「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その40

審議日程は大きく変更された

 マッカーサー・GHQと、アメリカ本国政府及び連合国極東委員会(FEC)との日本の憲法改正問題(日本国憲法制定問題)をめぐる軋轢は、前にも述べたようにアメリカ国務省が、1946年3月、GHQ憲法問題顧問として送り込んだ政治学者で日本憲政史に造詣の深いケネス・コールグローブのとりなしで、調整作業がなされ、おさまりかけていたが、改正(制定)の手法とスケジュールについて、依然として対立の火種がくすぶっていた。
 日本政府は、当初、3月2日の閣議で、第90帝国議会で5月10日から7月10日の間に審議を終え、公布するということを閣議決定していたが、さらに4月24日、枢密院で、松本国務相が、「5月中旬に議会招集、6月中旬迄に審議終了、同月下旬に公布、7月に附属法規のための議会招集、本年末の議会開会の頃には本案施行の見透」と説明していた。

 このような改正(制定)手法と性急な審議に対しては、我が国においても反対する意見は根強いものがあった。

 2月3日には、輿論調査研究所の世論調査結果によると、「憲法改正委員を公選して国民直接の代表者により改正案を公議する」という者が53%、「議会の憲法改正委員会において改正案を審議する」という者は24%に過ぎなかったことが報じられた。

 3月から4月にかけて、憲法制定(改正)は、特別に選出された議員からなる憲法制定議会もしくは国民投票など、国民の参加声の下で行われるべきだという声が高まった。前年末に『憲法草案要綱』を作成し、政府とGHQにて提出していた憲法研究会の高野岩三郎、鈴木安蔵は、憲法制定議会をつくり、そこで時間を十分にとって審議すべきことを提言し、社会党、共産党を中心として結成された民主人民戦線も、「新憲法は人民自身の手で制定すべきこと」を決議した。ここに結集した主な人たちの名前をあげると、石橋湛山、大内兵衛、野坂参三、森戸辰男、山川均、横田喜三郎らなどであった(以上(古関『誕生』293、294頁)。

 政府が、このような声を無視して、上記のように決定してしまったのである。これは、憲法改正(制定)を急ぐマッカーサー・GHQの意を受けたものであったのだろう。 

 そこで、連合国極東委員会は、再々、マッカーサーに書簡を送って、さかんにマッカーサーを牽制するがマッカーサーは意に介さない。アメリカ国務省も、さらには陸軍省までも、心配をしてマッカーサーに連合国極東委員会と協議することを求めるが、マッカーサーはのらりくらりと身をかわす。

 かくして連合国極東委員会は、5月13日、以下のように決定をしてGHQに伝達した(国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料3-28)。

 日本の新憲法の採択についての原則

新憲法の採択についての原則は、その憲法が最終的に採択されたとき、それが、実際に、日本国民の意思の自由な表明であることを保証するようなものでなければならない。そのために、次のような諸原則が守られねばならない。

a 新憲法の条項を徹底的に討議し検討するため、十分の時間と機会とが与えられるべきである。

b 一八八九年の憲法と新憲法との間に完全な法的連続性の存することが保証されるべきである。

c 新憲法は、それが日本国民の自由な意思を、確定的に表明するものであることを示すような方法で採択されるべきである。


 しかし、マッカーサーは沈黙を続ける、しびれをきらしたアメリカ本国政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、6月11日、日本政府の審議スケジュールが拙速であること、憲法制定議会もしくは国民投票の手法をとるべきことを連合国極東委員会は勧告していることをあげ、「わが国政府は、貴官が日本の適当な指導者と協議し、憲法制定議会もしくはその目的を明らかにして選挙された国会、あるいは国民投票によって憲法を最終的に承認することに何の妨げもないことを明らかにすることが望ましい」との大統領書簡の素案を準備し、マッカーサーに「情報並びに指針」として送ることを決めた(古関『誕生』306頁)。

 ここに及んでついにマッカーサーは、第90帝国議会の開院がなされた翌日の6月21日に、形式上は日本国民向け、実際はアメリカ本国政府と連合国極東委員会に向けた声明を発表するに至った(Press Release: General MacArthur Issues Statement on Submission of Draft Constitution to Japanese Diet)

 その声明は、「審議のための充分な時間と機会」が与えられるべきこと、「明治憲法との法的持続性」が保証されるべきこと、新憲法の採択は「国民の自由意思の表明」を示したものでなければならない、と説いたのであり(原文は、国立国会図書館電子展示会『日本国憲法の誕生』資料4-5)、上記の連合国極東委員会の決定に満額回答をしたことを示すものであった。

 このマッカーサー声明によって、第90帝国議会は、審議日程が大幅に延長され、実りある審議の場となった。特別に設けられる憲法制定議会もしく国民投票ではなかったが、憲法制定(改正)が時の話題になっていた4月10日に実施された総選挙で、はじめて参政権を得た女性も参加して選出された議員は、文字通り国民の代表といってよく、彼らによって構成された新たな衆議院は国民の総意を反映し、自由闊達な議論の場となったといってよい。連日なされる新聞・ラジオの報道、それを通じて議会にフィードバックされる国民の声、それらも含めて日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたこを示すことができることとなったのである。その審議の過程を通じて、日本国憲法は日本国民の自由に表明された意思によって採択されたことを示すことができることとなったのである。

 前置きが長くなったが次回には審議の中身に入ることにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その39

国民はメシも憲法もだった

 日本進歩党は大政翼賛会における公認院内会派であった大日本政治会(1945年3月、翼賛政治会から改編された。)を母体に、同年11、結成された保守政党で、幣原内閣も同党を支持基盤にし、幣原自身も、1946年3月、同党総裁に就任しているが、同年1月4日のGHQ・公職追放令(SCAPIN548、550)によって、現職議員274名中、260名が公職追放となり、4月10日の総選挙では、第二党の地位に甘んじることを余儀なくされた。

 日本自由党は、翼賛政治会時代に同会を脱退し、東条内閣と距離を置いていた鳩山一郎が敗戦直後から、「政治の手あかに染まっていない官僚、学者、ジャーナリストら新人を発掘し、穏健な社会主義者たちも包含して、清新で活力ある新政党を樹立する意欲を持って」(五百旗頭真『占領期 首相たちの新日本』講談社学術文庫259、260頁)、前年11月19日、結成された保守政党で、結成時は、43名の議員を有するに過ぎなかったが、4月10日の総選挙では、上記公職追放令の影響をまともに受けた進歩党の低迷をよそに、第一党に躍進した。鳩山は、勇躍、組閣に向けて動き出し、5月4日には天皇から組閣の大命が下されるという間際のところまでこぎつけたのであるが、その前日、公職追放の命令が下されてしまった。

 日本社会党は、戦前の無産政党の流れをくむ左右の社会民主主義者を幅広く糾合し、前年11月2日、結成。17名の現職議員が結集した。しかし、遺憾ながら、このうち10名が、公職追放となっている。戦後の平和、民主主義運動の担い手として大きな役割を果たした社会党であるが、その出自には、このような暗い側面があったことを忘れてはならない。この社会党は、4月10日の総選挙で、進歩等に肉薄する第三党に躍進した。

 日本共産党は、前年10月4日、GHQの人権指令によって獄舎から解放され徳田球一、志賀義雄らを中心として、同年12月4日再建され、活動を再開すると、急速に国民に浸透し、4月10日の総選挙では5名の当選者にとどまったものの、一貫して戦争に反対し、軍国主義・帝国主義を糾弾し続けた唯一の政党として知的道義的権威を獲得して、論戦をリードした。

 さて組閣を目前にして公職追放となり傷心の鳩山、衆議院には議席を持たない幣原内閣の外務大臣吉田茂に白羽の矢を立て、自由党総裁への就任と次期首相となることを要請した。吉田がこれを受諾して、1ヶ月以上にわたる「政権空白」にようやくピリオドを打つことになった。
 五百旗頭の前掲書に、このときのいきさつが次のように書かれている。

 「吉田は鳩山のあとを継ぐにあたって、長くじらした後、5月14日であろうか、鳩山を外相官邸に招いた。鳩山を呼び出しただけではなく、後から聞いた河野一郎が憤慨するような条件をつけた。第一は、金はつくれない、鳩山の方で面倒をみる。第二は、人事について、内閣は吉田に任せ鳩山は口を出さない[しかし、党の人事はすべてを鳩山に任せる]。第三は、やめたくなったらいつでもやめる[鳩山がやれるようになったらすぐにあけ渡す]。[ ]の部分は、吉田の回想は記していないが、鳩山の回想が記しているものである。」(同書276頁)

 実は、鳩山、吉田の間で、このような合意を見る前に、片山哲社会党書記長が中心になって、自由党、協同党、共産党との連立による救国政府構想が模索されていただけに、戦後の永久的保守政権の原型となり、三次にわたり7年間の長期間政権を担い、サンフランシスコ講和・安保条約体制を形成した吉田政権がこのような偶然と寝技的な闇取引のような合意でスタートをしたことは、歴史の悪戯というほか的確に表現する言葉がない。

 吉田による組閣を完了し、第一に吉田内閣が発足したのは5月22日、5月16日に召集され、6月20日、開院した第90帝国議会に枢密院での審議を終えた「帝国憲法改正案」が提出され、衆議院に上程されたのは同月25日のことであった。

 折から我が国の食糧危機は深刻の度を深めていた。国内の田畑は荒廃し、旧植民地からの米麦の強奪は不可となり、戦地や外地からの帰還が相次ぎ、当時、日本人は一日あたり、2500キロカロリーを必要とするとされていたのに、東京都民は1351キロカロリーしか摂取できず、配給は775キロカロリーに過ぎなかった。その配給さえも遅配続きで、このままでは1000万人の餓死者が出ると取りざたされていたほどである(五百旗頭・前掲書280頁)。

 こんな状況に国民は黙ってはいない。5月17日には、「食糧メーデー」と銘打った大集会が催され、皇居前広場に25万人もの大群衆がおしかけ、そこから繰り出したデモ隊は首相官邸を包囲した。「国体はゴジされたぞ 朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが掲げられ、徳田球一が塀を乗り越えて首相官邸に押し入るという勇ましい事件が起こったのはこのときのことであった。まさに共産党をも含む救国政府構想は絵空事ではなかったのである。

 では、国民は、メシより憲法だったのであろうか。いや、そうではなくメシも憲法もであった。国民は、飢えに我慢を強いられつつも、第90帝国議会衆議院の議論とそれを報じる新聞を食い入るようにして読み、ラジオのニュース放送にかじりついていたのである。

 さて、この第90帝国議会の衆議院において、後世語り継がれるほどの大活躍をした人物が二人いる。憲法担当国務大臣金森徳次郎と帝国憲法改正案委員会の委員長となった芦田均である。

 金森は、愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)、一高、東大を経て、1912年大蔵省入省、その後法制局に転じ、1934年、岡田啓介内閣で法制局長官を務めた。個人的なことをいうと、金森は、私にとって高校、大学の大先輩である。
1935年、右翼・軍部が騒ぎ立てた天皇機関説事件に関して、法制局長官として議会で見解を求められた金森は、「学問のことは政治の世界で論じない方がよい」とはねつけるが、右翼・軍部の攻撃が勢いを増し、1936年、金森は退官を余儀なくされ、退官後の金森は、警察や憲兵の監視下に置かれた。
 雌伏10年、1945年12月、法制局長官経験者は貴族院議員となる資格を有するとの規則により、貴族院議員に勅任され、第一次吉田内閣で、憲法担当の国務大臣に就任、第90帝国議会を通じて、政府を代表して1365回にも及ぶ答弁をこなしている。彼の答弁はとおりいっぺんのものではなく、長いものは1時間半にも及び、その内容も機知に富み、洒脱で、議事録を読むのが楽しくなるほどである。

 その金森は、第9条を評して、これからの日本は「文一道で行く」ことを選択したのだと述べているとおり、議会答弁でも、第9条に関しては、その意義を最も丁寧かつ明確に説明をしていることは後に見るとおりである。

 芦田については、第9条に後足であと泥をかけるようなことをしているので、それについて述べる箇所で紹介することにする。

                               (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その38

 
『憲法改正草案要綱』から『憲法改正草案』へ

 1946年3月6日、GHQ民政局とギリギリまで調整を経て公表された『憲法改正草案要綱』には次のような天皇の勅語が付されていた。

 朕曩(さき)ニポツダム宣言ヲ受諾セルニ伴ヒ日本国政治ノ最終ノ形態ハ日本国民ノ自由ニ表明シタル意志ニ依リ決定セラルベキモノナルニ鑑ミ日本国民ガ正義ノ自覚ニ依リテ平和ノ生活ヲ享受シ文化ノ向上ヲ希求シ進ンデ戦争ヲ放棄シ誼ヲ邦ニ修ムルノ決意ナルヲ念(おも)ヒ乃(すなわ)チ国民ノ総意ヲ基調トシ人格ノ基本的権利ヲ尊重スルノ主義ニ則リ憲法ニ根本的ノ改正ヲ加ヘ以テ国家再建ノ礎ヲ定メンコトヲ庶幾(こいねが)フ政府当局其レ克(よ)ク朕ノ意ヲ体シ必ズ此ノ目的ヲ達成センコトヲ期セヨ 
 
 なんとも読みにくい文章であるが、趣旨は読みとることができるだろう。日本国民は正義を尊重し、平和的生存と文化的向上を希求すること、戦争を放棄して諸外国との友好関係を確立すること、基本的人権を尊重することを宣命し、ここに憲法改正をする旨、宣言しているのである。

 この『憲法改正草案要綱』では、象徴天皇制と戦争放棄・戦力不保持は次のようになっていた。

第一 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国及其ノ国民統合ノ象徴タルベキコト

第九 国ノ主権ノ発動トシテ行フ戦争及武力ニ依ル威嚇又ハ武力ノ行使ヲ他国トノ間ノ紛争ノ解決ノ具トスルコトハ永久ニ之ヲ抛棄スルコト
 陸海空軍其ノ他ノ戦力ノ保持ハ之ヲ許サズ国ノ交戦権ハ之ヲ認メザルコト


 これがさらに4月17日公表された政府原案『憲法改正草案』では次のように条文化されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く。

第九条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
 陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。

 
 実質上の変更はないが、文章が、カタカナ・文語体からひらがな・口語体に変わっていることが目を引く。これは国語の平易化運動を熱心に進めていた「国民の国語運動」(代表・安藤正次博士)が、3月21日、「法令の書き方についての建議」という幣原喜重郎首相あての意見書を提出したことが契機となった。その意見書には、冒頭、次のように書かれていた。

 「国民一般に必要な書きものは、国民一般にわかりやすい書き方でなければなりません。それにもかゝはらず、これまで法令そのほかの公文書が、この点をおろそかにしてゐたことは、だれでもみとめているとほりであります。この不合理をそのまゝにしておくならば、すべての国民の心をあつめて新しい日本をうち立てようとしても、それはおぼつかないことに存じます。
 今や新しい歴史の出発点にあたって、国民に対する国家の期待をあきらかにし、国民の自覚と勇気とをふるひ起こさせる上から、この際、法令、公文書のすがたを一新することはきはめて望ましい手だてであると信じます。
 右の注意から、このたび政府でご提出になる憲法改正案をはじめ、すべての法令、公文書の書き方を次のようにお改め願ひたいと思ひます。

一、文体は口語体とすること
二、むずかしい漢語はできるだけ使はぬこと
三、わかりにくい言ひまわしは避けること
四、漢字はできるだけへらすこと
五、濁点、半濁点、句読点をもちひること
 
以上の方針のもとに、現在おこなはれてゐるものは、すみやかに書き改め、今後のものはこのやうに作られますやう、建議いたします。」


 「国民の国語運動」の代表、安藤正次博士は、台北帝国大学総長、東洋大学教授、文部省国語審議会会長を歴任した国語学の権威で、賛同者名簿には、当時の著名な文化人が網羅されていると言ってもよいほどである(国立国会図書館電子展示会「日本国憲法の誕生」資料と解説3-25)。

 日本国憲法の制定に向けて、条文化作業に関してもこのような国民的広がりがあったことは、特筆すべきことであり、敢えて紹介した次第である。

 法制局は、この建議を積極的に受け止め、閣議了解を得て、作家山本有三、国際法学学者横田喜三郎、元判事三宅正太郎らの協力のもとで政府原案『憲法改正草案』を起草したのであった。

 この政府原案は、明治憲法第56条により、枢密院の審議を経て若干の字句修正の上、6月20日、第90帝国議会に『帝国憲法改正案』として提出された。

 第1条、第9条に関しては、第9条2項について、「陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。」と修正されただけである。

 さて、第90帝国議会では、前年12月に、満20歳以上の男女が選挙権を有することに改正された衆議院議員選挙法に基づいて、4月10日に実施された戦後はじめての総選挙によって選出された新しい衆議院において(定数466のうちの党派別当選者は日本自由党141、日本進歩党94、日本社会党93、日本協同党14、日本共産党5、諸派38で、うち女性は39名。定数2の沖縄全県区はアメリカ軍政下にあったため、選挙が行われず、日本の国籍を有するものの台湾籍、朝鮮籍、樺太籍の者の参加は認められなかった。)、この第1条と第9条をめぐる議論が熱心に展開された。この経過を次回に見ていくこととしたい。

                                 (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その37

戦争放棄・戦力不保持は象徴天皇制の代償だったのか

 日本国憲法に、過去と断絶する前向きのベクトルとして埋め込まれた戦争放棄・戦力不保持(第9条)と過去と連続する後ろ向きのベクトルとして埋め込まれた象徴天皇制(第1条)とが、無関係ではなく相互関連性をもっていたことは、これまで述べてきたところから明らかであり、本論考のタイトル『「菊と刀」のバーター 日本国憲法第9条を考える』もそのことを当然のこととしている。

 しかし、どのような意味で相互関連性があったと見るのかは、検討を要するところである。

 一つの見方は、象徴天皇制を採択することに対する国際社会の批判、不安、不満を押さえ込むために戦争放棄・戦力不保持を採択したというものである。戦争放棄・戦力不保持代償説と呼んでおこう。

 憲法第1条(象徴天皇制)の由来を論じた第2章の中で、マッカーサーは、要するに天皇と天皇制が、占領統治の不可欠の手段であるとの認識に立って、これを温存することを模索していたが、幣原からの戦争放棄・戦力不保持の提案を受けて、これを採択することにより象徴天皇制を憲法に規定するとの決断をしたことを明らかにした。マッカーサーこそ、戦争放棄・戦力不保持代償説の本家本元である。さらには、「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)で、マッカーサーの決断を追認したアメリカ政府もこの考え方なのであろう。プラグマティズムの国にふさわしいというべきだろうか。

 もっとも幣原もこのような考えを口にしたことがある。平野文書に見る次の問答を見られたい。

問 よく分りました。そうしますと憲法は先生の独自の御判断で出来たものですか。一般に信じられているところは、マッカーサー元帥の命令の結果ということになっています。
もっとも草案は勧告という形で日本に本に提示された訳ですが、あの勧告に従わなければ天皇の身体も保証できないという恫喝があったのですから事実上命令に外ならなかったと思いますが。

答 そのことは此処だけの話にしておいて貰わねばならないが、(略)、豪州その他の国々は日本の再軍備化を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。

 
 しかし、この問答の直前に、次の問答があることを見落としてはならない。

問 かねがね先生にお尋ねしたいと思っていましたが、幸い今日はお閑のようですから是非うけたまわりたいと存じます。
実は憲法のことですが、私には第9条の意味がよく分りません。あれは現在占領下の暫定的な規定ですか、それなら了解できますが、そうすると何れ独立の暁には当然憲法の再改正をすることになる訳ですか。

答 いや、そうではない。あれは一時的なものではなく、長い間僕が考えた末の最終的な結論というようなものだ。

問 そうしますと一体どういうことになるのですか。軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうする訳なのですか。

答 それは死中に活だよ。一口に言えばそういうことになる。

問 死中に活といいますと・・・・・。

答 たしかに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。
恐らく次の戦争は短時間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰燼に帰してしまうことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。
 そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。

 
 幣原は、戦争放棄・戦力不保持は、幣原自身がかねてからの考えを深めたもので、天皇制の問題とは無関係に、独自に追求してきたものであることを強調しているのである。 

 憲法9条(戦争放棄・戦力不保持)の由来を論じた第1章で、私は、次のように要約した。

 戦後の民衆レベルでの戦争と軍への嫌悪の情と、平和の到来を歓迎し、二度と戦争を引き起こさせたくないという心情が、平和主義国建設の勅語やGHQが次々と打ち出す民主化指令を触媒として、無意識下において成長し、次第に戦争と軍備の放棄の意思へと化学変化を起こして行った。それは、民間憲法草案、幣原と昭和天皇のコラボによる「人間宣言」詔書、1946年1月24日の幣原・マッカーサー会談、政府における憲法問題調査委員会での軍事関条項削除の議論と試案作成、当時の憲法学の第一人者宮沢俊義の「転向と前進」などへとさまざまな形をとって、GHQ草案と政府の「憲法改正草案」へと流れ込んで行った。

 一方、憲法第1条(象徴天皇制)の由来を論じた第2章では、日本の指導層の天皇制維持にかけた執念、アメリカ政府の天皇制
に関する無定見、アメリカ軍部の戦術としての天皇制利用策、マッカーサーの占領統治のための天皇制利用論をつぶさに見た。

 敗戦、占領という激動期、そこでは未来への展望と過去への憧憬、前進と後退、変革・革新と安定・保守、進歩と反動、普遍と特殊、国際主義とナショナリズム、これらのあい反する方向性を持つベクトルが、まさに踵を接してせめぎ合っていたのである。

 上記のあい反するベクトルの前者が戦争放棄・戦力不保持であり、後者が象徴天皇制であった。この両者がともに日本国憲法に採択されたのはまさに対立物のせめぎ合いと統一という事物の属性を示す一事例である。プラグマチックな代償論では、こうした歴史のダイナミズムを表し得ていない。歴史はジグザグにしか進まないのだ。

                                (続く)

「菊と刀」のバーター―日本国憲法第9条を考える―その36

第3章 憲法第9条を考える

1 「菊と刀」のバーターの深層を読む

象徴天皇制は「日本人民の自由な意思」に従うもの―アメリカ政府の受容

 アメリカ政府は、天皇と天皇制の取り扱いについて、明確な政策指針を打ち出せないまま、マッカーサーとGHQに委ねてきた。尻尾が頭を振り回すような構図であった。しかし、いよいよそれに決着をつけるときがきたのである。

 国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)は、下部作業部会である極東小委員会(SFE)において、ライシャワーを中心としてこの問題の検討が続けたきた。

 極東小委員会は、GHQ草案(マッカーサー草案)が日本政府に交付されたのに遅れること二週間、1946年2月28日に、「天皇制の取り扱いについて」と題する文書(SFE141)が作成し、親委員会に提出した。この文書は、そこでの討議を経て、4月11日、一部訂正のうえ承認されて「天皇制の取り扱い」と題する確定文書(SWNCC209-1)となった。

 それは次のように述べている。

・ 1946年1月7日付「日本の統治体制の改革」と題する文書(SWNCC228)ですでに実行されている政治改革との関連で、とくに天皇制改革として留意する点は次のとおりである。
(イ)大日本帝国憲法第1条、3条および4条を精神・文言両面で改正し、天皇は神聖、不可侵であるのではなく、憲法に従わねばならないことを明記すべきである。
(ロ)天皇の神聖と天皇への盲目的献身の意識を吹きこむために公立学校を利用してはならない。皇位の由来が神にあり、天皇が神であるといういかなる叙述も教科書から排除され、公立学校内にある奉安殿の御真影も撤去される。また天皇および御真影への強制的服従(敬礼)は禁止され、教育勅語を読む儀式は一切許されない。
(ハ)天皇を神秘のベールで包み普通の人間から隔離し、畏敬の念を起させる人にする極端な手段は許されない。

・ 天皇の神格を否定した1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」はたいへん結構である。天皇はもっと一般の日本人や外国人と自由に平等の立場で接触をはかり、「天皇の意思」が真にどの辺にあるかを示すべきである。しかし、最高司令官は、これらの天皇の行為が全く自発的になされていると日本の国民にとられるような影響力を行使すべきである。


 これにより、GHQ、マッカーサーの措置をすべてアメリカ政府にオーソライズされ、受容されたことになる。結局、落とし所は、ポツダム宣言第12項にあった「日本人民の自由なる意志に従って」、ということである。

 しかし、それは過去と断絶できない後ろ向きの意思であり、アジアや世界とつながりをもたない内向きの意思だったのであるが、勿論、同文書では、そんなことには触れられていない。

戦争放棄・戦力不保持の革新性

 「菊と刀」のもう一方の核心である戦争放棄・戦力不保持は、象徴天皇制とは逆に、戦争に明け暮れ、数えきれいない悲劇、惨劇の中から、過去と断絶し、過去を克服して、未来へつなげる前向きのベクトルを日本国憲法に埋め込むものであった。
 それだけではなく、これは、当時の国際法の最先端に立つ革新的条項でもあった。

 国際法上、戦争違法化にむけて動き出したのは、わずか100年ほど前、人類史上かつてない惨害をもたらした第一次世界大戦後のことである。第1次大戦は、一方で全世界の労働者の国際連帯を旗印に掲げたロシア革命を産み落とし、他方で国際連盟設立をもたらした。

 第一次大戦後の国際社会は、軍縮の実現をめざし、無差別戦争観・戦争自由の思想にピリオドを打ち、戦争違法化と戦争を仕掛けた国には国際連盟による制裁を科すという道が模索された。

注:国際連盟は、加盟国間に重大な紛争を生じたときは、国際裁判もしくは国際連盟において紛争解決の手続をとるべきことを義務づけ、その手続き進行中と結論が出されたのちは一定の場合に、戦争に訴えることを禁じた。これに違反した場合には、連盟加盟国に違反国に対し、制裁その他の措置をとるべきことを義務づけた。
 さらに1925年、英、仏、伯、伊、独5カ国間で締結されたロカルノ条約を経て、全世界規模で、戦争と武力行使を違法とし、禁止するパリ不戦条約が締結されたのは1928年のことであった。

注:1925年・ロカルノ条約は、ドイツ-フランス国境、ドイツ-ベルギー国境の現状維持と不可侵を、フランス・ドイツ・ベルギーが認め、イギリス・イタリアがそれを保障したラインラント条約を中心とするヨーロッパの地域的集団的安全保障条約である。ラインラント条約により、締約国は、あらゆる攻撃及び侵入の絶対的禁止、挑発にもとづかない侵略に対する被害国を支援する義務、国際紛争平和的解決の義務を約定した。

 ここではパリ不戦条約について見ておくこととする。
 
(パリ不戦条約)
 
第1条 締約国は国家間の紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、かつ締約国相互の関係において、国家政策の手段と しての戦争を放棄することを、各々の人民の名で厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、締約国相互の間に起こる全ての争議または紛争は、その性質又は原因の如何を問わず、平和的手段以外の 方法で処理または解決を求めないことを約束する。


 パリ不戦条約は、上記第1条に「国家間の紛争の解決のため」とか「国家政策の手段として」とかの語句があるところから、侵略戦争の放棄・禁止するのみで自衛戦争は放棄・禁止されていないと理解するのが一般的のようだ。
 しかし上記第2条を読めばことは明白である。全ての争議または紛争を、性質、原因の如何を問わず、平和的手段以外の方法で処理または解決を求めないとされているではないか。従って、パリ不戦条約は、全ての戦争を放棄・禁止するものなのである。

 ところが、締約諸国は、不戦条約批准に際し、「自衛権の行使を留保する」との趣旨を明示した交換公文を差し入れ、「自衛権の行使を放棄しない」との条件で批准をしていたのである。このために、締約諸国は、勝手に、自衛のという名分さえ立つならば、戦争や武力行使ができるという解釈をとっていたのである(田岡良一「国際法上の自衛権」勁草書房157頁以下参照)。

 もっとも締約諸国が交換公文で留保した自衛権とは、パリ不戦条約を主導したケロッグ米国務長官により、「自国領域を攻撃又は侵入から守る自由」と定義されている(1928年6月23日付公文。森肇志『自衛権の基層 国連憲章に至る歴史的展開』東京大学出版会146頁以下参照)ので、本来は、歯止めがある筈であったが、これさえも無視しさる大国の横暴が大手を振って通用してしまった。

 たとえばイギリスは、交換公文に「世界にはイギリスの平和と安全に特別で死活的な利害関係のある地域があるが、それらの地域を攻撃から守ることは、イギリスにとってひとつの自衛措置だ。」と明記していた(当時のオースティン=チェンバレン外相の名前をとって「チェンバレン・ドクトリン」と呼ばれる。)。

 また我が国は、満蒙の特殊権益を標榜し、それを守ることも自衛権の行使だとして戦争、武力行使の違法化、禁止を完全に無視するかのような主張をしていた。

 やがてドイツ、イタリアは、それにわが国は行動でこのことを示した。

 かくしてパリ不戦条約も、第一次世界大戦をはるかに上回る惨禍を人類にもたらした第二次世界大戦を防ぐことができなかった。その第二次世界大戦が終結した今、世界は、まさに転機を迎え、国際連盟とパリ不戦条約の失敗を繰り返さないために、普遍的国際組織国際連合を設立し、恒久平和への道を模索していた。

 そのようなとき、我が国が、戦争放棄・戦力不保持を採択したことは、世界の人々に未来を切り開く呼びかけともなる出来事であった。

                                    (続く)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイア。2018年1月、弁護士登録抹消の請求が承認され、41年間の弁護士生活にピリオドを打ちました。しかし、これからも社会正義の話を、青臭く、続けようと思います。

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