安保法制懇報告書を読む (終章)

さて少し飛ばした感もあるが、いよいよまとめにとりかかることとする。

報告書が述べる「あるべき9条解釈論」の結論は、本小論の冒頭で紹介したが、念のため再掲しておこう。

① 9条1項は、わが国が当事国である国際紛争の解決のために武力による威嚇又は武力行使を行うことを禁止したものと解すべきであり、(個別的であれ、集団的であれ)自衛のための武力行使は禁じておらず、また国連PKO等や集団的安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への制約もしていないと解すべきである。
② 9条2項は、わが国が当事国である国際紛争の解決のための武力による威嚇又は武力の行使に用いる戦力の保持を禁止しているが、それ以外に、個別的又は集団的を問わず自衛のための実力保持や国際貢献のための実力保持は禁止していないと解すべきである。

しかし、報告書は、9条の背景と制定経過について歪曲と詐術を弄し、国際法における集団的自衛権の位置づけ、国連憲章51条の趣旨、国際法と憲法との関係について、独断と牽強付会の論を展開して、無理やり上記の結論に結び付けているというほかはない。

1 9条の背景と制定経過

(9条の背景)

報告書は、わが憲法9条を、1928年成立、翌年発効した不戦条約や1945年6月採択、同年10月発効した国連憲章51条と同レベルのものと捉えている。果たしてこれは妥当なのだろうか。
 
不戦条約は、「国際紛争解決のため戦争に訴えること」を禁止したもので、自衛戦争は認めている。また国連憲章は、折角、第2条第4号で、全ての武力による威嚇もしくは武力行使を禁止しようとしたのに、51条で、安保理が必要な措置をとるまでの間に限定してではあるが、加盟国が個別的又は集団的自衛の「固有」の権利を行使することを認めてしまった。これは不戦条約を観念的には前進させることを企図したものの、現実的には、不戦条約よりも独自に武力行使をする機会と範囲を、拡大してしまっており、後退と評することさえできそうである。報告書は、これらに依拠して9条解釈をしようというわけである。
ところで同じ第二次大戦の枢軸国であったイタリア憲法、ドイツのボン基本法には、以下の規定が置かれている。

イタリア憲法(1948年)第11条
イタリア国は、他国民の自由を侵害する手段として、及び国際紛争を解決する手段としての戦争を否認する。イタリア国は、他国と等しい条件の下に、諸国家の間に平和と正義とを確保する秩序にとって必要な主権の制限に同意し、この目的を有する国際組織を推進し、助成する。

ドイツ・ボン基本法(1949年)第26条第1項
諸国民の平和的共同生活を妨害するおそれがあり、かつ、このような意図でなされた行為、とくに、侵略戦争の遂行を準備する行為は違憲である。このような行為は処罰されなければならない。

因みに、大韓民国憲法(1948年)、フィリピン憲法(1987年)にも同旨の規定がおかれている。

もし戦争放棄、武力行使放棄が、不戦条約や国連憲章51条と同レベルであるならば、これら諸国の憲法の規定で十分である。しかるに、9条の文言、及び前文は、極めて厳格かつ理想主義的であり、かつ屋上屋を重ねるごとくに戦争放棄、武力行使放棄を謳っている。それは、これらありきたりの侵略戦争否定、自衛戦争肯定の憲法規定をはるかに超えたものである。
従って9条を不戦条約や国連憲章51条と同レベルのものと見ることは到底できない。

(9条制定経過に関するごまかし)

報告書は、憲法制定経過について重大な詐術を弄し、また作り話に依拠している。
一つ目は、マッカーサー三原則の第二原則。報告書はこれを「日本は自らの紛争を解決するための手段としての戦争を放棄する」であると述べるが、正しくは、「.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることもない。」である。
二つ目は、1946年6月26日の衆議院本会議での吉田茂首相の発言。報告書は吉田発言の引用を「本案の規定は、直接には自衛権を否定してはおりませぬ(略)」の部分だけにとどめるが、この略されてしまった部分が重要で、そこでは「が、第9条2項において、一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります。従来、近年の戦争は、多く自衛権の名において戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争また然りであります。」と述べられている。吉田首相も、この当時は自衛権の発動としての戦争、交戦権を明確に否定していたのである。
三つ目は、芦田修正に関する芦田元首相の嘘に悪乗りしていること。憲法制定時、衆議院憲法改正委員会小委員会において、芦田の発案により、政府原案の9条第1項に「国際紛争を解決する手段としては」の文言を、同第2項に「前項の目的を達するため」の文言を挿入する修正がなされた。芦田は、1951年1月14日付毎日新聞紙上で、この経緯について、「第1項で、戦争、武力の威嚇、武力の行使放棄の目的の限定をし、第2項はそうした限定された目的との関連で戦力不保持と交戦権放棄を定めたものだ」と説明した。
しかし、憲法改正委員会小委員会においても、憲法改正委員会においても、さらに衆院本会議においても、そのような説明、論議は一切なされていない。それどころか、そもそも芦田修正案が憲法改正案委員会小委員会案において再修正されていく過程でのやりとりで、芦田は、第2項の「前項の目的」とは、「日本国民の平和的希求の念慮」を指しており、そのままでは1項と重複した言い回しになることを避けて用いたものであると説明していたのである(1946年8月1日、第7回憲法改正委員会小委員会議事録)。
つまり後になされた芦田の説明は、憲法改正委員会小委員会議事録が公開されていないことをこれ幸いとばかりに、9条解釈を捻じ曲げようとしてひねりだした嘘だったのだ。天網恢恢、疎にして漏らさず。その後、議事録が公開され、芦田の嘘がばれてしまった。しかるに報告書は、そのことが今では忘れ去られてしまっているだろうとばかりに、この嘘に悪乗りをしているのである。

かくて、報告書が述べる9条解釈論が依拠する核心部分は歪曲と詐術、ごまかし以外のなにものでもないことが明らかになった。

2 国連憲章51条の理解

さて前述したとおり、確立した政府の9条解釈では、憲法制定時に野党も含めて共有されていた立場から一歩後退し、自衛権の行使とそのための実力(自衛隊)の保持を容認するものとなってしまったのであるが、それでも9条の規範性を認め、国際法の常識に依拠し、自衛隊の武力行使の機会を厳格に限定する立場に立っていることもまた事実である。
それが自衛権を定義し、かつ、その行使を制限するための「自衛権行使三要件」であり、また自衛隊の装備、編成、能力は自衛権を行使するための必要最小限度にとどまらなければならないとの、政府見解二本柱であること、その淵源ないしは論拠は、国際法慣習法上の自衛権の定義に求められること、これらの点は既に述べたので繰り返さない。
これに対し、報告書は、国連憲章51条を金科玉条の如く奉る。しかし、同規定の制定過程をつぶさに検証すると、同条は、決して積極的な意義付けを与えられたものではないことがわかる。とりわけ集団的自衛の固有の権利なるものは、瓢箪から駒で、チャプルテペック条約に結集した中南米諸国の離脱を防ぐために急遽規定されるに至ったもので、何ら成熟した議論を経ていないのである。その結果もたらされたものは、既に述べた集団的自衛権の行使事例の惨憺たる有様であり、まことに集団的自衛権とは厄介なもの、国連の集団的安全保障機能を損なう役割しか果たしていないと言ってもよい状態にある。
そこで国際法学者の主流は、集団的自衛権は、国連憲章51条により特に認められた新しい権利であって、これを「固有」の権利、国家自然権であるとは見なしていない。国際法上、固有の権利、自然権と見なされているのはいわゆる個別的自衛権だけである。

報告書は、前にあげたニカラグア介入に関し、ニカラグアがアメリカを訴えた事件の1986年6月国際司法裁判所判決を取り上げ、これをもって集団的自衛権が国家「固有」の権利、国家自然権と認められたかのように述べている。しかし、この判決は、アメリカの集団的自衛権の行使で正当との主張を排斥し、違法だと断じたものであって、集団的自衛権を積極的に認めたのではなく、むしろ認められる範囲を限定する解釈を示したのであって、集団的自衛権の濫用の現実を見据え、これに消極的位置づけしか与えていないのである。
報告書は、ニカラグア介入事件の国際司法裁判所判決を正しく読み、理解をしないまま、飛びついてしまったのであろう。

なお、わが国が国連に加盟した際に、国連憲章上の権利義務に何らの留保もしなかったとの報告書の指摘も偽りである。この点は、国連加盟にあたり加盟申請書に「by all means at its disposal」と付記されており、そのことの意味は「わが国は、憲法9条により戦争放棄し戦力を保持しないことを定めており、軍事的協力、軍事的参加を必要とするような国連憲章の義務は負担しないことをはっきりさせたものである」と、当時の西村熊雄外務省条約局長が述べている(1960年内閣に設置された憲法調査会における証言)。

3 憲法学説

政府の確立した9条解釈はあるが、最高裁の判例が存在しないのであるから、あらためて9条解釈に取り組むならば、憲法学説に触れないわけにはいかない。しかるに報告書はこれに一切触れない。何故か。あまりにも不利だからである。

9条解釈にかかる憲法学説の状況は以下のとおりである。

憲法9条の解釈として、大きく分類すると三説となる。
第一説は、そもそも9条第1項自体があらゆる戦争・武力行使等を放棄しており、自衛のための戦争・武力行使も認められないと説く。
第二説は、9条第1項の「国際紛争を解決する手段としては」との文言を重視し、第1項で放棄したのは侵略のための戦争・武力行使等であって自衛のための戦争・武力行使等は留保している、しかし第2項は戦力・交戦権を無条件に否定しているとして、結局、9条全体では一切の戦争・武力行使等が禁止されると説く。
第三説は、9条第1項を第二説と同じに解し、かつ第2項の「前項の目的を達するため」は第1項の「国際紛争を解決する手段としては」を受けるのであるから、9条の解釈としては自衛のための戦争・武力の行使等を放棄していないと説く。
芦部信喜は、第一説を有力説、第二説を通説とし、第三説については「説もある」と紹介している(「憲法新版補訂版」岩波書店)。

このような憲法学説の状況を反映もしない、あるいは説得力をもった反駁もしない、そのような報告書の9条解釈論は、到底「あるべき解釈」とはいえず、結局は、自己の願望の赤裸々な吐露、露骨な政治的主張となってしまっているのである。

4 小括

以上により報告書が述べる9条解釈の結論は採用できない。そうである以上、報告書が述べるあやしげな集団的自衛権限定容認論、つまり6条件を付した集団的自衛権行使を認めるとの論を採用できないこととなるが、念のために言えば、これは実は何らの限定もしない無制限容認論である。

報告書は、その他、武力行使を伴う自衛隊の活用の場面を想定し、これを拡大するために変化球を投じているが、本小論では一々反駁しない。それらは従来の政府見解二本柱の応用によってごく常識的に解答できるだろう。
                                    (了)
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No title

Twitter のフォロアーの方のツイートで知りました。ご説を拝見致しました、有難うございました。私は理工人間でこの問題の門外漢ですが、60年代から憲法の第9条の記述が極めて曖昧であると考えていました。英文の草案?との関係に於いても。そこでお伺いしたい点は、自国の憲法と外交上(国際上)の約束(国連憲章を代表とする)のどちらが優先するのでしょうか?両者の間に不整合が存在した場合に於いて。

Re: No title

> Twitter のフォロアーの方のツイートで知りました。ご説を拝見致しました、有難うございました。私は理工人間でこの問題の門外漢ですが、60年代から憲法の第9条の記述が極めて曖昧であると考えていました。英文の草案?との関係に於いても。そこでお伺いしたい点は、自国の憲法と外交上(国際上)の約束(国連憲章を代表とする)のどちらが優先するのでしょうか?両者の間に不整合が存在した場合に於いて。

コメントありがとうございました。お尋ねの条約と憲法の優劣関係は、多少の異説はありますが、憲法優位、つまり憲法に反する条約は無効と解するのが一般的です。
なお、9条は曖昧とのご指摘ですが、曖昧にされてしまっているというのが私の感想です。このあたり私のブログの8月24日、25日の記事をご参照頂ければ幸いです。
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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