「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その42

積極的議論が目立った「戦争放棄・戦力不保持」(第9条)―日本國民は、正義と秩序とを基調とする國際平和を誠實に希求する

  『帝国憲法改正案』の審議は、今日の国会の状況からは想像できないほど、討議をしている議員も答弁にあたる政府当局者も、まじめで真剣な議論をしている。とりわけ「戦争放棄・戦力不保持」を定める第9条に関する議論は、積極的かつ建設的であった。

 第9条をめぐる議論のハイライト第一弾。第9条は、政府原案では、第1項で「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する」とし、第2項で「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない」であったが、これだけでは消極的、受動的に過ぎる、もっと積極的に平和主義を打ち出し、世界に宣言するものでならず、かつ国内でどう生かしていくかを明確にしなければならない、という指摘がなされ、この趣旨を鮮明にする条文づくりに知恵をそぼりあったことが注目される。

 口火を切ったのは社会党の片山哲であった。『帝国憲法改正案』が上程される前の6月21日の本会議で、吉田首相の首相就任演説に関連して、片山は次のように質問をした。

片山 (前略)民主憲法は積極的に、日本國は平和國として出發するものであることを明示する、世界に向つての平和宣言を必要とすると私は考へるのであります、例へば第二章の戰爭抛棄の前に別條を設けることも宜しいと思ひまするが、日本國及び日本國民は平和愛好者たることを世界に向つて宣言する世界恆久平和の爲に努力する、且つ國際信義を尊重する建前であることを聲明することが必要なりと私は考へて居るのであります(6月21日本会議議事録)

 これに対する吉田首相の答弁(翌22日の本会議)

吉田首相 (前略)憲法に戰爭抛棄を明記して居るが、更に積極的に世界に向つて平和宣言をなす用意ありや否やと云ふ御尋ねであります、憲法に戰爭抛棄を明記したことに付きましては、日本は實に世界平和を念願する爲の一大決心に基いたものでありまして、其の趣意を以て世界に既に呼び掛けて居る譯であります、更に宣言をなすことの用意ありや否や、なすべきや否やと云ふことは暫く今後の國際事情の發展に待ちたいと思ひます、一應御答へを致します(6月22日本会議議事録)

 弁護士出身の進歩党吉田安も、少し趣旨は違うが、第9条の実効性確保の観点から、6月27日の本会議で次のように述べた。

吉田安 (前略)或る人は、戰爭抛棄は、侵略國家たる日本が平和國に戰を仕掛けて負けたから、其の贖罪的な規定であると、斯う言ふ人もある、勿論贖罪的な規定とも考へられまするが、之を唯贖罪的だとのみ考へるならば、餘りにも過大過ぎると私は思ふ、何處にか國家としてはまだ遠大なる目的がなければならぬ、其の遠大なる目的に對しましては、總理大臣から何囘も御答辨になつて居りまするが、又一面國家の最低限度の自衞權はどうだ斯うだと言ふ人もあるのでありまするが、或は又永世局外中立國云々、國際聯合國云々と云ふ高遠なる目的は勿論必要でありまするが、其の高遠なる目的に進むに付きましては、何としても先づ國内に於て此の戰爭抛棄を如何に活かして行くかどうかと云ふ、それに對する御考へを私ははつきり承つて置きたいです(後略。6月27日本会議議事録)

 これに対し、金森憲法担当相の答弁は次の如くであった。

金森 (前略)御主張の如く、日本は此の際大乘的見地に於きまして、平和の一路を突進して、世界文化諸國の先頭をなす趣旨を以て此の案を設けたのでありまして、其の規定の第一項に當るべきものは、世の中に必ずしも類例がない譯ではありませぬが、第二項を設けまして、名實共に平和の一路に進む態度を示しましたことは、畫期的な日本の努力であると思ふのであります、大體人類の世界に於ける理想を實現致しまする爲に、單純なる伝統的の思想をのみ追究致しますれば、疑心暗鬼に依つて殆ど文化的前進をすることは出來ないのでありまして、日本は此の今囘の改正草案の中に於きまして、衆に先んじて一大勇氣を奮つて模範を示す趣旨であるのであります、隨て固より之に基きましての凡ゆる施策に於きまして、一路此の目的を達成することが必要でありまして、平和的文化的な各般の處置は是よりして國家全局の力を總合して努力すべきものと考へて居ります(後略。同上)。

 世界に向けて積極的に平和主義を打ち出し、平和規範として国内でどう生かすかという観点からの修正意見について、政府側の答弁は、及び腰であった。しかし、帝国憲法改正案委員小委員会において、この点はさらに深められ、修正がなされる。7月27日、28日と引き続いて、この問題について各党委員から意見が出され、最後は芦田が引き取ってまとめ上げた。口火を切ったのは、社会党の鈴木義男であった。鈴木は、かの憲法草案要綱をまとめた憲法研究会のメンバーでもあり、東北大学で行政法の教授を務めた経歴を有する学者であった。彼は次のように述べた。

鈴木 (前略)それから社會黨は此の總則の方へ持つて來るならば今一條平和愛好國であると云ふやうなことを出したいと思つた、日本國は平和を愛好し、國際信義を重んずる―是は法律に直すには可なり難かしい技術を要しますが、是は道徳的の規定になりますから、外にも道徳的の規定は澤山ありますけれども、其の趣旨は前文に出て居りますから、無理にさう云ふ一條を設け、或は此の前に出すことはないと思ひます、強ひて固執は致しませぬが、皆さんの御意見を伺ひます、唯戰爭をしない、軍備を皆棄てると云ふことは一寸泣言のやうな消極的な印象を與へるから、先づ平和を愛好するのだと云ふことを宣言して置いて、其の次に此の條文を入れようぢやないか、さう云ふことを申出た趣旨なのであります(7月27日小委員会議事録)

 このあと各党委員の意見がひととおり出たところで芦田委員長が、当日は土曜日ということもあって来週の委員会に持ち越すことということで締めくくった。そして7月31日の委員会冒頭、芦田委員長は、次のように述べて試案を提起した。

芦田 「日本國民は、正義と秩序とを基調とする國際平和を誠實に希求し、陸海空軍その他の戰力を保持せず。國の交戰權を否認することを聲明す。」と第一項に書いて、それから現在の第一項を第二項に持つて來て「前掲の目的を達するため、」、さうして第一項の「國權の發動たる戰爭」云々と斯う云ふやうにしたらどうかと云ふ試案なのです、さうして第二項の「他國との間の紛爭の解決の手段」と云ふ文句が、如何にも持つて廻つてだらだらして居るから、之を「國際紛爭を解決する手段」と直したらどうか(7月31日小委員会議事録)

 この試案をめぐり再び議論は紛糾、ひとまず他の条項の逐条審議をした後、8月1日に至り、以下のような具合に収束した(8月1日小委員会議事録)。

芦田 前項のと云ふのは、實は双方ともに國際平和と云ふことを念願して居ると云ふことを書きたいけれども、重複するやうな嫌ひがあるから、前項の目的を達する爲めと書いたので、詰り兩方共に日本國民の平和的希求の念慮から出て居るのだ、斯う云ふ風に持つて行くに過ぎなかつた

吉田安 そこで、正義と秩序を基調とする國際平和を希求して、此の希求の目的を達成する爲め、陸海空軍其の他の戰力は之を保持してはならない、「これを保持せず」、斯うしたら「保持せず」と直しても目的が謳つてあるから、委員長の御苦心が生きる、委員長と意見の違ふ所は、一項と二項は原文の儘で、自發的な精神を生かして……


(中略)

芦田 さうすると、今進歩黨の案は「日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、それから第二項に於て「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない」

 かくして第9条第1項に「日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し」という戦争放棄・戦力不保持を支える精神的支柱が据えられたのであった。

                                  (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その41

「帝国憲法改正案」の審議経過

 6月25日、『帝国憲法改正案』が衆議院に上程された。第1条と第9条の案文を再度確認しておこう。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。


 この日、本会議で『帝国憲法改正案』第1読会が行われ、本格的な論戦が開始されたが、既に、既に6月21日本会議で行われた吉田の首相就任演説に関する各党代表による質疑の中で、実質的に論戦の火ぶたが切られていた。

 まず審議経過を見ておこう。概略以下のとおりであった。

 6月28日まで、本会議で総括的一般的な審議が行われ、同日、帝国憲法改正案委員会(委員長芦田均以下74名)に付託。以来、7月23日まで、同委員会で18日間に及ぶ会議が開かれて濃密な議論が行われ、おおむね議論を尽くしたところで芦田委員長以下14名の委員(共産党からは、同党所属議員が少数であったから選出されなかった。)からなる帝国憲法改正案委員小委員会に移行して、非公開の懇談形式で共同修正案を作成することとなった。同小委員会は、7月25日から8月20日まで、夏休みも返上して13日間に及ぶ会議を持ち、暑い時期の熱い討議の結果、同小委員一致の修正案を作成した。

 8月21日に帝国憲法改正案委員会が開かれ、これを審議、可決し、同月24日の本会議で、芦田委員長が、同委員会における審議経過を報告し、あらためて質疑討論を行い、同日、記名投票方式によって修正『帝国憲法改正案』を議決した。反対者は8名のみ、圧倒的多数の可決であった。反対者のうち6名は共産党所属議員、2名は無所属左派系議員であった(議事録)。

 芦田の委員会報告は、冒頭、「本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります」との挨拶に始まり、「改正憲法の最大の特色は、大膽率直に戰爭の放棄を宣言したことであります、是こそ數千萬の人命を犧牲とした大戰爭を體驗して、萬人の齋しく翹望する所であり、世界平和への大道であります、我々は此の理想の旗を掲げて全世界に呼掛けんとするものであります、さうして是こそ日本が再生する唯一の機會であつて、斯かる機會を日本國民に與へられたることに對し、私は天地神明に感謝せんと欲するものであります、併しながら憲法が如何に完全な内容と雄渾の文字を以て書綴られたとしても、所詮それは文字たるに過ぎませぬ、我々國民が憲法の目指す方向を理解して、其の精神を體得するにあらずんば、日本の再生は成し遂げることは出來ないと思ひます」と結ばれていく1万7000字を超える詳細を極めたもので、憲法制定(改正)への芦田の並々ならぬ意気込み、熱意、情熱を感じさせるものであった。

 因みに同日の本会議で、共産党を代表して野坂参三が述べた反対理由は次のとおりであった。

① 勤労人民の権利保障が不徹底である
② 象徴天皇制の規定は反民主的である
③ 参議院は有害無益、衆議院一院制とするべきである
④ 第9条は自衛権をも放棄しており、民族独立を危うくする危険がある


 衆議院を通過した『帝国憲法改正案』では、原案の第1条と第9条は次のように修正されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。


 原案からの主な修正点は、第1条では、「日本国民の至高の総意」との語句が「主権の存する日本国民の総意」と改められたこと、第9条では、第1項に、冒頭、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」との語句が置かれ、第2項に「前項の目的を達するため」の語句が加えられたことである。

 これらの修正の意味ついては、後に述べることとする。

このあと貴族院での審議に移され、同院で、連合国極東委員会で問題とされた2ヶ条(第15条に公務員の選挙について成年者による普通選挙を保障する規定、第66条に、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない旨の規定を追加)を含む若干の修正のあと、衆議院に回付され、10月7日、衆議院本会議において起立方式による採決の結果、「五名を除き、其の他の諸君は全員起立、仍て三分の二以上の多數」(議事録)で議決された。
 この第66条のあまり注目はされてこなかった修正についても、その経緯、意味について、後に述べることとする。

 かくして日本国憲法は制定されたのであるが、戦争放棄・戦力不保持、象徴天皇制の順に、審議過程での議論のハイライトを抽出して見て行くことにしたい。

                           (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その40

審議日程は大きく変更された

 マッカーサー・GHQと、アメリカ本国政府及び連合国極東委員会(FEC)との日本の憲法改正問題(日本国憲法制定問題)をめぐる軋轢は、前にも述べたようにアメリカ国務省が、1946年3月、GHQ憲法問題顧問として送り込んだ政治学者で日本憲政史に造詣の深いケネス・コールグローブのとりなしで、調整作業がなされ、おさまりかけていたが、改正(制定)の手法とスケジュールについて、依然として対立の火種がくすぶっていた。
 日本政府は、当初、3月2日の閣議で、第90帝国議会で5月10日から7月10日の間に審議を終え、公布するということを閣議決定していたが、さらに4月24日、枢密院で、松本国務相が、「5月中旬に議会招集、6月中旬迄に審議終了、同月下旬に公布、7月に附属法規のための議会招集、本年末の議会開会の頃には本案施行の見透」と説明していた。

 このような改正(制定)手法と性急な審議に対しては、我が国においても反対する意見は根強いものがあった。

 2月3日には、輿論調査研究所の世論調査結果によると、「憲法改正委員を公選して国民直接の代表者により改正案を公議する」という者が53%、「議会の憲法改正委員会において改正案を審議する」という者は24%に過ぎなかったことが報じられた。

 3月から4月にかけて、憲法制定(改正)は、特別に選出された議員からなる憲法制定議会もしくは国民投票など、国民の参加声の下で行われるべきだという声が高まった。前年末に『憲法草案要綱』を作成し、政府とGHQにて提出していた憲法研究会の高野岩三郎、鈴木安蔵は、憲法制定議会をつくり、そこで時間を十分にとって審議すべきことを提言し、社会党、共産党を中心として結成された民主人民戦線も、「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」を決議した。ここに結集した主な人たちの名前をあげると、石橋湛山、大内兵衛、野坂参三、森戸辰男、山川均、横田喜三郎らなどであった(以上(古関『誕生』293、294頁)。

 政府が、このような声を無視して、上記のように決定してしまったのである。これは、憲法改正(制定)を急ぐマッカーサー・GHQの意を受けたものであったのだろう。 

 そこで、連合国極東委員会は、再々、マッカーサーに書簡を送って、さかんにマッカーサーを牽制するがマッカーサーは意に介さない。アメリカ国務省も、さらには陸軍省までも、心配をしてマッカーサーに連合国極東委員会と協議することを求めるが、マッカーサーはのらりくらりと身をかわす。

 かくして連合国極東委員会は、5月13日、以下のように決定をしてGHQに伝達した(国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料3-28)。

 日本の新憲法の採択についての原則

新憲法の採択についての原則は、その憲法が最終的に採択されたとき、それが、実際に、日本国民の意思の自由な表明であることを保証するようなものでなければならない。そのために、次のような諸原則が守られねばならない。

a 新憲法の条項を徹底的に討議し検討するため、十分の時間と機会とが与えられるべきである。

b 一八八九年の憲法と新憲法との間に完全な法的連続性の存することが保証されるべきである。

c 新憲法は、それが日本国民の自由な意思を、確定的に表明するものであることを示すような方法で採択されるべきである。


 しかし、マッカーサーは沈黙を続ける、しびれをきらしたアメリカ本国政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、6月11日、日本政府の審議スケジュールが拙速であること、憲法制定議会もしくは国民投票の手法をとるべきことを連合国極東委員会は勧告していることをあげ、「わが国政府は、貴官が日本の適当な指導者と協議し、憲法制定議会もしくはその目的を明らかにして選挙された国会、あるいは国民投票によって憲法を最終的に承認することに何の妨げもないことを明らかにすることが望ましい」との大統領書簡の素案を準備し、マッカーサーに「情報並びに指針」として送ることを決めた(古関『誕生』306頁)。

 ここに及んでついにマッカーサーは、第90帝国議会の開院がなされた翌日の6月21日に、形式上は日本国民向け、実際はアメリカ本国政府と連合国極東委員会に向けた声明を発表するに至った(Press Release: General MacArthur Issues Statement on Submission of Draft Constitution to Japanese Diet)

 その声明は、「審議のための充分な時間と機会」が与えられるべきこと、「明治憲法との法的持続性」が保証されるべきこと、新憲法の採択は「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならない、と説いたのであり(原文は、国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料4-5)、上記の連合国極東委員会の決定に満額回答をしたことを示すものであった。

 このマッカーサー声明によって、第90帝国議会は、審議日程が大幅に延長され、実りある審議の場となった。特別に設けられる憲法制定議会もしく国民投票ではなかったが、憲法制定(改正)が時の話題になっていた4月10日に実施された総選挙で、はじめて参政権を得た女性も参加して選出された議員は、文字通り国民の代表といってよく、彼らによって構成された新たな衆議院は国民の総意を反映し、自由闊達な議論の場となったといってよい。連日なされる新聞・ラジオの報道、それを通じて議会にフィードバックされる国民の声、それらも含めて日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたこを示すことができることとなったのである。その審議の過程を通じて、日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたことを示すことができることとなったのである。

 前置きが長くなったが次回には審議の中身に入ることにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その39

国民はメシも憲法もだった

 日本進歩党は大政翼賛会における公認院内会派であった大日本政治会(1945年3月、翼賛政治会から改編された。)を母体に、同年11、結成された保守政党で、幣原内閣も同党を支持基盤にし、幣原自身も、1946年3月、同党総裁に就任しているが、同年1月4日のGHQ・公職追放令(SCAPIN548、550)によって、現職議員274名中、260名が公職追放となり、4月10日の総選挙では、第二党の地位に甘んじることを余儀なくされた。

 日本自由党は、翼賛政治会時代に同会を脱退し、東条内閣と距離を置いていた鳩山一郎が敗戦直後から、「政治の手あかに染まっていない官僚、学者、ジャーナリストら新人を発掘し、穏健な社会主義者たちも包含して、清新で活力ある新政党を樹立する意欲を持って」(五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』講談社学術文庫259、260頁)、前年11月19日、結成された保守政党で、結成時は、43名の議員を有するに過ぎなかったが、4月10日の総選挙では、上記公職追放令の影響をまともに受けた進歩党の低迷をよそに、第一党に躍進した。鳩山は、勇躍、組閣に向けて動き出し、5月4日には天皇から組閣の大命が下されるという間際のところまでこぎつけたのであるが、その前日、公職追放の命令が下されてしまった。

 日本社会党は、戦前の無産政党の流れをくむ左右の社会民主主義者を幅広く糾合し、前年11月2日、結成。17名の現職議員が結集した。しかし、遺憾ながら、このうち10名が、公職追放となっている。戦後の平和、民主主義運動の担い手として大きな役割を果たした社会党であるが、その出自には、このような暗い側面があったことを忘れてはならない。この社会党は、4月10日の総選挙で、進歩等に肉薄する第三党に躍進した。

 日本共産党は、前年10月4日、GHQの人権指令によって獄舎から解放され徳田球一、志賀義雄らを中心として、同年12月4日再建され、活動を再開すると、急速に国民に浸透し、4月10日の総選挙では5名の当選者にとどまったものの、一貫して戦争に反対し、軍国主義・帝国主義を糾弾し続けた唯一の政党として知的道義的権威を獲得して、論戦をリードした。

 さて組閣を目前にして公職追放となり傷心の鳩山、衆議院には議席を持たない幣原内閣の外務大臣吉田茂に白羽の矢を立て、自由党総裁への就任と次期首相となることを要請した。吉田がこれを受諾して、1ヶ月以上にわたる「政権空白」にようやくピリオドを打つことになった。
 五百旗頭の前掲書に、このときのいきさつが次のように書かれている。

 「吉田は鳩山のあとを継ぐにあたって、長くじらした後、5月14日であろうか、鳩山を外相官邸に招いた。鳩山を呼び出しただけではなく、後から聞いた河野一郎が憤慨するような条件をつけた。第一は、金はつくれない、鳩山の方で面倒をみる。第二は、人事について、内閣は吉田に任せ鳩山は口を出さない[しかし、党の人事はすべてを鳩山に任せる]。第三は、やめたくなったらいつでもやめる[鳩山がやれるようになったらすぐにあけ渡す]。[ ]の部分は、吉田の回想は記していないが、鳩山の回想が記しているものである。」(同書276頁)

 実は、鳩山、吉田の間で、このような合意を見る前に、片山哲社会党書記長が中心になって、自由党、協同党、共産党との連立による救国政府構想が模索されていただけに、戦後の永久的保守政権の原型となり、三次にわたり7年間の長期間政権を担い、サンフランシスコ講和・安保条約体制を形成した吉田政権がこのような偶然と寝技的な闇取引のような合意でスタートをしたことは、歴史の悪戯というほか的確に表現する言葉がない。

 吉田による組閣を完了し、第一に吉田内閣が発足したのは5月22日、5月16日に召集され、6月20日、開院した第90帝国議会に枢密院での審議を終えた「帝国憲法改正案」が提出され、衆議院に上程されたのは同月25日のことであった。

 折から我が国の食糧危機は深刻の度を深めていた。国内の田畑は荒廃し、旧植民地からの米麦の強奪は不可となり、戦地や外地からの帰還が相次ぎ、当時、日本人は一日あたり、2500キロカロリーを必要とするとされていたのに、東京都民は1351キロカロリーしか摂取できず、配給は775キロカロリーに過ぎなかった。その配給さえも遅配続きで、このままでは1000万人の餓死者が出ると取りざたされていたほどである(五百旗頭・前掲書280頁)。

 こんな状況に国民は黙ってはいない。5月17日には、「食糧メーデー」と銘打った大集会が催され、皇居前広場に25万人もの大群衆がおしかけ、そこから繰り出したデモ隊は首相官邸を包囲した。「国体はゴジされたぞ 朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられ、徳田球一が塀を乗り越えて首相官邸に押し入るという勇ましい事件が起こったのはこのときのことであった。まさに共産党をも含む救国政府構想は絵空事ではなかったのである。

 では、国民は、メシより憲法だったのであろうか。いや、そうではなくメシも憲法もであった。国民は、飢えに我慢を強いられつつも、第90帝国議会衆議院の議論とそれを報じる新聞を食い入るようにして読み、ラジオのニュース放送にかじりついていたのである。

 さて、この第90帝国議会の衆議院において、後世語り継がれるほどの大活躍をした人物が二人いる。憲法担当国務大臣金森徳次郎と帝国憲法改正案委員会の委員長となった芦田均である。

 金森は、愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)、一高、東大を経て、1912年大蔵省入省、その後法制局に転じ、1934年、岡田啓介内閣で法制局長官を務めた。個人的なことをいうと、金森は、私にとって高校、大学の大先輩である。
1935年、右翼・軍部が騒ぎ立てた天皇機関説事件に関して、法制局長官として議会で見解を求められた金森は、「学問のことは政治の世界で論じない方がよい」とはねつけるが、右翼・軍部の攻撃が勢いを増し、1936年、金森は退官を余儀なくされ、退官後の金森は、警察や憲兵の監視下に置かれた。
 雌伏10年、1945年12月、法制局長官経験者は貴族院議員となる資格を有するとの規則により、貴族院議員に勅任され、第一次吉田内閣で、憲法担当の国務大臣に就任、第90帝国議会を通じて、政府を代表して1365回にも及ぶ答弁をこなしている。彼の答弁はとおりいっぺんのものではなく、長いものは1時間半にも及び、その内容も機知に富み、洒脱で、議事録を読むのが楽しくなるほどである。

 その金森は、第9条を評して、これからの日本は「文一道で行く」ことを選択したのだと述べているとおり、議会答弁でも、第9条に関しては、その意義を最も丁寧かつ明確に説明をしていることは後に見るとおりである。

 芦田については、第9条に後足であと泥をかけるようなことをしているので、それについて述べる箇所で紹介することにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その38

 
『憲法改正草案要綱』から『憲法改正草案』へ

 1946年3月6日、GHQ民政局とギリギリまで調整を経て公表された『憲法改正草案要綱』には次のような天皇の勅語が付されていた。

 朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ鑑ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享受シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シ誼ヲ邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念(おも)ヒ乃(すなわ)チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メンコトヲ庶幾(こいねが)フ政府当局其レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成センコトヲ期セヨ 
 
 なんとも読みにくい文章であるが、趣旨は読みとることができるだろう。日本国民は正義を尊重し、平和的生存と文化的向上を希求すること、戦争を放棄して諸外国との友好関係を確立すること、基本的人権を尊重することを宣命し、ここに憲法改正をする旨、宣言しているのである。

 この『憲法改正草案要綱』では、象徴天皇制と戦争放棄・戦力不保持は次のようになっていた。

第一 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト

第九 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄スルコト
 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト


 これがさらに4月17日公表された政府原案『憲法改正草案』では次のように条文化されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

 
 実質上の変更はないが、文章が、カタカナ・文語体からひらがな・口語体に変わっていることが目を引く。これは国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)が、3月21日、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出したことが契機となった。その意見書には、冒頭、次のように書かれていた。

 「国民一般に必要な書きものは、国民一般にわかりやすい書き方でなければなりません。それにもかゝはらず、これまで法令そのほかの公文書が、この点をおろそかにしてゐたことは、だれでもみとめているとほりであります。この不合理をそのまゝにしておくならば、すべての国民の心をあつめて新しい日本をうち立てようとしても、それはおぼつかないことに存じます。
 今や新しい歴史の出発点にあたって、国民に対する国家の期待をあきらかにし、国民の自覚と勇気とをふるひ起こさせる上から、この際、法令、公文書のすがたを一新することはきはめて望ましい手だてであると信じます。
 右の注意から、このたび政府でご提出になる憲法改正案をはじめ、すべての法令、公文書の書き方を次のようにお改め願ひたいと思ひます。

一、文体は口語体とすること
二、むずかしい漢語はできるだけ使はぬこと
三、わかりにくい言ひまわしは避けること
四、漢字はできるだけへらすこと
五、濁点、半濁点、句読点をもちひること
 
以上の方針のもとに、現在おこなはれてゐるものは、すみやかに書き改め、今後のものはこのやうに作られますやう、建議いたします。」


 「国民の国語運動」の代表、安藤正次博士は、台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長を歴任した国語学の権威で、賛同者名簿には、当時の著名な文化人が網羅されていると言ってもよいほどである(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説3-25)。

 日本国憲法の制定に向けて、条文化作業に関してもこのような国民的広がりがあったことは、特筆すべきことであり、敢えて紹介した次第である。

 法制局は、この建議を積極的に受け止め、閣議了解を得て、作家山本有三、国際法学学者横田喜三郎、元判事三宅正太郎らの協力のもとで政府原案『憲法改正草案』を起草したのであった。

 この政府原案は、明治憲法第56条により、枢密院の審議を経て若干の字句修正の上、6月20日、第90帝国議会に『帝国憲法改正案』として提出された。

 第1条、第9条に関しては、第9条2項について、「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。」と修正されただけである。

 さて、第90帝国議会では、前年12月に、満20歳以上の男女が選挙権を有することに改正された衆議院議員選挙法に基づいて、4月10日に実施された戦後はじめての総選挙によって選出された新しい衆議院において(定数466のうちの党派別当選者は日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、日本協同党14、日本共産党5、諸派38で、うち女性は39名。定数2の沖縄全県区はアメリカ軍政下にあったため、選挙が行われず、日本の国籍を有するものの台湾籍、朝鮮籍、樺太籍の者の参加は認められなかった。)、この第1条と第9条をめぐる議論が熱心に展開された。この経過を次回に見ていくこととしたい。

                                 (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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