天皇神格化・新興宗教「現人神教」確立への道(1)

 「戦国時代の群雄割拠を終焉させて天下統一を実現した英雄三人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康について、『織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川』と言い表わされるのは有名である。これをもじって明治維新の王政復古を三人の天皇、光格天皇、孝明天皇 明治天皇で表現してみると『光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治』ということになろうか。」(藤田覚『幕末の天皇』(講談社学術文庫))

 幕府の支配下にあった天皇・朝廷

 戦国時代、没落し、疲弊の極に呻吟していた天皇と皇室は、天下統一の過程で、覇者による支配に権威と正当性を与え、位階・官職を授与することで家臣・諸大名を圧服する道具として、その存在意義を見出され、覇者の庇護を受けて、存続することができた。

 徳川幕府が成立し、幕藩制統治システムが成立すると、1615年、「禁中並びに公家諸法度」が制定され、天皇と朝廷は、幕府の定める法令により規律されることになった。

 幕府による天皇、朝廷支配は、将軍⇒老中⇒京都所司代⇒禁裏付と順次下達され、公家の武家伝奏⇒関白⇒天皇と「上達」され、貫徹する仕組みとなっていた。

 上記諸法度第1条には「天子諸芸能の事、第一御学問なり」と天皇の在り方が定められおり、第11条には「関白、伝奏並びに奉行職事申し渡す儀、堂上・地下の輩相背くにおいては、流罪たるべき事」と朝廷官人(堂上は殿上人、地下は昇殿を許されない官人)が幕府の刑罰権に服することが定められている。幕末に激変するのであるが、それまでの朝幕関係の実際を見ると、幕府の威令は天皇、朝廷を覆っていたことがわかる。
 経済的にも、幕府が献上した禁裏御料3万石や上皇・公家所領など、朝廷の支配下にある所領は10万石、一貧乏藩の域にしか達し得ず、天皇、朝廷は、幕府の丸抱えと言うに等しい状態であった。

 幕府による天皇と朝廷支配にかげりが見えるのは、18世紀末頃からである。直接の契機となったのは1782年(天明2年)、天明の大飢饉である。幕府のおひざ元ともいうべき関東地方各地に頻発する大規模な百姓一揆は、幕府、将軍の威光を容赦なく叩きのめす。それと反比例して、尊王思想が、勃興する。

光格天皇による天皇・朝廷の地位引き上げの努力

 この流れに掉さし、上手に身をまかしたのは光格天皇であった。

 光格天皇は、傍系の閑院宮家出身で、1779年(安永8年)12月、即位し、1817年(文化14年)5月に退位するまで(退位後の1840年(天保11年)12月崩御までは上皇。歴史上最後の上皇である。)、天明大飢饉後の尊王思想の民衆への普及と幕府の朝廷尊重姿勢への微妙なポジション移動を読み取って、窮民救済を指示し、民衆の支持を確固たるものとし、宮中の神事・祭式を復興させ、先例に基づいて朝議を復興させ、天皇の威厳を高めて行った。

 1782年(天明2年)、天明の大火により京都御所が灰燼に帰すると、光格天皇は、消失前の御所ではなく古式の復古的御所の造営をすることを幕府に求めた。財政難の中、造営費を節約したい幕府は、事を重大と見て、老中松平定信を御所造営の総奉行に任命、復古的御所造営を断念させようとしたが、この交渉の中で、朝廷側は、プランをまとめて幕府側に突き付けるという従来なら考えられない強引なやり方をとり、光格天皇の初志を貫徹し、1790年(寛政2年)、復古的御所が完成すると、仮住まいの聖護院を出て、鳳輦(ほうれん)に乗り、美々しい行列を従えて、新しい御所に移った。

 このときの朝幕間の交渉において、もう一つ大きな変革がもたらされた。それは、従来、朝廷側の武家伝奏が一方的に京都所司代の屋敷に赴くというやり方であったが、光格天皇は、これは昔からそうであったわけではないから改めるできであると主張し、京都所司代の役人も、武家伝奏の屋敷を訪れるようにさせたことである。

 このようにして次第に、天皇・朝廷の地位は引き上げられ、朝幕対等の関係が築かれていくことになった。

                           (続く)

明らかになった安倍首相の「ポツダム宣言」に対する強い反感

 5月20日に行われた志位和夫氏との党首討論で、安倍晋三首相が、ポツダム宣言を「つまびらかに読んでいない」と答弁したことが話題を呼んだが、それ以上に驚くべきことは、その安倍首相が自民党幹事長代理だった当時、月刊誌「Voice」2005年7月号の対談で、「ポツダム宣言というのは、米国が原子爆弾を二発も落として日本に大変な惨状を与えた後、『どうだ』とばかり(に)たたきつけたものだ」と語っていたと報じられたことだ(朝日新聞デジタル 2015年5月22日08時36分)。

 どうやら安倍首相はポツダム宣言に対し、ひそかに敵意と言っていいほどの強い反感を抱き続けていたようだ。戦後レジームの出発点はポツダム宣言であるから、戦後レジームからの脱却を悲願とする安倍首相が、ポツダム宣言に対し、強い反感を抱き続けていたのは当然かもしれない。

 折角の機会だから、ここで、ポツダム宣言について、少しおさらいをしておきたい。

 1945年7月26日、無条件降伏し、連合国(ソ連)の占領下にあったドイツのポツダムの地より、米英中三カ国連名で、対日降伏勧告文が発せられた。これがポツダム宣言である。

 ポツダム宣言の骨子は、以下のとおりであった。

◎我ら(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、日本国に対し戦争を終結する機会を与える。
◎我らの条件は以下のとおりであり、これについては譲歩しない。
・日本国民をして世界征服の戦争へと導いた勢力を除去する。
・平和、安全及び正義の新秩序が確立され戦争能力が失われたことが確認されるまでの日本領域の諸地点の占領
・カイロ宣言の条項の履行。日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我らの決定する諸小島に限られる。
・日本軍武装解除。兵士は各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る。
・日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないこと。戦争犯罪人の処罰。民主主義的傾向の復活強化。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。
・日本は経済復興させ、公正な賠償の義務を履行するために産業を維持することができること。戦争と再軍備のためのそれは認められないこと。
・これらの条件が達成せられ、日本国国民が自由に表明した意思により平和的傾向の責任ある政府の樹立せられたことが確認されたら占領は解かれること
・全日本軍の無条件降伏と日本国政府による保障が提供されること。これ以外の選択肢は、壊滅あるのみ。

 我が国政府がこれを確認したのは同月27日のことであった。

 政府部内では、東郷茂徳外相は、「無条件降伏を求めたるものにあらざることは明瞭」、「占領も地点の占領」であり「保障占領であって広範なる行政を意味していない点は、ドイツ降伏後の取り扱いとは非常なる懸隔がある」と評価し、慎重かつ前向きに検討することを求めた。鈴木貫太郎首相も、一旦はこれに賛同したが、陸海軍内に強硬な反対意見が噴出したため、同月28日に至り、記者会見の場で「何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。我々は断固戦争完遂に邁進するだけである。」と強硬姿勢をとることとなってしまった。

 鈴木首相の上記発言が、ポツダム宣言受諾を拒絶したものと受け取られたのは当然である。これによって降伏の機会を逸した我が国が、8月6日の広島、8月9日の長崎と、相次いで原爆投下され、人類史上かってない惨禍をこうむったことは周知のとおりである。その惨禍とソ連の対日参戦を見届け、ようやく我が国政府は、ポツダム宣言受諾に動く。それでも、同月10日に、発した声明文は以下のとおりであった。

 「帝国政府は天皇陛下の一般的平和克服に対する御祈念に基づき戦争の惨禍を出来得る限り速やかに終始せしめんことを欲し左のとおり決定せり
帝国政府は1945年7月26日「ポツダム」に於いて米、英、華三国首脳者により発表せられ爾後「ソ」連政府の参加を見たる共同宣言に挙げられたる条件を右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含しおらざることの了解の下に受諾す
 帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向が速やかに表示せられんことを切望す」

 これに対して対日参戦をしたソ連を含め、米英中ソ4国を代表して米国務長官バーンズ名でなされた同月11日付回答書は以下のとおりであった。

 「我らの立場は左の通りなり。降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」

 見られるとおり、我が国が求めたのは国体護持。しかし、それについては、ポツダム宣言本文で、政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定されると述べていること、及びポツダム宣言第12項「日本国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府を樹立せらる」ことを占領軍撤収の条件としていることから、国民主権原理に反する天皇大権を否定していることは明らかであり、求めるだけヤボというものである。恐らく日本政府が注目したのはバーンズ回答が「天皇・・・の権限は、・・・・・・・連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」としたことであろう。どうやら天皇及び皇室は安泰だとほのめかしているように読めるのだ。
 我が国政府にとって国民の命などどうでもよい、唯一つの要求は、「天皇と皇室の安泰」であったのだ。どうやらそれは認められそうだと胸を撫で下ろして、我が国政府は、同月14日、ポツダム宣言を受諾するに至ったのであった。この間には累々たる原爆犠牲者の屍が積み重ねられた。その犠牲者とその後現在までつながる被爆者の生と死のことを思うと、当時の我が国政府高官らは、万死に値すると言わなければならない。このことは、いかに善良で、忘れっぽい日本国民といえども、子々孫々に至るまで、ゆめゆめ忘るまじきことだ。

 さて我らが安倍首相は、当時の我が国政府高官の系譜に属するようである。私たちは、そのような安倍首相のもとで戦争立法の企てが進められているのだということに格別の注意を払う必要がある。平和、安全の美名の下には、戦前回帰の狙いが隠されているのだ。   (了)

ゾルゲ事件断章 その2

 評論家松本健一氏は、『尾崎秀実 ゾルゲ事件上申書』(岩波現代文庫 2003年2月14日第一刷発行)に解説の一文を書いておられる。

 その中で、松本氏は、「この第一回目の上申書が、尾崎秀実の真実の転向を示すものなのか、それとも偽装転向なのか、については、現在でも議論がわかれているところである。ただ、その論理展開のしかたじたいは、当時の転向書の典型をかたちづくっている。翻っていると、そこにのべられている『転向』は型どおりのもので、尾崎秀実の精神の内面の動きがうかがえるものとはなっていないのである。ところが半年後の第二回目の上申書になると、その『転向』ははるかに具体的、というより自身の精神の内面を見つめる、ある意味では告白書の趣きを呈してくるのである。」と述べている。

 もっとも松本氏は、一方で、「かれが『転向』したのか、それとも偽装転向だったのか、などということは、わたしにはどうでもいいことのようにおもわれる。すくなくとも、共産主義=革命のみを正しい、絶対的な基軸と考え、尾崎はそこから離れていったのかどうかという『転向』議論は、何の意味ももたないとおもえるのである。」とも云っており、上申書(2)における尾崎秀実が、偽装転向であったかどうかの最終判断を回避(もしくは放棄)している。

 松本氏の見解に敢えて異を唱えるわけではないが、松本氏は上申書(2)の「精神の内面を見つめる」記述に着目して、「真実の転向」説に傾斜しているように思われるので、私は、むしろ同上申書中の「戦局の前途を想う」と題する第六章で展開されている戦局に関する大胆な提言に注目することにより、上記傾斜を「偽装転向」説側に少し戻しておきたいと思う。

 尾崎秀実は、第一章「重ねて上申書を呈上するにあたりて」、第二章「我が家、我が郷」、第三章「我が国土・我が国体を仰ぐ」、第四章「死に直面して」、第五章「悠久の大義に生きん」と綴ってきて、

 「今や私は日々の生活に満足し、我をして一日々々生かしめている総ゆるものに感謝しつつ悠々たる天地の中に生きつつあることを感じております。生物としての私は死によって、また個体を形成していた一切の原素に解体し去って跡なく消え去るでありましょう。しかしながら、それは宇宙の生命のうちに融化し去ることであります。」

と、超然として、死を迎える心境を語り、一旦ペンをおいたのであった。

 しかし、彼は、「現在上記のごとき心境に断罪の日を待ちつつある私もまた、眼前に迫り来る国家の逼迫せる危機を思っては、ただ黙し得ざるものがあるのを覚え、戦局の前途に考慮を馳せざるを得ないのであります。私は一度投じた再び取り上げて、この手記を続けます。」と述べて、第六章「戦局の前途を想う」を追加したのである。司法省刑事局思想課をして「今次大東亜戦争に対する被告としての見透対策が大胆率直に語られている」と言わしめた部分である。

 彼は、ここで、世界情勢の最近の発展を考察し、ドイツが本年度内(1944年内)に降伏に至るとの見通しをたて、そのもとで日本のとるべき根本態勢として、「総ゆる忍苦をもって現状を守り抜く」ことの重要性を提起している。彼は、その上で、長期戦を戦い抜くには、第一に、国民生活への配慮が大切であり、食うことの安心を保障することにより、国民生活に明るさを取り戻すことが必要であるとして以下のように述べる。

 「当局は真に謙虚に、かつ真剣に、何よりも自ら下層一般民衆の中に身を置いてこのことを考える必要があろうと思われます。」

 彼は、続ける。長期戦を戦うのに必要なことは、第二に勤労者層の政治的関心を高め、進んでその政治参与を実現する必要があると主張する。コミュニストたる尾崎秀実の面目躍如である。

 尾崎秀実は、さらに大東亜共同体にも敷衍し、中国問題の解決には中国の自主性を尊重すること、太平洋戦線においては守旧的防御に専念し、ソ連との良好な関係を維持して、ドイツ敗北後にヨーロッパ戦後体制をめぐり米ソの対立が生じることを待つべきである、そのとき米国も英国も疲弊をするだけではなく、国内には厭戦思想がひろがり、かつまた平和を希求する勢力が大きく進出するだろうから、わが国にとって米国とも妥協的収拾をはかる機会がおとずれるだろうと述べている。

 こういうことを堂々と述べる人が、ただひたすら懺悔をし、死一等を賜るを日を静かに迎えようとしていたとは到底思えないのである。(了)

ゾルゲ事件断章 その1

 ゾルゲ事件(当局発表では「国際諜報団事件」)に連座し、1944年11月7日、43歳の若さで刑死した尾崎秀実の、一審裁判所に提出した上申書(以下「上申書(1)」という。)、最終審の大審院に提出した上申書(以下「上申書(2)」という。)及び逮捕後約半年経過した1942年4月14日付検事調書(第27回)を読んだ(いずれも『尾崎秀実 ゾルゲ事件上申書』岩波現代文庫所収)。

 各上申書は、転向者としての真情を吐露したと認められた文書であり、いずれも内務省警保局発行の『特高月報』誌上に研究資料として掲載されたものである。

 上申書(1)は1943年6月8日付となっている。『特高月報』誌上には、内務省警保局保安課の手になる長い「はしがき」が付されている。抜粋すると以下の如くである。

 「尾崎秀実は、共産主義者として、国際共産党並びにその祖国ロシアに忠誠を尽くすために、日本の運命を売らんとした憎むべきスパイであった。そのスパイ生活は昭和5年から昭和7年までの『大阪朝日新聞』上海特派員時代、および昭和9年より昭和16年10月検挙されるまでの国際共産党諜報団時代の二時期に画される。」
 「その諜報内容には尾崎が、新聞記者として、あるいは内閣嘱託として、満鉄嘱託として、近衛公ないし風見章のいわゆるブレーンの一人として、かつまた昭和研究会の役員として、各その地位を利用し、(中略)『独ソ開戦前後の御前会議の状況』満鉄輸送関係等より推断して『年内に対ソ攻撃なし』との情報を送り、あるいは昭和16年8-9月頃世界各国の異常なる関心を集めて極秘裡に進められつつあった、日米交渉に関する日本の対米申入事項を提報する等、約90件に達している。」
 「尾崎が第一審において死刑を言い渡されたのは昭和18年9月29日であり、それが確定したのは、昭和19年4月5日、大審院において上告棄却となった時である。而して刑の執行はゾルゲと共に11月7日に行われたのである。」
「何れにしても、この上申書を書いた時は、まだ生きる希望を全然捨てねばならぬという時期ではなかった。しかしながら、それは極めて淡い希望であり、尾崎といえども当然死すべき運命を覚悟していたであろう。この上申書はこういった環境と心境の下に書かれたものであることを前提として、味わうべきであろう。」
 「死に直面して我が家、我が故郷、我が祖国を憶い、遂には我が国体の尊厳に触れて、これまでに犯した罪の怖ろしさに慄然となり、苦悩する思想犯の転向過程には、まことに味わうべきものがあろう。」

 上申書(2)は1944年2月29日付となっており、『特高月報』誌上には、以下の如き司法省刑事局思想課による「はしがき」が付されている。

 「本上申書は昭和19年4月5日上告棄却となった尾崎秀実が大審院の係判検事に提出したもので、大審院刑事部では昭和19年3月8日に受付けている。死に直面した被告が、悠久の大義に生きるべく思想的発展に懸命の努力を為していることが詳細に述べられているとともに、今次大東亜戦争に対する被告としての見透対策が大胆率直に語られているので、一読の価値あるものと認め印刷に付した次第である。」

 ご覧のように、各上申書は、当局公認の転向文書であるが、印刷に付し、あるいは「特高月報」誌上へ転載するという異例の扱いといい、「はしがき」の書きぶりといい、当局者さえも胸打つものがあったのであろう。

 一方、検事調書は、家族や交友関係あるいは仕事上の関係者への複雑な心境を語る部分もあるが、その他は自己の世界観、国体観、世界情勢の把握など自己の信念を決然と貫いた供述がしたためられた文書である。逮捕後約半年、第27回目の検事調書に至って、厳しく長く執拗な取調べにもかかわらず、非転向を貫き、堂々たる供述を展開している尾崎秀実の不屈の意思は、読む人に感動を呼び起こすであろう。
 彼は、やがて転向し、転向者として刑事裁判を受けることになったのであるが、上申書(1)、上申書(2)の行間、裏にまで目配りして読むと、これらからは、死刑の威嚇を伴って屈服を迫る国家権力に遂にこうべを垂れた真の転向者の姿とは異なる姿が浮かび上がってくる。彼は、たぐい稀な情勢分析能力により、日本の敗北が近いことを確信し、何としても生きのびることを選択し、そのために必至になって、当局者さえも心を動かされるほどに転向者を演じ通したのではなかろうか。日本敗北と世界大戦の終結は、世界革命の始まりである。生きて、世界革命を見届けよう。私には、彼がそのように考えたに違いないように思われる。

 あにはからんや、日本が敗北する前に、尾崎秀実は、死刑を執行された。しかし、それはむしろ幸いなことではなかったろうか。偉大な世界革命の根拠地となるべきソ連が、過渡期のプロレタリアート独裁を変じて醜悪なまでに国家権力を肥大させ、世界革命の反対物に転化したのだから。彼は、美しい世界革命の夢に生き続けることができたのだ。(了)

沖縄は「自己決定権の確立」を模索している

 昨年10月18日、10月19日と続けて、当ブログにおいて、わが国政府の沖縄に対する理不尽な措置について、論評した。

 1回目は、明治政府が行った琉球処分。これは、沖縄を住民の意思を無視してわが国に併合したものであり、沖縄に対する侵略であった。
 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-161.html


 2回目は、戦後における第二の琉球処分。これは、沖縄をわが国から切り離し、米国の統治に委ねつつ、名目上のみ主権を留保して紐をつけておくという姑息な措置であった。
 http://tofuka01.blog.fc2.com/blog-entry-160.html

 沖縄は、アジア太平洋戦争下、本土の盾としてわが国唯一の地上戦の戦場とされ、壊滅的な犠牲をこうむり、さらにはソ連を介した和平工作において捨石として利用されようとし、その上戦後ずっと米軍基地を殆ど一手に引き受けさせられ、本土の防波堤の役割を担わされてきた。
 このような理不尽かつ不当な扱いで煮え湯を飲まされ続けたにもかかわらず、沖縄の人たちは、一度は、日本を祖国として選び、祖国復帰の闘いに一致して取り組み、形の上では、日本への復帰を成し遂げた。だが、日本への復帰によって、沖縄の人たちは、何らやすらぎを得ることはできなかった。

 1995年9月、三人の米兵による少女暴行事件によって、沖縄では、米軍基地整理縮小を求める声が津々浦々に沸き起こった。時の大田昌秀知事のもとで、史上空前の大運動が展開された。この大運動は、1996年4月、日米政府間において、普天間基地の返還・名護市辺野古沖への移設の合意により、一旦収束をみた。

 しかし、普天間基地の辺野古移設は、沖縄の人たちにとっては、到底、受け入れがたいものであり、その後、日米政府を揺さぶり続ける震源地となっている。日米政府は揺れ続けている。中でも日本政府の振幅の激しさと異常性は、沖縄の人々の怒りを沸点にまで高めている。そして今や、沖縄の人たちは、一度は選び取った祖国日本が、それに値するかどうか、そのことを深く考え始めている。

 沖縄の地元紙、沖縄タイムスは、昨年8月から9月にかけて歴代基地担当記者9名による『普天間基地の本質』と題する特集記事を連載した。その中で、「自己決定権の確立」なる言葉を用いて、沖縄の新しいスタートを語っている。同じく地元紙、琉球新報も、昨年5月連載した『道標(しるべ)求めて-琉米条約百六十年 主権を問う』の中で、「日本国への併合後も沖縄住民への差別や人権が無視される状況が続き、そのたびに自治権拡大や自立論、独立論など、沖縄の『主権』を追及する主張が叫ばれてきた。沖縄が目指すべき『主権』やその実現への道筋を考える上で、条約をめぐる歴史から学ぶ教訓は多い。歴史は今の沖縄に何を語りかけるのか、現在の視点から歴史を捉えなおし、沖縄が歩むべき将来像を探る」と書いている。
(仲里効『南のエッジから日本を揺さぶる変革の波(下)』世界2014年12月号より)

 沖縄の人たちは、真剣に、自らの将来を見定めようとしている。そんなところに次のニュースが舞い込んだ。

【2014年9月13日 11時12分配信の沖縄タイムス・デジタルニュース】

 「米元副大統領で、クリントン政権下で駐日米大使を務めたウォルター・モンデール氏が1995年当時、米軍普天間飛行場の返還交渉で、日本側が在沖縄米海兵隊の駐留継続を望んでいたと述べていたことが12日までに分かった。同年に発生した少女暴行事件の重大性を米側が認識し、海兵隊の撤退も視野に検討していたが、日本側が拒否し、県内移設を前提に交渉を進めていたことになる。

 モンデール氏の発言は米国務省付属機関が2004年4月27日にインタビューした口述記録に記載。1995年の少女暴行事件について「県民の怒りは当然で私も共有していた」と述べ、「数日のうちに、問題は事件だけではなく、米兵は沖縄から撤退すべきかどうか、少なくともプレゼンスを大幅削減すべきかどうか、米兵の起訴に関するガイドラインを変更すべきかどうかといったものにまで及んでいった」と回顧している。

 その上で「彼ら(日本政府)はわれわれ(在沖海兵隊)を沖縄から追い出したくなかった」と指摘し、沖縄の海兵隊を維持することを前提に協議し、「日本政府の希望通りの結果となった」と交渉過程を振り返った。交渉相手として橋本龍太郎首相(当時)と河野洋平外相(同)の名前を挙げているが、両氏の具体的な発言は入っていない。

 当時、ペリー国防長官は米議会で「日本の全ての提案を検討する」と発言。ナイ国防次官補(当時)も「兵力の本土移転も含む」と述べるなど日本側が希望した場合は本土移転も検討する意向を示していた。」

 なんと米国は現在のような規模の沖縄基地の存続には何ら固執していなかったというのだ。現状規模の米軍のプレゼンスを望んでいたのは日本政府だったのである。冷戦終結後の、米軍再編成、世界的規模での米軍のプレゼンスの縮小という流れの中で、みたび琉球処分が行われたのだ。仏の顔も三度までという。沖縄の人たちの意識において、本土離れは確実に進むであろう。

 辺野古では、連日激しい抵抗が繰り返されている。日本政府は、これを圧殺しようとしている。顧みて、私は、一度は日本を祖国として選んだ沖縄の人たちを同胞として遇するに果たしてどれだけのことをしてきたであろうか、恥じ入るばかりである。 (了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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