スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大飯原発差止判決を読む

 5月21日、福井地方裁判所は、平成24年(ワ)第394号・平成25年(ワ)第63号 大飯原発3、4号機運転差止請求事件について、大飯原発3、4号機の運転差止を命ずる画期的ともいうべき判決をした(以下、大飯原発3、4号機を「本件原発」、この判決を単に「本判決」という。)。

1 本判決が設定した差止め基準

 本判決は、最初に、「ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を問わず、全ての法分野において、最高の価値を持つとされる以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。」と、自らよって立つ解釈指針を明示した。

 その上で、未曾有の大災害となった福島第一原発事故の被害を、「15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。」と、簡潔な言葉でではあるが、一点のくもりもない目ですくいとっている。
 私も、現役の頃には、公害裁判に取り組んだことがあるが、公害裁判は被害に始まり、被害に終わると言われる。どのようにしたら被害を裁判所にわかってもらうことができるのかを考え、主張・立証に工夫をし、なんとかやり遂げて裁判所にしっかりと被害を受け止めてもらえたとき、裁判の山を越したことになる。
 同時に、裁判が思うように進行せず、停滞して、つらい時、自己を奮い立たせてくれるものも被害の実相そのものだった。

 現代の最悪の公害である原発事故災害をテーマとした本件訴訟において、それは同じであり、原発事故災害で発生する被害をどう捉えることができるかということが、アルファでありオメガであった筈だ。
 本判決は、原発事故災害の被害を人間の心でしっかり受け止めた。

 その結果、差止基準に関する本判決の重要な法理が導かれた。本判決は以下のように整理する。

 原発に求められるべき安全性、信頼性は極めて高度なものでなければならない、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。だから、放射性物質を放出する事故を招く具体的危険性が万が一でもあれば、原発の運転の差止めが認められるのは当然である。
 そこでこのような具体的危険性が万が一でもあるかどうかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後においては、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい。

 従来も、たとえば、航空機の離発着に伴う騒音、新幹線の騒音・振動、道路供用による大気汚染物質、騒音、振動の差止請求訴訟などにおいて、人格権は憲法上の権利(13条、25条)であり、中でも生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害に対しては、受忍限度を問うことなく差止めが認められると理解されていた。しかし、生命、健康を侵害もしくはその侵害の蓋然性(相当程度の確からしさ)が認められないと、差止請求は認容されなかった。つまり従来の公害裁判では、生命・健康の侵害の有無もしくは侵害の蓋然性が判断対象だったのである。
本判決は、福島第一原発事故後の原発裁判では、具体的危険性が万が一にもあるかどうかが判断対象だと、差止め基準を思い切って下げたことになる。

2 差止め基準を下げれば司法の役割が強化される

 これまで原発裁判では、専門技術的な判断を要するので、第一次的には専門化、専門機関による安全審査、判定が重視、尊重される傾向があった。しかし、本判決は、具体的危険性が万が一にでも発生するおそれがあるかどうかの判断は、高度の専門技術的な知識、知見を要するものではないと、言い切る。確かにそうだ。万が一にでも起こりえるかどうかは、原発の素人でも判断できる。

 このことは、原発の素人からなる司法機関が、原発裁判で、自信をもって判断を下せることになったことを意味している。

 実際、本判決でも難しい判断を迫られていない。第一に、本件原発を襲うことがあり得る地震を検討する。被告も手の施しようがないことを認める1260ガルを超える地震も起こり得るではないか。基準地振動700ガルを超える1260ガルまでの地震も起こり得る。また被告が安全という700ガル未満の地震の場合でも万一の事故は起こり得る。冷却不全に陥る可能性を認定できる。福島第一原発事故で問題になった4号機の使用済燃料プールの冷却不全の危機、そのようなことは本件原発でも起こりえる。極めてシンプルな認定だ。かくして万一の具体的危険性は幾重にも認められた。

 各地の原発差止め裁判へも、本判決は、大いなる有力な指針を提供したことになる。原発裁判を通じて「絶望の裁判所」を脱却し、司法ルネサンスの時代が到来しそうだ。

3 低次元な原子力学会の批判

 5月27日、原子力学会が大飯判決批判の見解をプレスリリースした。

 批判の第一点は、事故原因が解明されていないとの指摘は事実誤認である、当学会が本年3月、最終報告書を取り纏め、直接の原因のみならず、根本原因まで明らかにしたと。たいした自信だが、原発推進のための「原因解明」でしかなく、国民は納得しない。  

 原子力学会の判決批判の第二点は、ゼロリスクを求める考え方は科学技術に対する裁判所の判断としては不適切、いかなる科学・技術も人間の環境に対してリスクをもたらすが、科学技術によってリスクを十分に低減させた上で、その恩恵とのバランスで社会はそのリスクを受容するべきだとのご託宣だ。しかし、本判決は従来、司法判断の壁となっていた「蓋然性」説を「万が一説」に下げ、司法判断の門戸を広げはしたが、ゼロリスクを求めたのではない。それに原子力学会がよって立つ考え方は、公害対策と経済発展との調和を求める条項(経済との調和条項)が置かれていた公害対策基本法が、公害問題噴出の中で行われた1970年のいわゆる公害国会において、この条項を削除することによりとっくに克服されたものである。リスクと恩恵との調和を説く原子力学会は、40年前の死者の亡霊のようだ。

 原子力学会の批判の第三点は、原子力発電所のみ工学的安全対策を認めないという考え方は公平性を旨とする裁判所の判断としては不適切だというもので、これはたとえていえば高額所得者からは税を多くとるという累進課税制度を当の高額所得者が不公平だと非難するようなもので、すじのとおらない被害者意識を露骨に示したものと言えよう。本判決が、原発事故の重大性を認め、原発に求められる安全性、信頼性は極めて高度なものでなければならないと指摘したのは、福島第一原発事故の被害を放置して安易に原発再稼動を認め、原発を推進しようとする原発利権共同体には厳しい判断かもしれないが、国民的視野で見た場合、公平そのものだ。

 本判決文にこんな文章がある。「危険性を一定程度容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかといった葛藤が生じることはない。原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分明らかになったといえる。」。これこそ多くの国民の心をズバリ表現したもの、大きな支持を得るだろう。

 最後は、被告が原発停止⇒円安で高止まりした石油を輸入⇒貿易赤字で国富の流出と恫喝したが、「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富」であり「これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失」だと微動もしない。

                                     (了)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。