼修正の東郷案を支持して以下のように述べたということである。

「このまま戦争を続ければ、無辜の国民に苦悩を増し、ついには民族絶滅となるだけでなく、世界人類をいっそう不幸に陥れることになる。股肱たる軍人から武器を取り上げ、また戦争責任者として引き渡すのは忍びがたい。しかし大局上、明治天皇の三国干渉の際にならい、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために、こう決心したのである。」

昭和天皇独白録によれば、天皇は、第一にこのままでは日本民族は滅びてしまう、私は赤子を保護することができない、第二には、敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保に見込みが立たない、これでは国体護持は難しい、故にこの際私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った、と述べている。

午前3時に閣議再開、天皇の聖断を追認し、直ちに中立国のスイスとスウェーデンに向けて、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾す旨打電された。11日正午、連合国を代表してバーンズ米国務長官名の返電がスイスに向けて発信された。それが東京に届く前、12日午前2時ころには、サンフランシスコ放送を傍受して、日本政府はその内容を確知した。

それには「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認める措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かれるものとする」「日本国の最終的な日本の政府の形態はポツダム宣言に従い日本国民の自由に表明する意思により決定せられるべきものとする」などとあって、日本側が附した条件に正面から答えたものとはなっていなかった。ここに「制限の下に置かれる」と訳された英文は「subject to」、「最終的な政府の形態」と訳された英文は「The ultimate form of Government of Japan」であった。外務省条約局長が頭をひねって刺激的な表現を避けるように訳したのである。

さてこの回答をめぐって、阿南陸相が猛然と巻き返し、平沼枢密院議長も同調した。「帝国の属国化」だ、政治形態を国民の自由意思により決定するのは「国体」にもとる等々。最後まで物の道理がわからない人たちだ。

13日午前9時から最高戦争指導会議が開かれたが、はてしなく議論が紛糾し、合意に至らず、翌14日午前10時50分から、最高戦争指導会議と閣議合同の御前会議となった。再び聖断を求められた天皇は以下のように述べたという。

「私の考えはこの前申したことに変わりはない。・・・国体問題についていろいろ疑義があるとのおとであるが、私はこの回答文の文章を通じて、先方は相当好意をもっているものと解釈する。・・・要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えてもらいたい」。

再び昭和天皇独白録によると、「私はこの席上最後の引導を渡した訳である」とのことである。とまれようやく狂気の戦争は終結を迎えることができたのであった。

ここで少し戦前最後の駐ソ大使であった佐藤尚武のことに触れておきたい。佐藤は、1982年10月30日生まれ、1905年、東京商業学校(現一橋大学)専攻部領事科を出て外務省入省。ロシア勤務が長く、1914年に芦田均と一緒になったことがあるとのことである。芦田均は、そこでロシア革命を目撃し、若き心をいたく揺さぶられたようで「怪傑レーニン」なる小説もどきの文章を書いてもいるが、佐藤のそのときの消息はわからない。
1937年2月から6月まで林銑十郎内閣で外相を務めている。1942年、東郷外相に請われて駐ソ大使に就任。

さてこの佐藤の1945年4月以後敗戦に至るまでの行いは、当時の日本政府当局者の中にあって、唯一、ものごとの筋を見据え、ぶざまな姿態をさらけることがなかったという点で特筆するべきものであった。佐藤は、7月20日、東郷外相宛電文において「すでに抵抗力を失いたる将兵および我が国民全部戦死を遂げたりとも、社稷は救わるべくもあらず。七千万の民草枯れて上御一人御安泰なるを得べきや」と日本政府の対応をたしなめている。またポツダム宣言が発せられた後もなおソ連の仲介を求めて申し送ってくる東郷外相の訓令に対し、「ポツダムにて発せられたる米英支三国首脳者の対日共同最後的宣言は我が方に対し威嚇の巨騨を放ちたる観あり この三国攻勢を前にして果たしてソ連が斡旋を受諾すべきや頗る疑問視せらるるに至れり」と公然と東郷外相批判を展開している。

このような人士があの時代に政府当局者の中にいた事実は一服の清涼剤である。

※今回は少し長くなってしまった。次回から米国以外の連合国が敗戦直前の時点で、日本の天皇制をどうのようにしようと考えていたか述べて行きたいと思う。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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