「共産革命」の危機を訴えた近衛上奏文

 今日は12月8日。昨日に続いて戦争の話題をもう一つ。

 1943年2月・ガダルカナル撤退以後、わが日本軍は全戦全敗を重ね、1944年6月・マリアナ諸島失陥、翌7月・東条内閣退陣、同年12月~1月・レイテ決戦敗北とフィリピン放棄と続く。日本列島には、米軍の誇るB29爆撃機から雨あられのように爆弾や焼夷弾が降り注ぐ。

 かくして日本の敗北がもはや時間の問題となった。そのことを確認したかのように、1945年2月4日から11日まで、ソ連・クリミア半島の保養地ヤルタに、米英ソの首脳、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集い、会談した。これがヤルタ会談である。

 ヤルタ会談では、ヨーロッパにおける戦後処理の問題が主に話し合われたのであるが、日本問題についても話し合われ、重大な密約が取り交わされた。それは、ドイツ降伏後3ヶ月をメドとしてソ連が対日参戦すること、その見返りとして南樺太領有権をはじめポーツマス条約によって日本がロシアから得た諸権益をソ連に返還させること及び千島列島をソ連に引き渡させることなどというものであった。

 丁度そのころ、わが国においても、昭和天皇が、首相経験者や元内大臣といった7名の重臣たちを一人ずつ宮中に呼んで、戦局に関する意見を聴取していた。7名のうち、戦争の終結に踏み切るべきだという意見を述べたのは近衛文麿ただ一人であった。

 その近衛が、戦争を早期に終結させるためのはかりごとを開始したのは同年1月下旬のことであった。京都・宇多野の別邸・虎山荘に、元首相岡田啓介、元首相で現海相米内光政、仁和寺門跡岡本慈光らを招き、あるいは別途、高松宮の訪問を受けて、和平工作の密議をこらしたのであった。その中で、昭和天皇は退位、仁和寺に隠遁させるなどとする構想も練られた。ウーン、さすがは五摂家筆頭の当主だ、高貴なお方の考えることは違うなとうならされる。

 近衛は、同年2月14日、昭和天皇に呼ばれて拝謁し、練りに練って書き上げた上奏文を読み上げた。以下はその抜粋である。

 「敗戦は我国体の瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日までのところ、国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、又将来いかに変化するやは測知し難し)随て敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存侯。国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に侯。
つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向って急速に進行しつつありと存侯。即ち国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民はソ連の意図は的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相且安易なる見方と存侯。ソ連は究極に於て世界赤化政策を捨てざることは、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつつある次第に御座侯。」

 今、国内外の情勢は、「共産革命」に急速に進行しており、座視して敗戦をさきのばしすれば、ソ連の支援でわが国も「共産化」する。だから英、米国に早期に降伏してしまった方がよい。そうれば国体を守ることはできる。近衛は、このように迫ったのであるが、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べて、これを採用しなかった。

 昭和天皇は、本当は平和主義者であったと信じられているようであるが、開戦を決断して以後は、人が変わったように、勝利の報に喜び、敗勢になってからは一大打撃を与えて有利な情況を作り出して和平をするという持論に固執を続けていた。昭和天皇が、軟化したのは、沖縄戦の見通しとヨーロッパでのドイツ敗北がはっきりしてきた同年5月初旬のことであった。このことは正しく見ておく必要がある。

 ところで近衛上奏文にいうように、当時、わが国は、「共産革命」が進むような情勢があったのであろうか。私は、かつては、これは近衛の妄想ではないかと思っていたが、必ずしもそうとはいいきれないように思えてきた。

 実は、当時の状況を見ると、長期にわたる総動員・総力戦の結果、わが国の産業構造が重化学工業と軍需産業重用へとシフトし、そこに働く労働者が増大し、商店主・小経営者などの中間層の没落し、かつ全体的に窮乏化することにより、「共産革命」の主体となる分厚いプロレタリアートが形成されつつあった。また国民意識の面でも、闇取引の日常化、空襲による破壊と死・戦病死者の急増などで、軍や官、国家と法秩序に対する不信と、状況によってはそれらに抵抗し、反逆する不遜な意識が広がりつつあった。確かに、「共産革命」の客観的な条件はできつつあったのである。これにイデオロギーと戦略・戦術を備えた部隊があれば「共産革命」に転ずる芽はあったということはできる。近衛は、若い頃、河上肇に師事したことがある。マルクスの著作も読んでいただろう。「共産革命」の危機は、決してウソやデマ、デタラメの放言ではない。近時の近現代史家は、戦時総動員体制と総力戦による社会と民衆の変化を重視するが、近衛は、眼前に進行する変化を適確に見ていたのである。(了)

日中戦争はこうして始まった・・・盧溝橋事件

 12月8日を前に戦争の話題を一つ。

 盧溝橋事件の直前、中国・華北方面における日中両国の軍隊の配置状況は、次のとおりであった。

 まず中国側。わが関東軍は、満州事変後の塘沽停戦協定(1933年6月)後、しばらくおとなしくしていたが、1935年以後、再び動き出した。いわゆる華北分離作戦である。これによって察洽薾(チャハル)省を追われた抗日の意気高い第29軍が、北京の防備を固めていた。

 次に日本側。中国・天津に支那駐屯軍という部隊が置かれていた。1901年の義和団事件の際に、清国政府に認めさせたものである。もともとの将兵の数1771名という小規模な部隊であったが、1936年、陸軍は、防共と在留邦人保護を名目にして、中国側とは何らの協議もしないまま、これを5774名に増強した。

 これら二つの軍隊の間に発生した小競り合いのような武力衝突が盧溝橋事件である。

 1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近において、支那駐屯軍第1連隊第3大隊に属する第8中隊の将兵が演習をしていた。丁度そのころ、同じように近くで中国側の第29軍に所属する一部の部隊も演習をしていた。そこに銃声が鳴り響き、日本側の主張では、最初は数発、続いて十数発の弾丸が撃ち込まれたとのこと。兵士1名が行方不明になったといって大騒ぎとなる。15分もたつと何のことはない、その兵士は小用をたしていたと言って戻ってきた。しかし、連絡が徹底せず、捜索を続けているところへ、これまた日本側の主張では、またまた銃弾が撃ち込まれたと言う。何だか謎めいてよくわからないが、この偶発事件をきっかけに、いきり立った第1連隊・連隊長牟田口廉也大佐が、独断で攻撃命令を出した。
 その結果、両軍の間で武力衝突が発生した。しかし、この武力衝突は、上部機関の外交的折衝によって、翌々9日には停戦協定が成立し、一旦、戦闘は終わったのであった。ところが、かの牟田口大佐の独断専行は続く。なんと停戦協定を無視して部隊を進軍させたのである。驚いてかけつけた旅団長河辺正三少将が止めようとしたところ、牟田口大佐はこれを睨みつけ、強引に攻撃を黙認させてしまった。以下は目撃談である。

 「旅団長は顔面蒼白、今にも一喝するかと思われる相貌となった。両者相対する距離わずかに3メートル。恐ろしい剣幕に私は圧倒され、・・・中略・・・。両者睨み合うことわずか2、3分ではあったが、私には長い時間があった。旅団長は遂に一言も発せず踵を返して旅団司令部に引き返された。」

 かくして戦闘が、再び始まり、拡大して行った。

 11日には、陸軍は、内地から3個師団、朝鮮から1個師団、満州から2個旅団派遣を決定、時の近衛文麿内閣(同年6月、林銑十郎内閣の総辞職を受けて、組閣したばかりであった。)もこれを承認。近衛首相は、中国国民政府に対し、19日までに謝罪をすることと現地付近の中国軍の撤退を強硬に要求し、これが受け入れられない限り「武力膺懲」を行うことを通告したのであった。そして早くも同月13日、我が国内では、新聞各紙が一斉に「暴支膺懲」を煽るキャンペーンを開始し、国民は、これに熱狂的に応え、「暴支膺懲」の叫びは全国津々浦々に響き渡った。

 このようにして泥沼の日中戦争は始まった。盧溝橋事件をめぐってはさまざまな陰謀・謀略論があるが、決定的な証拠はない。しかし、牟田口大佐の独断専行が、一つの推進力になったことは間違いないだろう。

 牟田口大佐は、後に、こんなことを云っている。

 「盧溝橋事件の際、私の連隊が独断で敵を攻撃したが、当時の河辺旅団長は私の独断を許され、旅団命令で攻撃したようにとりつくろっていただいた。私は当時、旅団長の処置に非常に感激した」

 この牟田口大佐は、その後も順調に出世をして中将に昇進、1944年当時にはビルマ駐屯第15軍の司令官となっていた。だが、思い込みと強引さは歳をとり、将軍の地位に上り詰めても変わらないようだ。彼、牟田口中将は、アジア・太平洋戦争史上、最悪の作戦といわれるインパール作戦を、幕僚たちの強い反対を押し切り、強行させたのであった。この無謀な作戦により、参加人員10万名の将兵のうち実に3万名が戦死、2万名が戦病死したとされる。無為に山中を彷徨し、散って行った人びとの無念はいかばかりであろう。しかし、牟田口中将は、撤退を決断した部下を「無能」、意気地なし」などと罵るばかりであった。

 牟田口中将は、戦後、A級戦犯容疑で逮捕され、シンガポールに移送されて裁判を受けたが、無罪放免され、1966年まで生きながらえた。晩年まで、インパール作戦の正当性を弁明し続けたという。

 上意下達の軍隊組織においては、自信過剰と独断専行の人物が輩出しやすい。そして彼らが指導的地位につくと、国の進路を誤らせることになる。牟田口廉也氏はその一例である。(了)

「満蒙の特殊権益」なる幻想に発した満洲事変

 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ シリーズ日本近現代史⑤』(岩波新書)を読んだ。本書は、通史のシリーズもの歴史書としては極めてユニークな本である。概してこのシリーズのものは力作ぞろいであるが中でも本書はピカイチである。是非ご一読をお薦めしたい。

 満州事変のキーワードは、「満蒙の特殊権益」であった。関東軍を前衛に押し立てた軍部は、「満蒙の特殊権益」を死守せよとのプロパガンダを大々的に展開し、中国への侵略と干渉を正当化した。「満蒙の特殊権益」なる特殊観念は、情緒的な響きをともなって国民各層に浸透していった。本書は、この「満蒙の特殊権益」論にこだわりぬいている。実に、その三分の一ほどが「満蒙の特殊権益」論である。

 「満蒙」とは何か。それは南満洲及びこれに隣接する内蒙古の東部地方という地域を指している。しかし、それは状況に応じて空間的に拡大する変幻自在性をもっている。「特殊権益」とは何か。それは、わが国の専有や優先権の認められた権利と、これらに基づいてわが国が実施し、発展させた経済的・政治的な諸利益ということを意味する。

 両者連結して「満蒙の特殊権益」という。何だ、それでは全然展開がないではないかと思うであろう。確かにそうだ。「満蒙の特殊権益」とは、もともと結論ありきのトートロジーになるべき宿命をもった中国への干渉と侵略のための道具概念だから。

 「満蒙の特殊権益」を主張する基礎となっているものは、①日露戦争後のポーツマス条約による山東半島と南満洲鉄道に係るロシア権益の譲渡条項、②この譲渡を承諾させた日清条約、③その後狼に変じた日露帝国主義が接近して取り交わした満洲、内蒙古に関する相互の影響力を及ぼし得る範囲を画定した日露間の秘密協定、さらには④中華民国に対し対華21か条の要求をつきつけ、武力を背景にその受諾を迫った締結された「南満洲及び東部内蒙古に関する条約」(1915年5月25日調印)などの諸条約であった。

 「満蒙の特殊権益」を広義にとると、満蒙の地そのものがわが国の勢力範囲(支配圏)であるということを主張となる。だが狭義にとれば上記①、②及び④の諸条約で個別に特定される具体的な権利、利益である。前者を概括主義、後者を列挙主義という。
 勿論、これは単なる事実もしくは状態ではなく、国際法上の概念であるから、国際社会の主要アクターたる列強諸国の承認が前提となる。

 軍部がプロパガンダで用いたのは、概括主義にもとづく「満蒙の特殊権益」であった。これは満蒙の地は、わが国において切り取り自由であり、あるいはまたわが国の生命線であるという身勝手な主張につながる。

 しかし、果たしてそのようなものが列強諸国に承認されたものと言えるだろうか。本書は、列強諸国に承認されたものだとされる論拠を一つずつ検討し、論駁する。そもそもこれは昭和初期まで実権を保持していた伊東巳代治によってさえ否定されたしろものである。
 結局、そのような概括主義に基づく「満蒙の特殊権益」なるものは、列強諸国に承認されたものではなく、独断、牽強付会によって生み出された幻想に過ぎないのであった。

 では限定列挙主義に基づく「満蒙の特殊権益」とはなんだろうか。それは第一に旅順・大連の租借権とこれに附帯する権利と利益であり、第二に南満洲鉄道及びこれに附帯する権利、その沿線炭鉱の経営権と鉄道の自主警備の権利(鉄道1名kmにつき15名を超えない守備隊の配置は条約の拡大解釈である。)であり、第三に南満洲における日本国臣民の自由往来、商業、工業、農業の自由とそのための土地・建物の所有の権利、第四に東部内蒙古における日本国臣民の現地民との合弁による農業・工業の経営の権利である。
 これらのうち、第四のものは必ずしも列強諸国により承認されたものとはいえない。

 このような限定列挙主義に基づく「満蒙の特殊権益」論でも批判はあるだろうが、これならば少なくとも満洲事変の引き金になることはなかっただろう。

 第一次世界大戦後は、帝国主義諸国間の領土切り取りの自由は否定され、戦争違法化、民族自決と領土保全、国際法遵守の流れが主流となり、わが国も、五大国の一員となり、国際連盟の常任理事国として、この主流に掉さしていた。しかるに軍部と超国家主義者によってふりまかれた概括主義に基づく「満蒙の特殊権益」の幻想により、わが国は、途方もない侵略戦争への道をひた走ってしまった。

 領土問題をはじめ、諸外国との懸案事項は、事実に基づき冷静に検証すること、権利と利益の争いごとをナショナリズムの梃子にしたり、ぬきさしならない国家間の紛争にしたりしてしまわないこと、これが「満蒙の特殊権益」論からくみ出すべき現代への教訓である。  (了)

再び考える在日朝鮮人・韓国人差別

 韓国併合後の朝鮮からの渡航者第一波(1922年まで)の状況については、昨日の記事に示しておいた。渡航朝鮮人は、第一次世界大戦後の反動不況の中で、内地国民、中でも底辺労働者、職人層、雑業層から、鬱積する不満の捌け口として、敵視、蔑視、危険視され、差別、偏見の対象とされていく。やがて、それは暴発する。1923年9月、関東大震災後の朝鮮人大量虐殺がそれである。それは、軍・警当局者の誘導はあったにせよ、暴発する下地は既に準備されていたのだ。

 しかし、1920年代後半になると朝鮮からの渡航者は、第一波よりも一層大きな波となって押し寄せる。1920年代、わが国政府と朝鮮総督府は、内地の食料不足を解消するために、朝鮮を内地の食糧庫と位置づけ、米の増産計画を実施する。それは小規模農地を耕地整理によって大規模化し、生産性をあげることにより米の産出量を増大させるというもので、ここでも再び農民は土地から分離される。それだけではなく、収穫された米は内地へ移出され、朝鮮では、人びとは「外米」と「満州栗」を主食とすることになる。かくして朝鮮では人びとがあぶれ、半ば難民のようにして内地へ押し寄せてくる。1920年代後半には年間ほぼ十万人から十数万人を数えたとのことだ(成田龍一『大正デモクラシー シリーズ日本近現代史④』岩波新書)。

 内地へ渡航してきた朝鮮人は、多くは低賃金・3K労働に従事する最下層労働者として、都市周縁部に集団をつくって居住していた。そして苦しい、厳しい生活を、同胞たちの助け合いにより、なんとかしのいでいたのだ。

 そうした人たちも、1925年3月に成立した衆議院議員選挙法改正法(いわゆる普通選挙法。「25歳以上の帝国臣民男子」は選挙権を有し、「30歳以上の帝国臣民」は被選挙権を有することになった。)によって、選挙権・被選挙権を得ることになったと聞くと驚く人が多いかもしれない。

 内地に居住する外地籍臣民の選挙権・被選挙権については、以前から議論されてきたが、結論が得られていなかった。しかし普通選挙法において、内地で同一住居に1年以上居住していたとの居住要件を満たす外地籍臣民については、内地籍臣民と等しく選挙権・被選挙権が付与されることになったのであった。

 1928年2月20日、普通選挙法に基づく最初の選挙が実施された。このとき選挙権を認められた外地籍臣民は、朝鮮人が8府県で9983人(うち東京で1085人)、台湾人が約150人(東京)であったとのことである(成田・前掲)。

 内地に居住する朝鮮人、台湾人の選挙権・被選挙権は、社会においては大きな議論となることはなく、なんの葛藤ももたらすこともなく受け入れられていった。そのことは次の実例に見るとおり、立候補者が朝鮮人有権者に秋波を送っていた事実に端的に見ることができる(有馬学『帝国の昭和 日本の歴史23』講談社学術文庫)。

 福岡県田川郡を地盤とする社会民衆党・社会大衆党の亀井貫一郎は、4回、衆議院議員に当選している。彼の選挙用名刺には、ハングルのルビがふってあった。同地域にまとまって居住する朝鮮人有権者の票獲得のためである。

 東京都知事枡添要一氏の父君は、福岡県若松市の市会議員をしていた。彼が1930年の市会議員選挙に立候補したときの選挙ポスターが残されている。それには氏名にハングルのルビがふられている。ことほどさように朝鮮人有権者の票が欲しかったのであろう(地方議員の選挙にも普通選挙法は準用された)。

 普通選挙法では、女性の選挙権・被選挙権は認められていない。そのことだけを捉えるならば、内地に居住する朝鮮人、台湾人(男性)は、内地籍女性よりも一歩ぬきん出ていたということがいえるかもしれない。だが、やはりそれは決して朝鮮人に対する敵視、蔑視、危険視が消え去り、彼らに対する差別、偏見がなくなったことを意味するものではなかったことは、その後の歴史が証明している。

 たとえば、ずっと後、戦後のことになるが、吉田茂首相は、ダレスとの講和条約に関する交渉に際し、ダレスから、講和条約の当事者として韓国を加えるかどうか打診されたとき、「在日朝鮮人は非合法活動をしており、日本政府はこれを憂慮していること」、「日本政府は在日朝鮮人を本国へ送還することをマッカーサーに申し出たがマッカーサーが反対したこと」、「下山事件の犯人は朝鮮人だと確信していること」など、まるで見当違いの理由をあげて、これに反対をした。日本のトップであった吉田首相にして、これだけ非合理的、エモーショナルな差別の虜になっていたのである(古関彰一『「平和国家」日本の再検討』(岩波現代文庫)。
 一般国民が、根深い差別と偏見を表出した事件やそれが原因となった事件は、星の数ほどあることは周知のとおりである。

 現代のヘイト・スピーチは、差別と偏見の居直りバージョンである。  (了)

象徴天皇制のもとで天皇が国政に関与した事例

 当ブログ11月11日欄に、旧安保条約締結に向けて、日本側から米国側に米軍駐留を願い出た経緯を書いた。それは昭和天皇による外交が勝利したことを意味していた。

 1951年9月8日、吉田茂首相は、サンフランシスコ・シティの豪華なオペラハウスに代表団の他の団員たちを従えて臨み、各国代表の列席する晴れの場で、得意満面の顔に笑みを浮かべて講和条約に調印した。その5時間後、米側の通告で、吉田首相は、単身、サンフランシスコ・シティの場末にある米陸軍施設に臨み、ひっそりと苦虫を噛み潰したような仏頂面をして、旧安保条約に調印した。

 このとき日本国憲法が施行されてから既に4年余り経過していた。その第4条第1項には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能は有しない」と定められ、第7条には「内閣の助言と承認」により執り行う8項目の「国事に関する行為」が定められている。しかるに、昭和天皇は、濃厚に国政に関与していたのである。

 昭和天皇の国政への関与は、その後も続く。それは1955年8月のことである。

 1954年12月、造船疑獄事件によって自由党・吉田内閣が総辞職すると、第二党である日本民主党の鳩山一郎が首班となり第一次鳩山内閣が成立、続いて1955年2月、解散・総選挙で日本民主党が大勝、第一党に躍進、第二次鳩山内閣が成立した。第二次鳩山内閣は、改憲・軍備増強・米軍撤退・国連加盟と安保条約の対等化を基本政策として掲げた。

 1955年8月末、重光葵外相が訪米、ダレス国務長官と会談。重光外相は、旧安保条約の対等・平等化のため、改定を強く求めた。しかし、ダレスは、頭から相手にせず、「充分な自衛力が出来た時に考慮すればよい」と冷たくあしらった。このときのやりとりを摘記すると以下の如くである。

 ダレス「もしグァムが攻撃されたら、日本はグァムつまり米国防衛のために派兵するのか」
 重 光「現憲法下でも派兵できる。日本の軍隊は自衛のためではあるが、米国との協議でもって派兵できる」
 ダレス「それは全く新しい話である。日本が協議に依って海外派兵出来るという事はしらなかった」

 重光外相は執拗に食い下がったが結局何の言質も得られなかった。

 この訪米に先立ち重光外相は、同年8月20日、那須の御用邸に滞在していた昭和天皇に訪米の「内奏」(実に明治憲法下の天皇主権の時代と同じである。当時もその後も内奏を続いていた。)に及んだ。重光外相の手記を見てみよう。

8月20日 土曜 晴れ 暑気強し
 午前9時、上野発、那須に向ふ。
 駅より宮内省(ママ)自動車に迎へられ、御用邸に行く。控室にて入浴、更衣。昼食を賜はり、1時参入、拝謁す。渡米の使命に付て縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり、又、自分の知人に何れも懇篤な伝言を命ぜらる。

 言葉使いといい、天皇に「拝謁」する前に入浴して、着替えまでしていることといい、まるで戦前の絶対君主である天皇に対面しているのではないかという錯覚を覚えるが、それはさておき、昭和天皇の話の内容は、要するに、鳩山内閣は、駐留米軍の撤退要求を掲げているので、それを牽制し、やめさせようとしているのである。昭和天皇の前に這いつくばる忠臣重光葵は、結局、ダレス国務長官との会談では、自らの口から駐留米軍撤退問題を持ち出すことは差し控えてしまったのである。

 それでも不安はぬぐえず、昭和天皇は、1956年2月17日、ワシントンに赴任する前に面会に訪れた谷正之駐米大使に、「アメリカの軍事的・経済的援助が戦後日本の生存に重要な役割を果たしてきたことについて深く感謝し、この援助が継続されることを希望する」、「日米関係が緊密であることを望み、それが両国にとって持つ意義を十分認識している」とのメッセージを、ダレス国務長官ほか米国の政府要人に伝えることを命じたのであった。谷駐米大使が、これに従ったことは言うまでもない。

 昭和天皇は、旧安保条約の成立、その維持に外交力を発揮し、重大な影響を与えたのである。これらは、たとえ象徴天皇制であっても、時と場合によっては、天皇が主権者の如く君臨することが起こり得ることを示す事例といえるだろう。

 日本人の心の奥底に天皇崇拝の残滓がへばりついていることを決して軽視してはならない。(了)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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