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砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す (2)

砂川判決の傍論部分

しかるに安保法制懇の「有識者」なる者たちや高村氏は、判例としての意義、価値を全く認められない砂川判決の傍論に飛びついた。まずそのこと自体、彼らのいかがわしさを示して余りあると言ってよい。
だが問題はそれだけにとどまらない。彼らは、その傍論さえも自己の歪んだ鏡に映しこんで誤読をし、マスコミに流し、世論を誤導しようとしていことである。長くなるが砂川判決の判決理由第1項に判示された傍論部分を引用してみよう。

「先ず憲法9条2項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法9条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤って犯すに至った軍国主義的行動を反省し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであって、前文および98条2項の国際協調の精神と相まって、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、9条1項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条2項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法9条2項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによって生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによって補い、もってわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、憲法9条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
そこで、右のような憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従って同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである

人のことばかり言えないが法律家の書く文章はやたら長くてくどい。これも長くてくどくどしい文章が続くが、結論は太字部分である。即ち、上記傍論部分は、9条2項の解釈論であり、結論は、外国の駐留軍は戦力に該当しない、というにある。それをいわんがために長々と冗舌の限りを尽くしているのである。しかもその冗舌たるや、最後には「同条2項がいわゆる自衛のための戦力の保持を禁じたものであるか否かは別として」とわざわざ断わっている。冗舌の結末は、憲法9条が「国家固有の権利として自衛権」の行使のための戦力保持を認めたかどうかの判断を留保したのだ。

最後は脱兎の如く、とはいかなかったようである。

憲法9条の解釈として、大きく分類すると三説がある。第一説は、そもそも9条1項自体があらゆる戦争・武力行使等を放棄しており、自衛のための戦争・武力行使も認められないと説く。第二説は、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」との文言を重視し、1項で放棄したのは侵略のための戦争・武力行使等であって自衛のための戦争・武力行使等は留保している、しかし2項は戦力・交戦権を無条件に否定しているとして、結局、9条全体では一切の戦争・武力行使等が禁止されると説く。第三説は、9条1項を第二説と同じに解し、かつ2項の「前項の目的を達するため」は1項の「国際紛争を解決する手段としては」を受けるのであるから、9条の解釈としては自衛のための戦争・武力の行使等を放棄していないと説く。

芦部信喜は、第一説を有力説、第二説を通説とし、第三説については「説もある」と紹介している(「憲法新版補訂版」岩波書店)。

このような学説の状況を予備知識として仕入れて、もう一度砂川判決の上記傍論部分を読み直してみよう。「国家固有の権利としての自衛権」を認めるのは従来から通説である。しかし、その通説も、自衛のための戦争・武力行使等を否定しているのである。そうすると上記傍論部分は結局これと折り合いをつけたのだということがわかるだろう。

よって砂川判決は、傍論いおいてさえも「国家固有の権利としての自衛権」の行使のための戦力保持を認めた、あるいは「国家固有の権利としての自衛権」の行使としての戦争・武力行使等を認めたわけではないのだ。                                                          (続く)
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プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。
「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう。」

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