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立憲君主制と象徴天皇制の間 (20)

さてストーリーは進んで、日本降伏後のことに移る。

我が国の戦後の出発点に据えられるべきは何をおいてもポツダム宣言である。天皇および天皇制に関連する条項は下記のとおりである。

第10条 われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。

第12条 連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。

既に述べたポツダム宣言起草の経過と受諾の経緯および上記条項から言えることは明治憲法体制の君主主権、天皇大権および万世一系の神聖にして犯すべきらざる天皇制は当然否定されるが、民意にもとづく天皇および天皇制は否定されてはおらず、それは「日本人民の自由なる意志に従って」決定されるということになるということだ。また天皇が戦争犯罪人として処罰される可能性も否定されていない。

では米国は、日本降伏後の占領政策として、天皇及び天皇制をどう取り扱うことにしたのであろうか。SWINCC150文書シリーズがそれを明らかにしたものとされるのが通例であるようだ。これは「降伏時におけるアメリカの初期対日方針」と銘打たれた一連の文書である。
第一稿は、1945年6月11日、起草にかかるもの(SWINCC150-1)で、この時点では占領形態は直接軍政が想定されていたので、それを前提としたものであった。その後、ポツダム宣言受諾を経て、占領形態は間接統治方式に変更されたので、それと整合性を持たせるため改訂された。その第三稿(SWINCC150-3)が、同年8月29日、非公式にマッカーサーに伝達されている。その後、これは同年9月6日、大統領承認を得て、同月22日、正式にマッカーサーに通達された(SWINCC150-4)。

この文書においては、第一に、天皇および日本政府の権威は、マッカーサー総司令官に従属すること、第二に、総司令官は、天皇を含む政府機関を通して、その権威を行使すること、第三に、日本政府当局がポツダム宣言に定める降伏条件を達成しようとする総司令官の要求を充分に満たすものではない場合、政府機関、人員の変更を要求し、或いは直接統治を行う権限を総司令官に付与すること、第四に、この政策は日本の現存の政府を利用しようとするものであって、それを支持するものではないこと、第五に、日本政府の封建的・権威主義的傾向を修正する方向に、政府の形態を変更しようとする動きが、日本国民、あるいは政府によって率先して始められる場合、その変化は許されるべきことであり、好意をもって支持されることなどが謳われている。

この文書から読み取れることは、天皇および天皇制の存続、廃止いずれについても明確な意思表示がなされていないということである。否、読みようによっては、むしろ天皇および天皇制の廃止を含む変革の動きも許され、好意をもって支持されるとさえ読み取れる。

そもそも当時、米国は、簡単に天皇制存続を打ち出せる状況にはなかった。米国国民の世論とマスメディアの論調は、圧倒的に天皇および天皇制に反対していた。1945年9月10日には、「天皇を戦犯裁判にかけることを米国の方針とする」との上院合同決議までなされている。既に述べたごとく連合国諸国においてもオーストラリア、中国など、天皇および天皇制の存続に反対する意見が強かった。ソ連については特に触れなかったが、原則論としては、日本共産党32年テーゼの示す考え方にたっていたであろう。また米国国務省においては、「親日派」のグルーが退任し、ジェームス・バーンズ長官、ディーン・アチソン次官、カーター・ヴィンセント極東地域委員会委員長など親中派が優勢となっていた。占領開始まもなく、マッカーサーからバーンズに、日本問題の専門家を顧問として派遣して欲しいと要請したところ、バーンズは「知日派」を排して、中国問題専門家である親中派ジョージ・アチソンを派遣したほどであったのである。

そのジョージ・アチソンから、1945年10月4日、バーンズに対して、日本における憲法改正の考え方を示して欲しいとの要請があった。同月16日、折り返しバーンズがこれに回答した。その中で、バーンズは、天皇制が保持された場合と保持されない場合とに分けて、天皇制が保持されない場合には、財政、予算に関する問題は選挙による国会が管理すること、日本人に限定せず、すべての人間に基本的市民権が保障されることなどを論じていたことも当時の米国政府当局者の考え方を示す有力な例証である。当時の米国政府当局者は、天皇制廃止に傾く可能性さえもその視野におさめていたのであった。

従って、この文書(SWNCC150-4)によって、米国の占領政策が「天皇制は支持しないが利用する」との方針に決まっていたと断ずるのは大きな誤りである。

国務省内に有力な「知日派」を抱えていた日本降伏前に、天皇および天皇制について米国が打ち出した政策は、既に述べたように「日本―政治問題―天皇制」(PWC116d)および「日本国天皇の処遇について」(SWNCC55文書)の各文書に明らかにされている。それらは要するに結論先送りであった。しかし、不思議なことに、日本降伏後においても、米政府関係機関において、これらの問題について包括的・根本的に論議・検討された形跡は見られず、当面する問題をその都度議論・検討してその場しのぎをしたに過ぎないように思われる。

日本降伏後に、最初に検討されたのは、1945年9月、上記の上院合同決議がなされてからのことであった。SWNCCの極東小委員会(SFE)において、天皇を戦争犯罪者として処罰の対象とするかどうかが検討された。その結果をまとめたのが、9月26日付SFE126文書である。この文書は、「最高司令官は、JCSと相談なしに、あるいは助言されることなくして、天皇を退位させるようないかなる措置もとってはならない」、「もし天皇が退位し、国際軍事裁判所の検察官が天皇を戦犯とする証拠を提出したときは、天皇は逮捕され、戦犯として裁判にかけられるべし」としている。

9月26日付文書は、海軍代表から強硬な反対意見が出て、改訂される。それが10月1日付「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」(SFE126-2)である。

この文書は、①天皇ヒロヒトは戦犯として逮捕され、戦犯裁判にかけられるべし、②そのために日本が国際法に違反したすべての証拠を収集すること、③収集の責任者は最高司令官とし、収集された証拠は、戦争裁判への手続きを進めるべきかどうかについての勧告を付して、JCSに提出されるべし、④天皇ヒロヒトの戦犯裁判への逮捕は、占領目的達成に支障なきとき、天皇が退位したとき、日本国民が逮捕させたときのいずれかのときにのみなされるべし、⑤天皇制存続から得られる占領政策上の便宜だけでは天皇を戦犯裁判から免れさせる正当な理由とはならない、⑥最高司令官はJCSと相談することなく、またJCSからの助言なしに天皇を退位させてはならない、⑦これらすべての方針は非公開とするなどとしている。

その後10月1日付文書は、10月6日に、SFEの会議の議論で、一部修正の上、「日本国天皇ヒロヒト個人の処遇について」(SWNCC55-3)としてSWNCCに提案された。しかし、そこでは激しい議論の末、同文書をSFEに差し戻すこと、JCSでの検討を中止すること、天皇制についての新しい別の政策案を作成することが決定された。

これらの議論の経過からは、天皇を戦犯裁判にかけることに消極的ないしその決定を時期尚早とする陸軍(穏健派)と、天皇を戦犯裁判にかけることに積極的な海軍および国務省(強硬派)の対立が顕著に認められる。

差し戻しを受けたSFEでは、①天皇戦犯問題は、天皇制廃止、政治改革などの占領目的全体と切り離すことはできないので、天皇制の方針が固まるまで天皇戦犯問題に関する最終決定は延期する、②最終決定は留保しつつ、当面、天皇の戦犯容疑についての証拠を可及的速やかに、かつ秘密裏に収集する、③最高司令官は、収集された証拠に、天皇戦犯裁判の手続きを開始するべきか否かについての自己の勧告を付してJCSに提出することなどが確認され、その旨をまとめた10月16日付SFE126-5文書が作成された。

それが10月19日付のほぼ同趣旨のSWNCC55-6となり、この文書とともに「現在のところ情報不足で最終決定はできない。貴官は直ちにヒロヒトが日本の国際法違反に関与した責任があるかどうか、証拠を収集されたい。収集された証拠は貴官の意見を付してJCSに送付されたい」とのマッカーサーへの照会文書案がSWNCCに提案され、10月22日にSWNCCの会議で採択された。またしても棚上げである。勿論、これらの文書は、マッカーサーへも送付されているであろう。

JCSからは、同年11月29日付で、以下のとおりマッカーサーに指示された。

「(前略) 貴官も承知のとおり、最終的にヒロヒトを戦争犯罪人として裁判に付すべきか否かの問題は、米国にとっても重大な関心事である。ヒロヒトは、戦争犯罪人として逮捕・裁判・処罰を免れてはいないというのが米国政府の態度である。天皇抜きでも占領が満足すべき形で進行しうると思われる時点で、天皇裁判問題が提起されると考えてよかろう。 (中略) 従って、いずれにせよ、われわれは、常にしかるべき秘密保持の手配をして作業を進めながらも、遅滞なく証拠を収集しなければならないのは明白と思われる」。

ここまでは日本降伏後における天皇と天皇制の問題をめぐる米国本国の動きを追ってみた。次は、GHQ、あるいはマッカーサーがどう動いたかを見ていくことにしよう。そこには実に興味深いエピソードがある。キーマンはやはりボナー・フェラーズである。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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