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立憲君主制と象徴天皇制の間 (27)

マッカーサーは秒読みに入っても着手は乱れません。勝負手も打てるし、寄せも正確、井山六冠のようです。

これまで述べたところでは、幣原を除いては、日本側の動きはあまり見えてこないが、日本政府当局者の主流は、当然のことながら天皇制にはできるだけ手をつけず、そのまま残したいと考えていた。また天皇側近グループも思いは同じであった。ここでは政府当局者主流の動きを憲法改正作業に関連して見ていくこととする。

憲法改正作業に最初に取り組んだのは、東久邇宮内閣の副首相格の無所任国務大臣近衛文麿であった。近衛は、1945年10月4日、GHQにマッカーサーを訪ね、面談した。この日、面談外で東久邇宮内閣に対し、マッカーサーは政治犯釈放命令を発した。面談では、マッカーサーは近衛に対し、日本は憲法改正をして自由主義的要素を充分取り入れる必要がある、と指摘した。

これは指示ではなく、一般論を述べたに過ぎないということのようだが、近衛はこれを自分に対する指示と受け止めたようで、内大臣木戸幸一と諮って憲法改正作業に着手することになる。近衛は、大学時代の恩師、佐々木惣一博士を内大臣府御用掛に任命してもらい、佐々木博士とともに憲法改正案の起草を始めた。

近衛と佐々木博士の憲法改正案起草作業は、5日、東久邇宮内閣総辞職、9日、幣原内閣成立、10日、日本共産党幹部ら16名を皮切りとした政治犯の釈放、11月1日、マッカーサーのよる近衛の憲法改正作業否認声明と、荒波に浮かぶ小舟のようにもみしだかれながらも進められ、11月下旬には、近衛自身作成の「要綱」と、佐々木博士作成の「憲法案」とができあがる。しかし、いずれも天皇の統治権、天皇大権を残そうとするものであった。

10月11日、新首相幣原はマッカーサーと面談。そこでマッカーサーは幣原に対し、①婦人解放、②労働組合結成の助長・促進、③教育の自由化・民主化、④秘密的弾圧機構の廃止、⑤経済機構の民主化の五大改革を指令が発出したが、憲法改正問題については、直接の言及はなかった模様である。しかし、水面下ではGHQ筋から新内閣に対する憲法改正の検討要請があったことは間違いないようで、ここでもあのフェラーズが動いているようである。

幣原内閣は、25日、政府に憲法問題調査委員会が設置し、松本蒸治国務相(東大教授で商法学の権威とされる。)を委員長とした。しかし、松本委員長は、すぐに憲法改正作業を進めていく意思はなく、「(憲法問題調査委員会の目的は)必ずしも憲法改正を目的とするものではなく、調査の目的は、改正の要否および改正の必要ありとすればその諸点を明らかにすることである」と記者会見で語っていた。

近衛の憲法改正作業といい、松本委員長の発言としい、ここまではまるでポツダム宣言にこめられた根本的変革の必要性に関する認識が全くないかのように事態が進んでいる。

しかし、11月1日、近衛の憲法改正作業がマッカーサーによって否認されるに及んで、ようやく憲法問題調査委員会も、のんびり構えていることはできないことを悟る。11月10日の第2回総会で、松本委員長は「日本をめぐる内外の情勢はまことに切実であり、政治的に何事もなしにはすまされないように思われる。したがって、憲法改正問題がきわめて近い将来に具体化されることも当然予想しなければならない。」、「憲法改正の必要は、内はともかく外から要請があった場合、いつでもこれに応じうるように、さし当たって大きな問題を研究するにとどめ、切実にやむをえないと思われる条項をふかく掘りさげてゆかなければならない」などと少し、気持ちを引き締めている。

12月8日、憲法問題調査委員会の議を経て、松本委員長は、はじめて憲法改正の方向を4項目にまとめて公表した。これを後に松本四原則と呼ぶこととなったが、この松本四原則の第一原則には「天皇が統治権を総攬せられるという大原則にはなんら変更を加えないこと」とされていた。
この原則に基づく改正案作りの結果、どういうものができるかは予測の範囲内であろう。実際、後に1946年2月8日GHQに提出された甲案、同月1日、毎日新聞にスクープされた宮沢甲案、後に公表された乙案なるもののもいずれも天皇を統治権の総覧者とし、天皇大権を規定しようとするものであった。

一方、民間の憲法改正案には、天皇は国政に関与せず国家的儀礼のみを行うとする憲法研究会の憲法草案要綱(12月27日作成、GHQへ提出)、人民主権・天皇廃止とする日本共産党・新憲法の骨子(11月11日作成)、天皇は統治権の主体であり、総覧者であるとする日本自由党・憲法改正要綱、主権は国家にあり、統治権の主要部は議会に、一部を天皇に帰属させるとする日本社会党・新憲法要綱(1946年2月24日作成)など種々のものが発表された。

ところで、米国政府の動向は既に見たとおり、1945年10月22日までに発出されたSWNCC150-4、SWNCC55-6においては、天皇および天皇制の取り扱いは、未定、棚上げであり、マッカーサーに照会しつつ、決めていこうということであった。

そのような状況は、天皇制廃止、天皇戦犯追及の考え方の強い国務省および海軍省と、天皇を占領政策の忠実な遂行者として利用しようという陸軍省の考え方の対立によってもたらされたものであった。私は、「日本計画(最終草稿)」の名目上の起草者ソルバート大佐、これを戦場において心理戦に活用し、占領下での心理戦においても活用したフェラーズ、その進言を受け入れたマッカーサーらが、いずれも陸軍であることに注目しておきたい。日本占領の主要実務を担ったのが陸軍であったから、この対立は、結局、陸軍優位に解消していくことになるのであった。

米国政府のその後の動向を確認しておこう。

まず1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)によって憲法改正を含む統治体制の改革に関するマッカーサーへの指針が、与えられた。これは、日本国憲法の原案となったGHQ草案(マッカーサー草案)の指針となった重要な文書であるが、この中から、憲法改正に関する一般的指針と天皇および天皇制に関する指針をピックアップすると以下のとおりである。

(憲法改正に関する一般的指針)
日本国民が、その自由意思を表明しうる方法で、憲法改正または憲法を起草し、採択すること

(天皇および天皇制に関する指針の骨子)
・ 日本における最終的な政治形態は、日本国民が自由に表明した意思によって決定されるが、天皇制を現在の形態で維持することは不可
・ 日本国民が天皇制は維持されるべきではないと決定したとき
  国民を代表する議会優位、国務大臣は文官であることを要する。
・ 日本国民が天皇制を維持すると決定したとき
  国民を代表する議会が選任した国務大臣は議会に連帯責任を負う内閣を構成する。
  天皇は一切の重要事項について内閣の助言に基づき行動する。
  天皇は、旧憲法に規定する軍事的権能をすべて剥奪される。
  内閣は天皇に助言を与え、天皇を補佐する。

ここでは天皇および天皇制の取り扱いは、まだ日本国民の意思によるとの建前が依然としてとられている。しかし、いよいよこれもマッカーサーの決断に従ってすり合わせがなされていくことになる。
1945年10月18日には、SWNCCは「天皇制の取り扱い」と題するドラフト文書(SWNCC209-D)を起草、具体的取り扱いの検討の指針を提起した上で、傘下の極東小委員会(SFE)に具体的検討を指示した。これに基づいてエドウィン・ライシャワーが中心となって作業が進められ、憲法改正にかかるGHQ草案(マッカーサー草案)に遅れること二週間、1946年2月28日、「天皇制の取り扱いについて」と題する案文(SFE141)が作成された。これがSWNCCの討議を経て、最終的に、4月11日、一部訂正のうえ承認されて「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)となった。

これらは次のように述べている。

・ 1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)ですでに実行されている政治改革との関連で、とくに天皇制改革として留意する点は次のとおりである。
(イ)大日本帝国憲法第1条、3条および4条を精神・文言両面で改正し、天皇は神聖、不可侵であるのではなく、憲法に従わねばならないことを明記すべきである。
(ロ)天皇の神聖と天皇への盲目的献身の意識を吹きこむために公立学校を利用してはならない。皇位の由来が神にあり、天皇が神であるといういかなる叙述も教科書から排除され、公立学校内にある奉安殿の御真影も撤去される。また天皇および御真影への強制的服従(敬礼)は禁止され、教育勅語を読む儀式は一切許されない。
(ハ)天皇を神秘のベールで包み普通の人間から隔離し、畏敬の念を起させる人にする極端な手段は許されない。
・ 天皇の神格を否定した1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」はたいへん結構である。天皇はもっと一般の日本人や外国人と自由に平等の立場で接触をはかり、「天皇の意思」が真にどの辺にあるかを示すべきである。しかし、最高司令官は、これらの天皇の行為が全く自発的になされていると日本の国民にとられるような影響力を行使すべきである。云々。

これらにより、日本国民が自由なる意思により天皇制を維持すると決定したとの条件に絞り込み、上記「日本の統治体制の改革」(SWNCC228)に基づいてなされたGHQ、マッカーサーの措置をすべてオーソライズしているのである。

少し先走ったようだ。その前に触れておくべきことがあった。マッカーサーは、既に見たように一気に勝負に出た。それは勝利を見越した確信に満ちた一手であった。いまやマッカーサーにとって残る問題は連合国極東委員会に介入をさせないことだけである。

連合国極東委員会とは、1945年12月27日、モスクワで行われた米・英・ソ三カ国外相会議において、対日占領に関するGHQ、マッカーサーを監督するために連合国の合議制機関として、ワシントンに設置されることが決まったものであった。その第1回会議は、1946年2月26日、ワシントンで開催されることになっていた。
マッカーサーは、極東委員会が本格的に動き出し、マッカーサーに容喙しはじめる前に天皇および天皇制の取り扱いに決着をつけ、新憲法制定に道筋をつけてしまうという筋書きを描いた。それは秒読みとの少し神経質な戦いだけである。

次回は、どのように秒読みを制したかの顛末と東京裁判の関係について述べることとする。
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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