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漱石生誕150年 『坊っちゃん』の読み方一例(下)

 『坊っちゃん』の重要な登場人物に、山縣有朋が擬せられているらしいことがわかると、この小説は、よそ行きの顔の下から地の顔を見せてくるようである。
 よそ行きの顔とは、痛快な悪童物語、悪漢と正義漢をそれぞれコミカルに描写しつつ、正義漢が悪漢をこらしめる勧善懲悪の滑稽譚である。地の顔とは、当時の政治、政界を批判する風刺小説である。

 『坊っちゃん』が書かれた1906年3月当時といえば、万歳の声に沸き立った日露戦争も、終わってみると、多大な犠牲の上に成し遂げられた「薄氷の上の勝利」に過ぎないことがわかり、膨大な戦費調達のツケが国民生活を直撃している状況で、国民の失望、落胆、政府への批判の声は、朝野を覆っていた。

 当時の政界の上層部はどうなっていたか。

 既に二度にわたって首相を務め、帝国陸軍に不抜の政治基盤を築いていた山縣は、元老の一人として、伊藤博文さえもしのぐ実力を持ち、政界を支配していた。桂太郎は、山縣の一の子分、その温厚な人柄と巧みな政界遊泳術から、当時の新聞記者にニコポン(ニコッと笑って、肩をポンとたたく)宰相と揶揄される程で、山縣のタイコ持ち(幇間)と評されていた。その桂に協力し、日露戦争の難局を乗り切るのに貢献したのが西園寺公望であった。西園寺は、1906年1月に、山縣の仕切りの下で、桂から政権を引き継ぐ。西園寺は、フランスに留学した経験のあるハイカラ貴族である。
 以後、1913年1月まで、山縣の仕切る水面下での談合により、桂、西園寺による政権たらい回しの時代が続く。世に言う桂園時代である。

 漱石は、日露戦争中に、『吾輩は猫である』を書き始め、作家デビューを果たしたが、その中で、赫々たる戦果に沸き立ち、強国への道をひた走る当時の日本の民衆や指導者に対する強い違和感を、苦沙弥のセリフを通じて表現している。『坊っちゃん』の二年後に書かれる『三四郎』では、広田先生の口を通じて、これからの日本は「亡びるね」と言わせている。晩年の作『こころ』になるとずっと内面的で文明批判的になるが、エスタブリッシュメントへの批判精神は旺盛かつ健在である。

 1906年3月の漱石は、政治と政界の腐敗、堕落、それに敢然と立ち向かうことができない国民のありように、苛立ち、憤慨し、これを書かずにはおれない心境にあったであろうことは容易に推測できる。

 当時の出版法を見ると、表現の自由は、厳しく制限されていた。同法19条には次のように定められている。

 「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得」
 
 しかし、漱石ともあろうものが、こんなものにひっかけられるようなストレートな書き方をする筈はない。そこでわかる人にしかわからない記号と、記号解読のキーを散りばめつつ、よそ行きの顔の下に地の顔を埋め込むようにして書いたのが『坊っちゃん』であった。それは、今日までの『坊っちゃん』論を読むと大成功であったと言ってよい。

 さて、こうして地の顔をのぞいてみると、人物と人物との関係、描写される人物の特徴、言動、1906年3月当時の政治状況などから、校長の狸は山縣、野だは桂、赤シャツは西園寺と、次々と解き明かすことができる。

 こういう視点で、『坊っちゃん』を読みなおす。この熱い夏、これまた一興ではないだろうか。
                            (了)

漱石生誕150年 『坊っちゃん』の読み方一例(上)

 漱石は、1867年2月9日(慶応3年1月5日)生まれであるから、今年は、漱石生誕150年である。純文学では、おそらく漱石の作品が、一番多く読み継がれているのではなかろうか。

 その中でも『坊っちゃん』は、最も多く読まれている部類だろう。しかし、その読みとり方は、人それぞれである。

 たとえば吉本隆明氏は、「ひとつは典型的日本の悪童物語を書いたということです。」「赤シャツという文学士の教頭ができてきます。赤シャツは松山中学へ行ったときの漱石の分身です。知的なエリートである漱石は、赤シャツの方に投影され、幼児期あるいはもっと小さい時期の母親に育てられたときのじぶんの悪童性が『坊っちゃん』に表れています。必ずしも『坊っちゃん』が漱石の自画像ではなくて、漱石の優れた英文学者としての姿は赤シャツのなかに投影されています。」と述べている(吉本隆明『漱石を読む』ちくま文庫)。

 小説は多義的に読まれなければ優れた作品とは言えない。『坊っちゃん』の読まれ方は、本当に多義的である。

 「『坊っちゃん』は、校長の狸は山縣有朋、教頭の赤シャツは西園寺公望、画学の教師野だいこ(野だ)は山縣の子分の桂太郎と解読して読め。」

 英文学者で元慶応大学教授の赤木昭夫氏は、『漱石の遺言「坊っちゃんの」の風刺』(『世界』2016年4月号、5月号)で、このようなことを述べておられる。

 赤木氏は、『坊っちゃん』には、このようによむべき記号が三つあると言われる。「山城屋」と「松」と「マドンナ」である。

 一つめの「山城屋」。東京の坊っちゃんの生家の隣家の質屋の屋号は「山城屋」であり、坊っちゃんが松山に赴任して最初に泊った旅館の屋号は「山城屋」であった。
 坊っちゃんの生家の庭には栗の木があった。ある日、「山城屋」の息子が、栗泥棒に入り、坊っちゃんにつかまえられ、組みうちの末、一段低い質屋の敷地に転落してしまった。このことが坊っちゃんの子供時代の悪行、いたずらとしてさらりと書かれている。
 松山の旅館「山城屋」では、一日目は、品定めされたのか、階段下の暗くて熱い小部屋に押し込められたが、茶代として5円やると、二日目は15畳もの広々とした部屋に移され、下にも置かぬもてなしに変じた。

 泥棒、転落、金の力。確かにこれはただならぬ言葉的雰囲気の中で、「山城屋」という屋号が使われている。これには尋常ならざる意味が込められているようである。

 私は当ブログに書いた『明治維新という時代』の第三話『大西郷は永続革命を目指したのか』のなかで次のように書いた。

 「元長州騎兵隊幹部にして山縣の部下であった山城屋和助なる兵部省⇒陸軍省御用商人に、陸軍省は、総計64万円余りの大金(国家予算の1%ほどである)を貸し付けていた。山城屋は、これを生糸相場や遊興費に費消した挙句、1872年12月29日、陸軍省内で割腹自殺。山縣の公金横流しと同人から遊興費等を融通させていたとの疑惑があり、山縣は窮地に追い込まれたが、陸軍省の混乱を防ぐために西郷が奔走し、助けた。
 しかし、山縣は、旧長州藩御用達から陸軍省御用商人となっていた三谷三九郎なる者が陸軍省公金35万円を借り受け、返済不能となった件でも陸軍省内部で疑惑を持たれ、翌1873年4月18日、辞職を余儀なくされた。ただ、このときも西郷が陸軍省の混乱を防ぐために環境を整え、わずか11日後の同月29日、陸軍省御用掛(陸軍卿代理)として復職させた。
 なお、これらの事件については、司法卿江藤の追及の的になっていたことは言うまでもない。
 山縣にはその後も黒いうわさが絶えなかったが、やがて内閣総理大臣、帝国陸軍のドン、そして維新の元勲としてそのときどきのキングメーカーになる。みごとというべきだろうか?」

 二つめの「松」。坊っちゃんが赤シャツと野だに誘われて釣りに出かけたときに、沖合の小島に見えたみごとな一本の松の木。赤シャツと野だが、この松をめぐって、イギリスの画家ターナー談義をし、野だがこの小島をターナー島と名付けましょうと発案、赤シャツは、そいつは面白い、われわれはこれからそういおうと賛成する。
 庭園造りにかけては、玄人はだしの山縣。前出の『大西郷は永続革命をめざしたのか?』で、松本清張『象徴の設計』(松本清張全集17・文芸春秋社)の中で、伊藤が山縣自慢の邸宅・椿山荘に山縣を訪れて交わしたやりとりを引用したが、その少し前のところで、こんな場面が描写されている。

 「伊藤はまず黄昏れかける広い庭を逍遥した。背の低い伊藤と長身の有朋とはなだらかな傾斜をならんで下り、滝を眺め、小渓を渡り、池に佇んだ。『なるほどこれは大したものだ』と伊藤はほめた。『おぬしの庭づくりの腕はえらいものだ。噂には聞いていたが、こねえにええとは思わなんだ』」

 庭園造りが嵩じて、山縣は、1896年には、京都・南禅寺の西隣に無隣庵を完成させる。今は、京都を訪れる観光客の目をたのしませる場となっているが、ここには、明治天皇から下賜された二本の松が植えられていた。山縣はそのことを自慢話に吹聴しており、新聞でも大きく取り上げられたりしていた。「坊っちゃん」が書かれた1906年3月当時、松といえば、容易にこのエピソードが連想された。

 三つめは、マドンナ。「ターナー島」の松の話の続きで、野だが「あの岩の上に、どうです、ラファエルのマドンナを置いちゃ。いい画ができますぜ」と言うと、「マドンナの話はよそうじゃないかホホホと赤シャツが気味の悪い笑い方をした。」とあって、坊っちゃんが「マドンナというのは何でも赤シャツの馴染みの芸者の渾名か何かに違いない」、「なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない」と思う。
 山縣は、日本橋「吉田屋」の芸者大和(吉田貞子)を囲っており、1893年正妻が亡くなると入籍はしなかったものの家に入れ、後妻として扱うようになった。これも当時、知らぬものはいなかった。

 確かに、『坊っちゃん』では、山縣が、重要な登場人物に擬せられているようだ。
                               (続く)

中世史もおもしろい

 最近、明治維新史を少し論じましたが、中世史も結構おもしろいものです。なまなましい話題が続きましたので、今日は、四方山話としましょう。

 以前、NHK大河ドラマ『平清盛』で、平治の乱に破れた源義朝が、尾張野間の空海荘の荘司・長田忠致(おさだ ただむね)の館で、一の家人鎌田の次郎政清と、差し違え、自害をして果てるシーンが出てきました。
 確か、子供の頃には、風呂で斬り殺されたと聞かされていたので、調べてみたら、『平治物語』は謀殺説により詳細な描写がなされている、『平家物語』も『源平盛衰記』も簡単にしか触れていないが、謀殺説、唯一、慈円の『愚管抄』には自害したと記述されています。上記のドラマは、少数説を採用したもののようです。

 ところで、この長田忠致という男、平忠盛の前の正盛の時代(その前だったかしら?)に、伊勢から駆逐された伊勢平氏の傍流の子孫で、尾張野間に流れ着いて、再起し、空海荘の荘司となり、源氏の家人になっていた人物です。

 尾張野間とは、現在は野間、愛知県の知多半島の中ほど、西海岸にあります。私が、小学生のころには、美しい砂浜の海水浴場で、まさに白砂青松の地でしたが、今はどうなっているでしょうか。もっとも知多半島をもう少し先に行くと、内海というところがあって、そちらの方が有名な海水浴場でした。

 長田忠致は、その経歴からすれば、清盛にくしとなる筈ですが、その清盛に荷担したのは、時の流れを見たからでしょう。『平治物語』では、後に、頼朝により、義朝の墓の前でなぶり殺されることになっていますが、これはフィクションで、治承・寿永の内乱(源平の戦い)初期に戦死したというのが史実のようです。
 
 ところで清盛は、義妹の滋子を、二条天皇親政に傾く時の流れに掉をさし、二条に入内させようと画策しました。ところ男女の仲は、一筋縄ではいかぬもの、清盛の目論見は外れてしまいます。あにはからんや、二条の親父の後白河が、滋子に一目ぼれしてしまうとは。
 滋子は、はやばやと後の憲仁親王⇒高倉天皇を懐妊してしまいます。今様にうつつをぬかす大うつけもの、誰からも「治天の器」にあらずと陰口をたかれていた後白河は、次第に清盛に対抗するに足る力を身につけていきます。滋子の美貌、聡明さが、後白河を一念発起させたのでしょうか。
 
 さて、源氏は正義、平家は悪で歴史的に淘汰されるべきものという考え方は、中世史の学説史的にも興味のあるところです。

 歴史学者石母田正さんは、治承・寿永の内乱を、在地領主=武士階級を代表する源氏と国衙、荘園の貴族的専制体制の守護者である平家との内戦であったと位置づけました。これが、平家は旧体制派で没落する運命にある、源氏は正義、平家は悪と捉える考えを蔓延させることになったといえば言い過ぎでしょうか。
 しかし、その後の歴史学者からは、この「石母田領主制論」⇒「石母田平家物語史観」は、批判を受け、在地領主=武士階級だということも、源氏が武士階級の代表といのうも間違いだという指摘がなされています。武士の定義、その成立史も見直され、源氏も平家もパラレル(歴史的価値序列なし)にとらえられるようになっているようです。
                     (了)

つるべ落としのアベの夕暮れ

 7月7日~9日にかけて実施された世論調査の結果が、続々発表されている。現段階の判明分は以下のとおりである。

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「日テレNEWS24」7月9日20:02配信

 NNNが週末に行った世論調査によると、安倍内閣の支持率は前月比7.9ポイント下落して31.9%となり、2012年12月の第2次安倍政権発足以来、最低を更新した。
 安倍政権で入閣経験もある自民党のベテラン議員は、この支持率に「えー」と驚きの声を上げた。政府・与党内には危機感が広がっている。

「読売新聞」7月10日02:06配信

 読売新聞は、7~9日、全国世論調査を実施した。安倍内閣の支持率は36%で、前回調査(6月17~18日)の49%から13ポイント下落し、2012年12月の第2次安倍内閣発足以降で最低となった。

 不支持率は52%(前回41%)で最高となった。支持率は2か月で25ポイントの大幅下落となり、安倍首相は厳しい政権運営を強いられそうだ。

「朝日新聞」7月9日22:39配信

 朝日新聞社は8、9日、全国世論調査(電話)をした。安倍内閣の支持率は33%で、前回調査(1、2日)の38%から1週間でさらに下落し、第2次安倍内閣の発足以降、最低となった。不支持率は47%(前回42%)だった。

 調査方法が異なるため単純に比較できないが、支持率は2015年9月、安全保障関連法の成立直後の緊急調査での35%がこれまでの最低だった。不支持率も15年7月の緊急調査の46%が最も高かったが、今回はそれと同水準となった。

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 まさに、つるべ落としのアベの夕暮れである。

 安倍首相は、都議選最終日の7月1日夕方、秋葉原駅前の街頭演説で、聴衆の中の「安倍辞めろ」「安倍帰れ」と声をあげた人たちを指差し、「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだ。安倍政権に批判の声をあげている人たちは、国民の多数派であることがはっきりしてきた。「こんな人たち」の逆襲が始まっているのだ。

 安倍首相は、外遊日程を前倒しで帰国予定とのこと。「今もなお継続的に激しい雨が続いており被害の拡大も懸念される」からだと言われているが、本当は、自らを襲っている暴風雨の方が心配なのだろう。

 しかし、長靴を忘れず持参して被災地を歩いてみても、稲田防衛相や金田法相の首をすげかえてみても、もはや頽勢を挽回するのは無理だ。

 安倍政権は、特定秘密保護法、安保法制、共謀罪と、わが国を戦前に復帰させるような悪法を次々と強行成立させ、森友学園、加計学園をめぐる政権スキャンダルを独裁政権そのものというべき手法で幕引きしようとしてきた。そして、今、憲法9条改憲にまで踏み込もうとしている。

 国民の声は、安倍内閣退陣である。長靴やトカゲのしっぽでは、もう間に合わないのだ。

                   (了)

明治維新という時代

大西郷は永続革命をめざしたのか?(24)  最終回
 
(まとめ)その3


―アーネスト・サトウの見た最後の西郷の印象から―

 ながながと書き綴ってきた本小論も、いよいよ最後を迎える。

 ここで種明かしをしておこう。この小論のタイトル『大西郷は永続革命をめざしたのか?』は、橋川が引用した『現代の理論』1968年1月号の司馬・萩原対談中で萩原が発した「パーマネント・レボリューション」という一語からとったものである。

 萩原は、この対談から8年後の1976年10月から、「朝日新聞」夕刊で『遠い崖』の連載を開始した。この連載は、延々1947回という最長不倒距離を記録して、1990年12月に終わった。私も、時々、拾い読みしたことはあったが、本年3月、この連載ものをまとめた『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』(朝日文庫全14冊)を通読してみて、強い感銘を受けた。これほどに幕末・維新の時代を、膨大な資料を駆使し、広く見渡し、かつ深く抉った著作は、かつてあっただろうか。失礼ながら、司馬遼太郎の一群の幕末・維新を描いた諸作品と比べると、知的刺激力という点においてこの著作の方が格段に勝っていると私は思った。これは、歴史ドキュメンタリーと歴史小説というジャンルの違いにのみ帰せしめられないように思われる。

 『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の主要登場人物の筆頭は、なんと言ってもアーネスト・サトウである。最後の話に入る前に、彼が、どんな人物であったかざっと見ておくこととする。

 サトウは、1843年6月30日、ロンドンで生まれた。父は元スウェーデン人の貿易商で、ナポレオンの興亡時代に、スウェーデン、ドイツ、フランス、ロシアと国籍や住居を転々と変え、1825年以後イギリスに定住、イギリス国籍を取得した。サトウというと、日本名ではと訝る人もいるかもしれないが、そのスペルはSatow、日本名ではない。ハンザ同盟で有名なリューベックとロストックの中間あたり、バルト海に臨むところにヴィスマールという港町がある。そこにSatow(「種をまく人の村」という意味だとのこと。)という地名のところがあるそうである。サトウの出自はこのあたりのようである。
 サトウは、ロンドンのユニバーシィティ・カレッジで学んでいた18歳のとき、イギリス外務省の通訳生試験に合格、同校卒業と同時に、希望通り日本駐在を命じられ、1861年11月、イギリスを立った。途中、北京での研修があったりして、横浜に着いたのは、1862年9月8日のことであった。ここに在日本イギリス公使館日本語通訳官としてのサトウのキャリアが始まる。
 サトウは、類まれな語学力と探究心、それに誰よりも秀でた行動力を生かし、勝海舟をはじめ幕府要人、西国雄藩の諸大名やその近臣たちとの接触だけではなく、薩摩、長州を中心とする討幕派志士たちと交わりを持った。その中には、勿論、西郷もいれば、大久保、伊藤もいる。サトウは、こうした活動を通じて、イギリスに、対日政策策定のための貴重な情報をもたらした。
イギリス公使パークスは、本国の指示もあって、公的には、幕末動乱期にも外交実務においては条約締結当事者である幕府とのパイプは維持するが、政治的には、幕府、討幕派のいずれにも加担しないという慎重な姿勢をとっていた。しかし、サトウは、自由奔放に活動し、来日後間もない時期に著した「英国策論」で、日本の主権者は天皇であり、大君(将軍)は、多くの大名諸侯のうちの首座の位置にあるに過ぎないと論じ、討幕派志士たちの間に、イギリスは討幕派に好意的であるとの風評を高めた。
 サトウは、1870年、日本語通訳官から日本語書記官に昇進、名実ともに在日本イギリス公使館の対日外交実務を取り仕切る地位につく。それから25年後の1895年7月に、駐日公使となり、三国干渉の時代に、後に日英同盟に発展する良好な日英関係形成に努めた。しかし、サトウの真骨頂は、なんと言っても西欧における当代随一の日本学者であったことである。
 サトウは日本女性との間に二人の子をもうけている。二男は武田久吉。著名な植物学者であり、日本山岳会の創立者でもある。

 さて、そのサトウが、1877年2月、一触即発状態にある鹿児島の情勢視察と、旧友で鹿児島県立病院の院長として病院経営と医師の指導・教育にあたっていたウイリアム・ウィリスの状況確認のために、鹿児島に赴いた。到着は、2月2日のことだった。既に、現地は、警視庁大警視川路利良が送り込んだとされる警官らの摘発が進み、西郷暗殺計画なるものが既定の事実となって鹿児島士族を激昂の渦に呑みこんでいた。私学校生徒による陸軍砲兵廠の火薬庫襲撃も起きていた。動乱はもはや止めようがなくなっていた。

 2月11日、西郷は、ウィリス宅を訪ねてきた。ウィリスが面談を申し入れていたからだが、おそらく旧知のサトウが、はるばる鹿児島まで来ていることを知って、別れの挨拶をしておきたいということもあったであろう。サトウは、このときのことを次のように日記に書きとめている。

 「西郷には約二十名の護衛が付き添っていた。かれらは西郷の動きを注意深く監視していた。そのうちの四、五名は、西郷が入るなと命じたにもかかわらず、西郷について家の中へ入ると主張してゆずらず、さらに二階へ上がり、ウィリスの居間に入るとまで言い張った。結局、一名が階段の下で腰をおろし、二名が階段の最初の踊り場をふさぎ、もう一名が二階のウィリスの居間の入り口の外で見張りにつくことで、収まりがついた。」
 「会話は取るに足りないものであった。」


 これは西郷の出陣六日前のことである。

 ようやく結論を書くときが来た。西郷は、決して自ら立ったのではない。旧知のなつかしいサトウ、戊辰戦争末期に傷病を負った薩摩藩兵の治療でひとかたならず世話になったウィリスとの別れのあいさつの場にさえ、護衛という名の監視下に置かれ、「取るに足りない」会話しかできなくなっている西郷は、もはや決起した鹿児島士族の虜囚にしか過ぎなかった。

 西郷は、幕末・維新の時代を一革命家として駆け抜けた。しかし、それは明治六年の政変までのことであった。西南戦争は、西郷にとっては永続革命の戦場ではなかったのである。

 提一灯行暗夜   一灯をささげて暗夜を行く
 勿憂暗夜     暗夜を憂うることなかれ
 只頼一灯     ただ一灯を頼め


 これは江戸時代の儒者・佐藤一斎の『言志晩録』にある言葉である。西郷の座右の銘だったという。1877年2月17日に出陣してから、同年9月24日、城山に果てるまで、西郷の脳裏に、この言葉が去来することはもはやなかっただろう。

                       (完)
プロフィール

Author:深草 徹
1977年4月、弁護士登録。2013年4月、セミリタイアして4年。歳を重ねましたが、「これからも、社会正義の話を、青臭く、続けよう」と思います。

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